コガラシ
亜米青
「もしもし、あなた、コガラシさんでしょ」
「違います」
最初は無視したが、相手は前に回り込んでしつこく問い詰める。
「間違いないわ。その目の横にある真っ黒いホクロよ。返して、返せ!」
繁華街の路上だ。相手は、四十才前後のふくよかな女性。美形にはほど遠いが、スタイルはいい。
しかし、まだ思い出せない。「凩」を名乗っていたのは、十数年前。まだ、まともな仕事についていた頃だ。
通りすがりの男女が、おれと女性を見ていく。じろじろと面白そうに見るものや、通行の邪魔だといわばかりに睨みつける者も。
「お嬢さん、お話はよくわかりました。私からも少しお伝えすることがあります。落ち着いてお話するのはいかがですか?」
女性の顔付きが変わった。やさしくニッコリした。と、般若顔の下から、ほんの少し美形が覗いた。
「お嬢さん」が効いたとは思えない。こちらが逃げないと感じたのかも知れない。
ここは池袋だ。そういえば、凩の頃、よく入り浸っていた喫茶店がある。数ヵ月前、久しぶりに入ったら、かわいい娘がいたので、週に一度は通うようになった。
喫茶「オマール」。ビルの壁にその看板が見える。
オマールのドアの前に近付くと、中からミイちゃんがおれを見つけて、ドアを開けてくれた。
自動ドアだが、ドアの取っ手部分に触れないと開かない仕組み。人通りが多いため、ふつうの自動ドアではセンサーが働きすぎ、お客でない通行人に対しても反応するから、去年マスターが取り換えたという。
ミイちゃんは、おれの後ろから同年代の女性がついてくるのでギョッとした。そういえば、おれが連れと来るのは初めてだ。
おれと女性は、ミイちゃんの案内で、奥まった窓際のテーブルについた。
オマールは、30名で満卓になる、この界隈では比較的小さな店だ。ウエイトレスは、ミイちゃんを含め4人だが、休みをとる関係で店に出ているのは常時3人。ほかにキッチン担当が二人いて、交替で出勤している。
マスターはおれより10才ほど上の好男子だが、滅多に現れない。おれも、まだ3度しか見たことがない。
ミイちゃんがオーダーした飲み物を持ってきてくれたところでおれから切り出した。
「私には双子の弟がいます。それで、ときどき間違われるのですが……」
双子はこういう場合の、おれの常套手段。
コーヒーカップを口に運んでいた女性が、フッとおれの顔を見る。
この店のコーヒーはうまい。値段以上の値打ちがある。マスターが金儲けにあまり執着がなく、いい豆を選んで仕入れているからだ。
女性もおれと同じコーヒーを注文している。
「でも、あなたコガラシさんでしょう?」
「いいえ、私は大賀美といいます」
おれは、名刺入れから、「生活コンサルタント 大賀美尚介」と印刷している名刺を抜き出し、彼女の前に置いた。
「大賀美さん……」
彼女がたった一枚しかない大賀美の名刺を取り上げ、目に近付けて見ている。かなりの近視のようだ。近視の女性の目は美しいという者がいるが、彼女もその口かもしれない。だから、眼鏡を掛けたくないのだろう。
「いま名刺を切らしていまして、それしかありません。この後の仕事に……」
彼女が名刺をハンドバッグにしまおうとしたので、おれは慌ててそう言って取り戻した。
証拠は残さない。
「お嬢さん、お名前は……」
名前を聞かないことには話にならない。顔に記憶がないのだから。
「わたし、お嬢さんではありません」
「では、結婚なさっておられるのですか」
「結婚はまだです……」
結婚していないのでなく、「まだ」とはその意志が、まだある。見かけによらず、ずっと若いのかも知れない。しかし、名前を言わないといつまでもお嬢さんだが、
「わたし、磯川波江です」
フルネームで名乗ったのは、それだけこちらを信用している証しか。いや、それはない。
「磯川波江さん。では、お話します。私はコガラシではありませんが、コガラシを知っています。昔です。私はコガラシと似ていることから、トラブルに巻き込まれたことがあります」
