abatouteq1982のブログ

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 『三国志演義』で、蜀の劉備が主人公であるのはどうしてでしょうか。  もちろん、『演義』はあくまでも歴史上の出来事を参考にして創作された作品ですので、誰を主人公としても何ら問題はありません。しかしこれまで多くの人たちが劉備こそが「正しい」人であるとされ、正しいから主人公として常に扱われてきました。  曹操は常に悪役に回ってきたものです。曹操を高く評価されることが許されるようになったのは、じつのところ、まだ最近と言っても過言ではありません。二陸(陸機、陸雲。ともに陸遜の孫)のように曹操に心酔した例は珍しく、そのような言動を一般の人間が公の場面で堂々と成されるには魯迅を待たなければならなかったのです。それは必ずしも、劉備を主人公とした『演義』だけが理由ではないのです。それ以前に、曹操は「正しくない」人だという認識を持つ人がいたためです。  これはつまるところ、劉備と曹操のどちらが正しいのか、それはすなわち蜀と魏のどちらが王朝として正しいかという話。  正閏論となります。  そして生まれたのが、いわゆる「蜀漢正統論」で、これは「蜀漢こそが正統であり、魏は異端である」とする考え方です。 - ☆ - ★ - ☆ - ★ - ☆ -  歴史上の流れとしては、延康元(西暦220)年に漢(後漢)の献帝・劉協が禅譲して曹丕へ皇帝の座を譲り、これによって魏朝が樹立。  魏の景元四(263)年(蜀の炎興元年)、蜀の後主・劉禅が降服し、蜀漢の滅亡。  魏の咸熙二(265)年、元帝・ 曹奐が司馬炎へ禅譲を行い、晋朝が誕生。  この流れを素直に読めば、漢の後に魏が受け継ぎ、魏の後に晋が受け継いだのであって、それらが正統であれば当然、魏が正統となるはずです。そうでないのに皇帝を名乗って独立した蜀や呉が異端となるはずなのです。  どうしてそのような考えが生まれたのか。  三国時代を終結させた晋も、内憂外患を抱え、「永嘉の乱」により一旦は滅亡します。ここまでがいわゆる「西晋」で、その後、晋の建康五(317)年に、建業の司馬睿が即位して皇帝を名乗ります。ここからが「東晋」。  かつての帝国は北と南に分断され、三国志でいう魏の場所を異民族たちが支配し、呉の場所に東晋が存立しているのです。  東晋にとって、正統たる自分たちこそが世の中を治めるべきであり、北に巣食う勢力を駆逐して失地を回復することこそが宿願となっていくのは当然のことでしょう。  ここで出てくるのが、習鑿歯の『漢晋春秋』です。  習鑿歯は漢が正統であり、魏はその地位を不当に奪い取った簒奪者の政権であって、晋は漢から正統の地位を受け継いだとしています。  劉備は漢の宗族であり、正統の一端であるとしています。これが後々、劉備こそが正統であるとする「蜀漢正統論」の初手となります。  しかし、『資治通鑑』の司馬光や欧陽脩などは、あくまでも魏は正統であるとしています。漢から禅譲という手続きを踏んでその地位を受け継ぎ、また大陸の過半を支配した実績なども根拠とされています。 - ☆ - ★ - ☆ - ★ - ☆ -  宋代の末期になると、金国によって皇帝が拉致されて実質的に滅亡し、欽宗の弟である趙構が遺臣たちとともに南へ逃れ、建炎元(1127)年に即位します。これが南宋です。  この時代もまた、北方を異民族に支配され、正統を名乗る亡命政権が南方に樹立するという、東晋と似たような構図が出来上がります。  ここで登場するのが朱熹(朱子)です。  彼は魏はあくまでも簒奪者であり、蜀漢こそが正統であるとしています。時勢はたとえ魏に傾いたとはいえ道義は踏まえていないと見做した、観念論ともいえます。やがて、彼の理念に基づく朱子学が発展し、それに影響を受けた人たちにこの考えが広まっていくこととなります。  これが正閏論に拍車を掛けることとなります。  余談ですが、南宋の英雄といえば岳飛であり、そのライバルとして最終的には岳飛を殺すことになる秦檜は、逆臣で売国奴という扱いになっています。しかし秦檜は専制政治を行ったり、紹興の和議で金国への多額な銀や絹を貢ぐこととなったり、主戦派を弾圧して殺害することはあっても、東晋そのものを転覆させようと企んだり、金国へ服属させようとわけではないのです。彼が批判されている最大の事業は、本来忌むべき異民族と講和したということ。正統なる支配者が異端の存在を認めること自体が許せないという、現実よりも観念を重視した視点と言えます。  本筋へ戻すと、支配権は正統に受け継がれるべきであり、状況を鑑みればたとえ力づくであろうと認めるとする現実論と、たとえどのような状況であろうと踏まえるべき手続きや守られるべき血統を重視すべきとする観念論との鬩ぎ合いとなるわけです。  