日本の歴史教育では、小学生段階から日清戦争を扱い、日本はこの戦争に勝って清から賠償金を取り、台湾を日本の領土にしたことを教えているが、日本が日清戦争をたたかった真の目的を教えていない。

 戦争に勝った国は、講和条約の最初の条文にその国が最も欲することを書き込む。
日清戦争の戦勝国である日本が日清講和条約(下関条約)の第一条に書き込んだのは、領土でも賠償金でもなく、

「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」

という文言だった。

日本が最も求めていたのは、朝鮮国の清国からの独立だったのである。

なぜか。


◆半島に自主独立国家を期待

 欧米列強の脅威にさらされていた明治の日本は、自国の安全を確保するため、朝鮮半島に自主独立の近代化された国家が成立することを強くねがった。

福沢諭吉は次のように論じた。

「いま西洋が東洋に迫るそのありさまは、火事が燃え広がるのと同じである。この火事から日本という家を守るには、日本の家だけを石造りにすればすむというものではない。近隣に粗末な木造家屋があれば、類焼はまぬかれないからである」

日本、朝鮮、清国という、お互いに隣り合う家屋の安全のためには、隣の家の主人を半ば強制してでもわが家に等しい石造りの家をつくらせることが必要である、というのが福沢の考えであり、明治政府の考えでもあった。
近代日本の置かれた立場を理解させない歴史教育は教育の名に値しない。


◆朝鮮語を「奪った」との謬論

 李朝時代の朝鮮が「粗末な木造家屋」であったことは、朝鮮の外交顧問であったアメリカ 人のスティーブンスさえ、日露戦争のあとで、次のように述べていたことからわかる。

 「朝鮮の王室と政府は、腐敗堕落しきっており、頑迷な朋党は、人民の財産を略奪している。そのうえ、人民はあまりに愚昧(ぐまい)である。これでは国家独立の資格 はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地にされるであろう」

 朝鮮の近代化は、日韓併合後の日本統治によって初めて実現した。

日韓併合100周年に当たっての菅直人首相の謝罪談話を推進した仙谷由人官房長官は8月4日、日本の

「植民地支配の過酷さは、言葉を奪い、文化を奪い、韓国 の方々に言わせれば土地 を奪うという実態もあった」

と発言した。あまりの無知に開いた口がふさがらない。

ここでは、日本が朝鮮人から「言葉を奪った」という官房長官の妄想についてだけとりあげる。

 日本統治時代、朝鮮半島に在住した日本人は、人口の2%に過ぎない。
2%の人間がどうして他の98%の人間から、土着の言葉を「奪う」ことができるのか。

 仙谷氏は、日本統治下の学校で日本語 が教えられたことを、誤って朝鮮語を「奪った」と一知半解で述べたのかもしれない。

それなら、この謬論(びょうろん)を粉砕する決定的な事実を対置しよう。

 韓国人が使っている文字、ハングル を学校教育に導入して教えたのは、ほかならぬ日本の朝鮮総督府なのである。

 李朝時代の朝鮮では、王宮に仕える一握りの官僚や知識人が漢文で読み書きをし、他の民衆はそれができないままに放置されていた。

ハングルは15世紀に発明されていたが、文字を独占していた特権階層の人々の反対で使われていなかった。
それを再発見し、日本の漢字仮名まじり文に倣って、「漢字ハングル混合文」を考案したのは福沢諭吉だった。


◆先人の苦闘の歴史冒涜するな

 朝鮮総督府は小学校 段階からハングルを教える教科書を用意し、日本が建てた5200校の小学校で教えた。
日本は朝鮮人から言葉を奪うどころか、朝鮮人が母国語の読み書きができるように文字を整備したのである。

 併合当時、韓国の平均寿命は24歳だったが、日本統治の間に2倍以上に延び、人口の絶対数も倍増した。
反当たりの米の収穫量が3倍になり、餓死が根絶された。
はげ山に6億本の樹木が栽培され、100キロだった鉄道が6000キロに延びた。

北朝鮮が自慢げに国章に描いている水豊ダムは、日本が昭和19年に完成させた、当時世界最大級の水力発電所だった。

 これらのめざましい発展は、統治期間に政府を通じて日本国民が負担した、現在価値に換算して60兆円を超える膨大な資金 投下によってもたらされた。

本国から多額の資金を持ち出して近代化に努めたこのような植民地政策は世界に例がない。

日本の朝鮮統治はアジア の近代化に貢献した誇るべき業績なのである。

 日韓併合100年の首相謝罪談話は、このような歴史的事実を無視した虚偽と妄想の上に成り立っている。

それは、わが国の先人の苦闘の歴史を冒涜(ぼうとく)するものであると同時に、日本統治下で近代化に努力した朝鮮の人々の奮闘をも侮辱するものであることを忘れてはならない。


◆【正論】拓殖大学客員教授・藤岡信勝 日本がハングルを学校で教えた
http://sankei.jp.msn.com/life/education/100818/edc1008180303000-n1.htm