波江の顔が一瞬輝いた。
「私が二十四、五才の頃です。当時、探偵社で調査活動をしていたのですが、同僚に凩(こがらし)という私より二つ三つ若い男がいました」
「それ、その男よ」
波江は、得たりとばかり勢いづくが、何を根拠に自信が持てるのか。さっぱりわからない。おれが凩でなくても困らないようだ。
「さきほど、路上で『返せ!』とおっしゃっておられましたが、凩に何か奪われたということでしょうか」
「あなた、取り返していただけるの?」
「必要でしたら。私は生活コンサルタントです。その種のご相談にものっています」
「凩さんの居場所がわかるのね」
「手掛かりはあります」
「じゃ、お願い」
「取り返したいものは?」
「ハート」なんて言ったら、テーブルを蹴飛ばしてやる。
「娘よ。ことしで十三才になっている」
「娘さん!?」
おれは、自分の過ちをさかのぼってみた。
おれは結婚はしていない。したこともない。同棲は一度ある。期間は二か月。その間は、こどもはできなかった。というより、双方の合意で、つくらなかった。
ほかに、交際した女性は、六人。こどもができていても不思議はない。しかし、おれに黙ってこどもを産むようなバカはいなかった。
目の前の女性に記憶は……やはり、ない。
「あなたが産んだお子さんですか」
確認のためだ。まだまだこどもが産める年齢だろうが、何かの事情で産めなくなったのかも知れない。
「あなた、頭がおかしいンじゃない。わたしの前の夫のこどもッ。愛人に産ませたこどもヨ!」
待ってくれ。だったら無関係だ。つまり凩と関係ない。探索は不可能だ。
「波江さん、このお話はお請けできません。悪しからず」
こんなことで時間を無駄にしたくない。このコーヒー代さえ惜しくなった。
ミイちゃんがこっちを見ている。彼女とはまだ一度もデートをしていない。一回り年の違う男が相手でも、誘えば応じてくれるだろうか。
「あなた、凩さんでしょ」
「ですから、凩は昔、同じ職場にいた私の元同僚です。出来の悪い……」
「別れた夫がこうを言っているの。昔、同じ大学で親しかった凩が、オレが別れた女と一緒になった、って」
「どういうことですか」
「あなた、相当、おつむの出来が悪いわね」
大きなお世話だ。話を続けろ。
「わたしの前の夫の愛人が、夫と別れて凩と一緒になった。そうしたら、まもなく愛人が女の子を産んだ。その女の子は夫のこどもなの。だから、返して。わたしはこどもが産めなくなったから、その子を育てるの」
「その愛人だった方のお名前は」
「亜伊子、麻川亜伊子よ」
やはり、そういうことか。
あの亜伊子はおれと同棲する前、別の男と不倫していた。しかも、妊娠。おれはそうと知らずに同棲した。しかし、その同棲も、二ヵ月で解消している。
おれは亜伊子が妊娠したことも、出産したことも知らない。聞いていない。
亜伊子はいまどうしている? 十数年前だ。波江の話が本当なら、亜伊子はおれと別れたあと、こどもを産んだことになる。
その後、亜伊子と連絡は……思い出せない。
「しかし、そのお子さんがいるとして、ご主人のこどもであると、断定できるのですか?」
もっともだ。我ながら、よく気づいた。しかし、
「わたしの前の夫が言っているのだから、間違いないでしょ。どこの男が隠し子がいると白状しますかッ。それに、わたしの前の夫は正直者です。あなたとは違います」
正直者! 聞いて呆れる。女房に内緒で浮気する男が正直者か。
しかし、この女、前の夫に、よほど未練があるらしい。
「麻川亜伊子に関する情報がもっとありませんか。前のご主人に会わせてください」
おれの大学時代の友人というが、本当かどうか。
「それは出来ないわ」
「どうして」
やはり、眉唾か。
「この半年入院しています。重い病で。最近病状が悪化して、わたしが呼ばれたの……」
「では、凩の写真をお持ちですか」
