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讃岐うどんと競艇と主夫とサイン&ディスプレイのお仕事~

合い言葉ゎヤクルトジョワ(o_ _)ノ彡☆ポムポム



Ob-La-Di, Ob-La-Da♪♪

┓( ̄∇ ̄;)┏


しかし~全然当たらんよね~

1-2-4 と買えば

2-1-4 (つд`)


じゃ~次ゎ裏表買おうっと思って

1=2-4 を買うと

1-4-2 Σ(`□´/)/


人生なんて…ラ・ラ・ラやなwww



岩田神社の藤まつりに行きました~


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満開~(`・ω・′)♭

最後まで頑張って読みましょう~www

岩田神社は、県道檀紙鶴市176号線と高松丸亀33号線にはさまれた、本津川の東側に鎮座する安産にご利益のある神社。
孔雀藤が有名で、藤棚は10m×24mで、この広さを1本の藤の大樹が枝を広げている。
2m近い花房を一度見たいと計画をするのだが、花の期間が短いのと、天候が悪くなったりと、なかなかタイミングが合わない。

由緒(香川県神社誌)
治承二年(紀元一八三八)八月の創祀。舊くは飯田郷(鶴市、郷東、飯田、檀紙)四ヶ村の産土神にして現今の檀紙村大字御厩も亦氏子たりしこと明なり。
社領二石二斗ありて国守松平氏の寄進する所とす。
崇徳天皇當国綾松山に遷らせ給ひし時、唐渡左門雅基従ひて當国に来る。 雅基の先は後漢霊帝四世の孫高貴王なり。
高貴王丹波国に移り、其の裔康頼丹波宿禰の姓を賜ひ醫博士となり、子孫世々典薬頭たり。
故を以て雅基崇徳天皇に従ひて讃岐に来る。
天皇崩御の後、雅基の子助左衛門尉信宗飯田郷に移住し當社を創立す。
勧請導師は長尾郷寶蔵院朝算なり。
信宗が宅址今猶飯田にあり。建仁元年、二年、承応元年、正安二年、貞和五年社殿の修造あり。
貞治二年三月五日細川頼之参拝して親しく奉幣せり。應永十年八月修造ありしが、應仁元年兵火に罹り、同二年再建す。
天文十九年十一月二十日火災ありて本殿、拝殿等焼失せしが、祠前の大藤はその災を免る。
この藤樹飯田の藤とて名あり。天文二十一年二月飯田領主飯田主水願主となりて再建し、同年九月西坊を建立して社僧となす。(西坊は寛永元年蓮香寺と改称す)
天正十九年霜月飯田領主築城三郎左衛門尉領主となりて再営(全讃史に築城三郎左衛門始祠之とあるは誤)
次で慶長十六年正月造営あり。寛永七年雪月築城氏の後裔上村半右衛門尉良信願主となりて再営す。正保四年願主唐戸興次右衛門再建、寛文四年願主唐渡興五右衛門尉等修造、寛文八年九月命によつて各末社の合併あり。(享和元年頃各部落へ還遷せり)其の他享保十五年本殿再建、寶暦四年拝殿、神楽殿、随神門、御旅所の再興、明和三年、天明二年の本社再建、天保十年本殿、拝殿の大修造ありて天正以降の棟札を存せり。
弘化二年八月松平頼顕自筆の扁額及び永年神燈雪洞の奉献あり。
明治五年一月郷社に列せられ、大正二年九月二十日神饌幣帛料供進神社に指定さる。
昭和六年三月三日御鎮座七百五十年祭を執行せり。

最後まで読みましたか~www


こないだ夢屋で買った 大辛せんべい一味味~


めっちゃ辛くて一口でやめました~( ̄▽ ̄;)


一口しか食べてないのに今日の朝 大変でしたwww

どんなけ辛いんやヾ(--;)


今日ゎ丸亀お城まつりにバリイさんに会いに行きます~

(`・ω・′)♭