米国有力議員が衝撃発言「日本も核武装を」

 JB PRESS             2011.07.28(Thu)  古森 義久 =より  引用=

シャボット議員は、共和、民主両党で認識に差はあるが、米国全体としては北の核兵器開発の動きを強く警戒しており、核兵器開発の動きはミサイルよりもさらに深刻に受け取るべきだと強調した。

 その上でシャボット議員は次のように発言したのだった。

 「北朝鮮の核兵器開発は、韓国、日本、台湾、米国のすべてにとって脅威である。北朝鮮には食糧も燃料も与えるべきではない。圧力をかけることに私も賛成だ」

 「私は日本に対して何をすべきだと述べる立場にはないが、北朝鮮に最大の圧力をかけられる国は中国である。その中国は日本をライバルとして見ている。・・・だから、もし日本に核兵器保有を真剣に考える動きがあれば、中国は日本に核兵器保有を断念させるために、北朝鮮に核兵器の開発を止めるよう圧力をかけるだろう」

 肝心な部分はこれだけの短い発言ではあったが、その内容の核心は、まさに日本への核武装の勧めなのである。北朝鮮の核兵器開発を停止させるために、日本も核兵器開発を真剣に考えるべきだ、というのだ。

 そして、その勧めの背後には、北朝鮮が核開発を止めるほどの圧力を中国から受ければ、当然、日本人拉致に関しても大きな譲歩をしてくるだろう、という示唆が明らかに存在する。

 つまりは北朝鮮に核兵器と日本人拉致と両方での譲歩を迫るために、日本も独自に核武装を考えよ、と奨励するのである。

政策オプションとして一考に値する

 シャボット議員は米国議会では保守派と見なされている。しかし下院で多数を制した共和党の有力議員なのだ。そうした地位にある政治家が正面から日本に核武装の勧めを説いたことの意味が大きい。

 米国全体ではまだ日本の核武装というシナリオへのコンセンサスはないが、下院の多数党の有力議員が堂々と「日本も核武装検討を」と説いたという新 展開はいろいろな意味でショッキングである。だが、こんな対日提言は日本を同盟パートナーとして信頼しているからこそ、とも言えよう。

 日本としても、国民レベルで核兵器開発への合意が生まれる気配は今はまったくないが、北朝鮮の核武装を停止するため、さらに日本人拉致被害者たちを救出するため、の手段だということであれば、一考以上に価する政策オプションだと言えるのではないか。

大学に入りしばらくはおとなしくしていたような記憶がありますしかし酒にはもう手を出していたような記憶があり

ます。クラブを詩吟部に決め練習に入っていました。その新入生歓迎コンパがありましてそこでビールを20本飲

んだ記憶があります。大学時代は何かといえば飲み会があり酒が抜ける間がないほどでしたから当時から連続

飲酒に陥っていたようです。ひどい宿酔も何度となく体験しました。部室のロッカーに一升瓶を並べておいていま

した。それほど酒にはまっていたのです。よく昼酒をしていました。多分部員からは顰蹙を買っていたでしょうね。

知らぬが仏で5年間を過ごしました。
最初に酒宴をしたのは小学校卒業 した翌日の晩でした。全員と言っても29人でしたがそこで2時間ばかり

飲んだ記憶があります。ビール だったと思います。日本酒 も飲んだかも知れませんが足に来てました。帰りは

友だちにバイク で送ってもらいました。もっちろん無免許しかも飲酒運転でした。現在から47年前。12歳の頃の

甘い思い出 です。その酒盛りのあとはあまり酒宴したという記憶がありません。断片的にも飲んでいたというか

酔っていた風景がいくつか頭をよぎるだけで、しかし大人に邪魔されることなく飲んでいた記憶があります。

 そんなにおおらかな時代だったとは思えないのですが。中学時代に酒に纏わる話は、秋祭りの御輿を担ぐ

時、茶碗酒を貰って飲んだ記憶があります。そのくらいですね。ハメを外して飲んだ記憶はありません.あまり

友だちと連れ立って呑むというより家で隠れ飲みしていたようです。高校を卒業して大学 に入るのですが、その

前、入試 を受ける前の晩、旅館 の近くのスナックで飲んでました。気持ちの昂ぶりを沈めるためという口実も

ありましたが、正直、親元を離れてハメを外したい気持ちもありました。41年前のことです。
否認しても否認しても自分がやっていることは否認できない、とどのつまりはアル中だったという

ことを認めざるを得なかった。それが認めたくないものの正体だった。自分一人で酒をコントロール

できると思い込んでいた、ろくでなしの本性だった。酒にとらわれ、酒に操られて居る独りよがりの

自己中心主義者が私だった。アル中だと認めて、ならどうするか、どうしたら良いかという段になっ

て、もう断酒しか無いと思った。断酒しか私の生き延びる道はない。そう思った。否認したままでは

到底受け入れることはできなかったであろう。それでも誰かにすがっていたかった。一人だけ居た。

そのおかげで再生への道程を辿り始めることができた。現在でも毎晩メールの交換をする。