「いつもスマホにいれて持ち歩いているわ。あのひとにこどもがいるとわかってから……」
波江の夫が重度の糖尿病で病院に運びこまれた。病院の事務から身元保証人を求められた彼は、波江の名前を告げた。ほかに親身になってくれる人を思いつなかったのだろう。波江は捨てられた男の求めに応じて病院に駆け付けた。
彼は別れた女が独身で、寂しい生活を送っていることを知らされた。
「こどもでもいれば……」
と波江がつぶやいたことばに、彼は、つい「いる」と応えてしまった。
あとは、やむなく引き出した情報のようだ。
波江の前夫は、二人の別れの原因にもなった亜伊子という女が、その後こどもを産んだという噂を聞いた。亜伊子が凩という昔の友人と一緒になったことも。
波江は凩の顔写真を持ち歩き、似た男がいると片っ端から声をかけ、「返してッ!」と叫んできたようだ。
波江がスマホに保存している「凩」の顔写真は、横顔でおれのものだが、どこでだれが撮ったものかは知れない。十年以上前だから、似て非なるものとも言える。
おれは単に運が悪かったということか。ミイちゃんの顔が見たくて、池袋に出てきたのがよくなかった。
波江の話は話半分にしておいたほうがいい。
「お話はよくわかりました。では、出来るだけ、調査してみましょう。亜伊子という女性を探し出し、その娘を見つけます」
「当然だわ」
「ただ、私は調査を仕事にしています。料金が発生します」
「いくら、欲しいの?」
上から目線で、料金を尋ねられるのは気持ちのいいものではない。ふっかけてやるか。
「前金二十万円。経費は実費。調査費用は一日につき、二万円。成功報酬として、三十万円をいただきます」
「それだけ? いいわよ」
金は持っている。そうだろう。前の夫の隠し子を育てるというのだから、かなりの資産家とみていい。
「ただ、きょうあなたに会えるとは思っていなかったから、持ち合わせがない。いまからそこの銀行のATMで降ろしてくるから、ここで待っていなさい。逃げるンじゃないわよ」
波江はそう言うと、窓の外に見える銀行のATMに駆けて行った。
だれが逃げる? そんなに金があるのだったら、倍の金額にするンだった。おれは、いつも料金設定で失敗する。人がいいンだ。亜伊子もおれを、「お人よし」と言っていた……。
「シンちゃん、どうしたの? いまのオバさん、いいおしりしていたわ。ああいうの、好みなの?」
ミイちゃんだ。話を聞いていたのか。
「仕事だよ。調査の……。元旦那の隠し子を捜して欲しいらしい」
「ヘェー、おもしろい」
おれは、ミイちゃんのかわいい目を見ながら、波江の前夫のことを考えていた。同じ大学で親しかった……。おれと親しかった学生で磯川という男に記憶はない。
「お待たせ……アァ、疲れたわ」
波江が戻ってきた。息を切らせている。
「はい、とりあえずこれだけ。領収書を書いて」
波江は目の前のテーブルに、バックから札束をとりだし、それをすばやく数えると、
「ハイ、30万。足りるでしょ。残りの20万は、わたしのお小遣い」
ATMから限度額いっぱい引き出してきたのだろう。
おれは、常時持っているバッグから名刺と領収書をとりだし、着手金として\300,000と記入し、現金と取り換える形でテーブルにその領収書を置いた。
「失礼ですが、奥さまの旧姓は?」
「ナニ言っているの。わたしは代々磯川よ。前の夫は婿養子」
やはり。記憶にないわけだ。
「ご主人の旧姓をお教えください」
波江の前夫は、「岩倉」だった。岩倉なら覚えている。「なかよし倶楽部」というわけのわからない同好会で、数ヵ月一緒だった。
20年近く前の数ヵ月のことをどうして覚えているかというと、岩倉は当時から女癖が悪く、同好会の基地として使用していたスナックで、いやがる年下の会員女性にキスを迫っているところを目撃したからだ。そのスナックは夜しか営業していず、昼間は空いていたのだが、カギを持っていたのは、スナックママを除けば、彼女と親しい岩倉だけだった。
調査は簡単そうだ。岩倉などどうでもいい。亜伊子を捜せばいいのだから。
おれと亜伊子は、その頃、山手線のN駅前にあった興信所で一緒に働いていた。その興信所は昔、紳士録の出版で利益をあげていたが、創業者の社長が亡くなったのを機に、社長業を継いだ夫人が個人情報保護などの社会風潮などもあって紳士録出版から撤退、調査業務一本に絞った。
しかし、調査といっても、企業の人事担当とのつながりはなく、もっぱら浮気や家出、身上などの個別調査に限られていた。おれは新米探偵、亜伊子は総務で電話番やお茶出しの担当だった。
しかし、調査の依頼件数は先細りで、おれは入社して一ヵ月で、辞めどきを考え、おれより半年ほど先輩の亜伊子に相談をもちかけていた。別に亜伊子から知恵を借りるのではなく、相談は、美形の亜伊子と話がしたい、その口実にすぎなかった。
ところが、退社するより早く、亜伊子と関係ができ、同棲。そして入社から二ヵ月で退社した。
おれは亜伊子と二ヵ月強で別れた後、生活コンサルタントといういい加減な仕事を始めた。
亜伊子の消息は知らない。
亜伊子との同棲は、おれが亜伊子のマンションに転がりこんで始まった。
おれのアパートの隣人の部屋から出火。火はまもなく駆け付けた消防車が消してくれたが、自室が水浸しになり、使えなくなった。
その頃、ちょうどおれは亜伊子と関係して二週間ほど経ったときで、深夜だっだが、事情を話して亜伊子のアパートに押し掛けた。
すると、居心地がよくなって、自分のアパートが住めるようになっても、そのまま居ついてしまった。なぜなら、亜伊子の部屋は1ŁDKと狭いが、清潔で、第一片付いていた。
整理の苦手なおれの部屋は、狭い六畳に脱ぎ捨てた衣類や読み終えた雑誌、DVDなどが乱雑に置かれ、足の踏み場もない。
おれは亜伊子の部屋に初めて入ったとき、これはメルヘンの世界だと思った。華やかで、夢があり、楽しくて、はしゃぎたくなる。
そして、同棲二ヵ月が過ぎたある日、突然亜伊子が、蒼ざめた顔で、
「出ていって欲しい。明後日には、あなたの痕跡が一切この部屋にないようにしたいから」
と、言った。
理由を聞いても答えない。もっとも、おれにはそれを拒否する資格がない。
おれの持ち物といえば、数少ない衣類だけ。生活費は、部屋代から食費、光熱費、すべて亜伊子におんぶしていたから、厄介者には違いない。掃除、洗濯を手伝うわけでもなく、昼間外に出て、日が暮れると亜伊子のマンションに帰り、亜伊子のつくる手料理を食べる。
亜伊子がいやになるのも当たり前。おれはそう思ったから、黙って従った。
その頃、おれは興信所をやめて、別の探偵社にいた。同棲している女と同じ職場にいることに違和感があったからだが、それが亜伊子には不満だったのか。それはわからない。亜伊子がその後、どういう暮らしをしていたのか、はっきりしたことは知らない。
それから、半年ほどたった頃、亜伊子の固定と携帯に電話を掛けたが、ともに番号を変えたのか通じなかった。マンションも変えているだろう。
ただ一つの手がかりは、おれや亜伊子が勤めていた興信所だ。
まだあるのかどうかは定かではない。山手線のN駅のホームから見える雑居ビルに入っていたから、山手線に乗りさえすれば確認できるが、辞めて以来、あの付近に用事がなかったため、ぷっつり寄り付かなくなっている。
「凩新太郎」は、あの興信所を辞めてからは、滅多に使わない。懐かしい名前になった。
「大賀美尚介」は、使い始めてまだ一年もたたない。これまでも、いくつか、変名を使ってきた。「的場佳樹」「川岩学」「黒石結城」「花城幾多」などなど。
会社勤めだと給与が銀行振り込みになるため、口座名と氏名が一致しないと厄介だが、おれのいまの仕事は現金決済ができるので、いろいろな名前を自由に使うことが出来る。
磯川波江と別れたあと、その足で、十数年前二ヵ月勤務した「あけぼの興信所」に向かった。
山手線のN駅で降り、ホームから見覚えのある七階建て雑居ビルを眺める。
ビルはあるが、二階と三階の窓ガラスの全面を覆っていた「あけぼの興信所」の看板文字がなくなっている。
しかし、ビルのオーナーは最上階の七階を事務所にしていたから、訪ねれば手掛かりはあるだろう。
と、背後から、
「シンちゃん、どうしたの?」
ミイちゃんだ。キミこそ、どうしたんだ。こんなところに。
「ミイちゃん、お使い?」
おれはなんでもない風を装う。男が若い美女にいきなり声をかけられたぐらいでうろたえるのは、よくない。
「なに言ってんの。きょうは早番なの。シンちゃんがお店を出てから走って追いつこうとしたのだけれど、ダメだった。結局、一本あとの電車に乗ったら、この駅にいるンだもの。驚いたわ」
そうか。ミイちゃんは、N駅が最寄り駅だったのか。
「ミイちゃん、ちょっと寄り道しないか?」
「いいわよ。一度、お話したかったから」
二人で仲良く改札口を出る。
「いいお店知っているから……」
「その前に本当の寄り道につきあって欲しい」
「どういうこと?」
おれは、ミイちゃんを連れ、懐かしい雑居ビルのエレベーターに乗った。
「ずいぶん古びたビルね。エレベーターだって、ガタガタ音を立てているし。落ちない?」
「かも……」
「やめてよ」
ミイちゃんがおれの胸をポンとたたく。快い。一回り年下の女性にこつかれるのが、こんなに気味がいいとは。
言っているうちに、七階に着いた。
降りて右に厚い鉄のドアがある。記憶通りだ。当時、社長の指示で、訪ねたことがある。なんでも、電気料金が不当に高くなっているから、メーターの故障ではないかと苦情を告げに行った。
「どうぞ」
インターホンを押すと、中から声がして、要件も聞かずにドアを開けてくれる。
「外にいる?」
急に怖気づいたのか、尻込みするミイちゃんに声をかける。ひとり外に残す方が心配だから、
「こんなおれでも守れるから」
おれは拳を作って、入ろうと促す。少林寺拳法を五年やっていたのは伊達ではない。
内部は意外に広い。二十畳はありそうだ。もっとも、ビルのワンフロアを使っているのだから、当然か。
あけぼの興信所が入っていた二階と三階は、ワンフロアが二室に区切られていたから、狭かった。
「どなたか、わからないが、訪問者はウエルカムです」
恐らく古稀は過ぎているだろう。十数年でこれだけ老けるものだろうか。記憶にあるビルオーナーは、五十代半ばの張りと艶のある肌をした、細身の男性だった。
しかし、大きな木製机を前に腰かけている人物は、でっぷりと太り、頬、下瞼、眉など、顔の造作は全てと言っていいほど垂れ下がっている。
「私は、昔、このビルで働いていた者です」
「そうですか。で、お隣の女性は?」
「交際中の女性です」
「どうぞ、お掛け下さい」
オーナーは壁際にある大きなソファを示す。
「お伺いしたのは、昔このビルにあった『あけぼの興信所』のことで……」
「あれですか。五年前に倒産しました。このビルではいちばん古手の店子でしたが、ちょっともめてね。『あけぼの』というのも、このビルが『あけぼのビル』という名前で、社長がビル名を借りたいというので承諾したわけで」
そうだ。入社時は社長がビルの所有者と思い込んでいた。不特定多数の客を呼び込むには、会社を大きく見せる必要がある。興信所や探偵社ではよくやる。
「あけぼの興信所で受付をしていた、麻川亜伊子という女性ですが、覚えておいでですか?」
「あなた、彼女とどういう関係ですか」
意外だった。ビルのオーナーが、店子の会社の一従業員を知っていた。おれは滅多に使わない「凩新太郎」の名刺を差し出した。
「凩さん。これは私の……」
そういってビルオーナーは、「あけぼのビル 管理代表 曙竜之介」と書かれた名刺を寄越した。
「麻川亜伊子と昔一時期、暮らしていたことがあります」
おれは、「凩」の名刺を丹念に見ている曙に言った。
「あんたがッ」
曙は驚いた顔をして、話し出した。
「亜伊子は亡くなった私の妹の娘です。その頃社長に事務ができる女性を紹介して欲しいと言われていて、ちょうど学校を出たばかりの亜伊子が、私の仕事を手伝いたいと言っていたのを思い出したから、興信所はどうかと勧めてみたのです」
亜伊子はそんな話は一度もしなかった。亜伊子が、広くはないが、新築の分譲マンションに暮らしていたのは、お金に困っていなかったからだ。
「でも、私は彼女と二ヵ月ほどで別れました。捨てられたのです」
おれがそう言うと、部屋の周りを見ていたミイちゃんがチラッとおれを見た。
「こちらにお伺いしたのは、ある依頼を受けて、亜伊子さんの娘さんを捜しています」
「亜伊子の娘? 冗談だろッ」
曙が怒ったように言う。
「亜伊子に娘なんかいないッ。いれば……」
曙が哀しい表情をした。おれは、とんでもない間違いをしたらしい。
「亜伊子は一度も結婚をしていないし、ましてこどもはいなかった」
「亜伊子さんは、いま?」
いやな予感がして、聞かずにいられない。
「亡くなった。もう三年になる」
知らなかった。気にかけていたわけではなかったが、心のどこかに空洞ができたような気分になった。
「ご病気ですか。それとも事故……」
しかし、曙は思い出したくないことに触れたのか、無言になった。
最後に、
「帰ってくれ。いいから、帰れ!」
おれはミイちゃんを促し、外に出た。
すべて、岩倉がついたウソだった。つきあいはあったのだろうが、一時的なものだ。おれとのつきあいのように。
「これからどうするの?」
ミイちゃんが聞いた。
「ミイちゃんとコーヒーを飲んで、それから考えるよ」
30万円というあぶく銭があり、懐は豊かだ。しかし、反対に心の中は殺伐として弱っている。
亜伊子には会いたくても会えない。亡くなるというのはこういうことなのだ。急に亜伊子が恋しくなり、亜伊子が哀れになった。
少し時間をおいて、もう一度あけぼのビルを訪ねよう。亜伊子の墓参がしたいと申し入れ、亜伊子がおれとの同棲を突然解消した理由を探ろう。
二ヵ月は早すぎる。亜伊子は両親について、二人が出会う二年前に亡くなったと言っていた。そのことと関係があるのかも知れない。
「シンちゃん、わたしが亜伊子さんの代わりになってあげると言ったら?」
「エッ」
冗談だろッ。彼女の顔がそう言っている。
「それより、ミイちゃんの名前を教えてくれないか。みんながミイちゃんと呼んでいるから、ぼくもミイちゃんと呼んでいるけれど……」
「いいわよ。下の名前は、ミイ」
「だったら、苗字は?」
「苗字はね……」
ミイちゃんは、まっすぐ前を見ながら、目を凝らした。
「アイマイ」
「なに、アイマイって、曖昧模糊の曖昧? ぼんやりしている、ってことだろう」
「そうよ。わたしって、いつもぼんやりしているもの」
「曖昧ミイ……! 英語のI my meじゃないか」
「いまから、その喫茶店でコーヒーを飲むンだから」
目の前に「アイマイミイ」と表記された看板が見えた。
ミイちゃんは何かの事情で名前を言いたくないのだろう。おれだって、ひとのことは言えない。だれにも秘密がある。亜伊子にも秘密があった。
しかし、その秘密を暴いてはいけない。その秘密を暴こうとしたから、亜伊子はおれを見限ったのかもしれない。
おれは、亜伊子が前につきあっていた男が知りたくて詰め寄ったことがある。しかし、亜伊子は答えなかった。その男がおれの大学時代の知人だったから、なのか。わからない。もっと、大きな秘密があったのか。妊娠は事実だったのか。
出産していないということは……。
やめよう。そんなことを知ってなンになる。
「ミイちゃん。コーヒーのあとは夕食にする?」
「さあ。あなたの態度次第。わたし、しつこいのは嫌いだから」
その点は大丈夫だ。おれは淡白すぎるとよく言われる。亜伊子にも未練を残さなかった。それが、いまでは後悔のもとなのだが。
「ミイちゃんの家はここから近い?」
「当ててみて」
「さっき駅で会ったとき、話したいことがあると言ってたよね。その話が聞きたい」
「それはお酒を飲みながら」
「だったら、アイマイミイは今度にして、居酒屋に行こう」
二人は回れ右して、あけぼの興信所があるビルの前の通りに戻った。
百メートルほど、飲み屋をはじめ雑多な店が並ぶ。
ミイちゃんが左右の飲み屋を覗きながら、
「あけぼの興信所にいたとき、亜伊子さんと通ったお店に行きたいンでしょう?」
そのつもりだが、ずばり言い当てられるといい気がしない。
「シンちゃん、その店で、壁に貼ってあったタレントの色紙に、『凩新太郎、麻川亜伊子』って書き足してお店のマスターに叱られたでしょう」
おれはギクッとなった。そういえば、そんなことがあった。亜伊子のような美女と二人きりで居酒屋にいることに感激して、お店に対してけしからんことをした。
「わたし、シンちゃんの名前を知ったとき、あの色紙のバカとすぐに結びついたわ。凩って、名前は珍しいから」
だから、凩は使いたくない。悪いことをすると、すぐに覚えられる。
「わたしがあなたのことシンちゃんと呼ぶようになったのは、その色紙を見ていて下の名前を知っていたからよ。ヘンに思わなかったの」
気がつかなかった。だれかから聞いたくらいにしか考えなかった。
「ということは、おれとミイちゃんは昔からつながりがあったということか」
「そういうことになるわ。ここよ、入るね」
縄暖簾は昔のままだ。
おれはミイちゃんに続く。
あの色紙はどうなっている。
「そんなの、もうないわ。店主が変わったもの。代わりに……」
「代わりに?」
ミイちゃんはおれの問いを無視したまま、顔見知りらしい店員に目配せして、なかほどのテーブル席についた。
ここで飲んでどうなるのか。日が落ちるまで、まだ時間がある。この店は朝からやっている人気店だ。
外が暗くなったら、どうする。いまから考えることではないか。
「何にする」
ミイちゃんと初めて向かい合わせになった。メニューとおれを交互に見るミイちゃんが、たまらなくすてきに見える。
三十数分後。
二人は、かなり飲んだ。おれは酔いが相当きている。
「ミイちゃん」
「なァに?」
「おれたちお互いよく知らないよね」
「そうね」
「知っているのは、名前くらい」
「それも、あいまい、みい……」
「男女のつきあいって、こんな形で始まっていいンだよね」
「自信ないみたいね」
「自信はなくてもいいけれど、ミイちゃんの関心は欲しい」
「関心だけでいいの?」
「そりゃァ……」
こんな会話をしていたら、いつまでも終わらない。
「シンちゃんはこの店、久しぶりでしょ」
「あけぼの興信所を辞めてから初めてだから、十数年ぶりかな」
「だったら、知らないわね。この店は各テーブルに名前がついているの」
「エッ」
店内はテーブルが十数卓ある。
「このテーブルの名前、わかる……」
おれは、四角いテーブルを隅々まで見た。しかし、名前らしきものは見当たらない。
「左隣はカッちゃんでしょ。右隣はケンちゃん、後ろはテッちゃん、だから、ここは……」
「ミイちゃんッ」
「当たりィ!」
店員に目配せしたのは、その意味か。自分の名前と同じテーブルに案内してくれという。
ところが、
「ウソよ。ここはお客が好きな名前をその日だけつけていいの。だから、今夜このテーブルはミイちゃんそれとも……シンちゃんに、しとく?」
こんなことでいいのか。いいのだッ!
「で、話って何だよ?」
「もっと飲んでからにする。つまらないことだから。凩って、本当の名前じゃないンでしょ。本当のことを言ったら」
「コガラシ……いい響きだ。どうしてこの名前を使いだしたのか、よくわからない……」
「だめよ。ここで寝るな。シンちゃん、シン、シンボウ、シンキチ……」
ミイちゃんにほっぺたを叩かれて心地いい。
おれはミイちゃんに抱かれている自分を妄想して、たまらなくいい気持ちになっている。
(了)
2021.1.9.