これらはあくまでも議論であり、思想であるので、論者や政権の思惑によって、どちらが正しいとされるかは時代背景によって変化することになるでしょうし、まとまることもないでしょう。絶対に正しい意見というものが存在せず、どのような思想も宗教も常に正誤が問われる以上、いくら論じても終わりが見えるわけではありません。たとえそれが見つかったとしても、実際の生活を営んでいる一般の人たちには、それこそ「机上の空論」でしかないのです。 - ☆ - ★ - ☆ - ★ - ☆ -  さて、正閏論が長い期間、そしてこれからも争われることとなったのは致し方ないとしても、最も肝心なことがあります。  なぜ、魏は異端なのか、ということ。  血統を重視する観念論からすれば、簒奪政権は異端であるとするのは後世のことであって、晋代にそれを言う必要性がどこにあるのでしょうか。  晋が正統であると主張するうえで、魏が正統であることに、何の問題があるのでしょうか。簒奪者である魏から、正統性を取り戻したとでも言うのでしょうか。しかし、司馬光の『資治通鑑』でも、「漢帝は魏に禅位した」とあって、強制的に奪われたとは書かれていません。また、たとえ簒奪と思われるのであるなら、それを主張する人が他にいて派閥を築いてもおかしくないと思えるのですが、習鑿歯だけがわざわざ取り上げたのには、何か理由があるのでしょうか。  習鑿歯が唱えたかったのは、魏というよりは曹操が簒奪者であるということ。  なぜ習鑿歯は、曹操を否定したかったのか。  彼が本当に否定したかったのは、桓温なのです。  桓温(かん・おん。字は元子)は東晋の将軍で、数々の戦歴を経て洛陽を奪い返すという大功を果たした人物で、しかし前燕に洛陽を奪い返されて敗戦すると、その名望も権威も著しく失墜することとなります。彼は簡文帝を擁立するも帝がすぐに没し、その後は禅譲の強要が甚だしく、その手始めとして九錫を要求するまでになります。  「九錫」とは皇帝のみに所持を許された特別なもので、『禮記』によれば、車馬、衣服、樂、朱戶、納陛、虎賁、鈇鉞、弓矢、秬鬯の九つとなります。これらは、皇帝から家臣で下賜されるものとしては最大級の恩賞であり、前漢の王莽、後漢の曹操、魏(三国)には呉の孫権、晋の司馬昭などが下賜されており、彼らは後々、一様に皇帝から政権を簒奪して、自らの国を建てています。  桓温の場合も同様で、彼は九錫を要請した後には、禅譲を強要して自らが皇帝となるつもりだったのでしょう。  しかし、九錫の下賜については阻害が激しく、それを得られないままに桓温は病死します。  習鑿歯が『漢晋春秋』を捧げた相手が、この桓温なのです。  その中で、魏は簒奪政権であって、司馬氏は魏ではなく漢から正統の手続きを踏むべきであったと論じています。  お分かりでしょうか。  九錫を得た曹操が正統ではなく、禅譲を受けた曹丕ですら正統ではないとすれば、同じように九錫を戴いて禅譲を受けたとしても、それが簒奪と見做されてしまえば、正統とは言えないということになるのです。  ならば何をもって正統とするのか。  習鑿歯は漢の宗族である劉備が正統であるとする。しかしその蜀漢ももはや無く、漢に仕える司馬氏は魏へ仕えることを潔しとしなかった。やがて禅譲という形で魏を皇帝の座から引きずり降ろし、簒奪政権の打倒を見事に果たしたとなるわけです。  このような論理の展開を生んで、だからこそ習鑿歯は、魏からの禅譲は誤りだと言ってるわけです。  習鑿歯はたとえ見かけ上の手続きを踏んだとしても、異端と言われる危険性を訴えることで、桓温の暴挙を阻止しようとしたのでしょう。実際には桓温の野心はこの程度のことでは収まらず、また、『漢晋春秋』の論理は、東晋ではあまり受け入れられなかったようです。  余談ですが、この桓温の、出世を重ねて高位高官に就き、国政を壟断して皇帝をないがしろにし、九錫を求め、禅譲を迫る経緯が、『演義』における曹操の姿の原型とも言えます。 - ☆ - ★ - ☆ - ★ - ☆ -  この論理が当時受け入れらなかったのは、大事なことが欠けているからではないでしょうか。  漢がいつ、晋を正統と認めたのか。  また、これでは晋も魏からの簒奪政権ということにならないか、ということです。  もし、漢が正統であるなら、漢の劉氏の末裔を奉戴して魏を滅ぼし、その末裔を再び皇帝に据えるべきとなるのではないでしょうか。また、司馬懿が曹丕の皇帝就任に反対したわけでもないことから、司馬氏が漢の臣でありながら魏に心ならずも従っていたような形跡など最初から無く、習鑿歯が強引に持論を推し進めているに過ぎないとすべきでしょう。  魏を異端とする説得力が不足していることは否めません。  またこれにより、晋にとって不都合となるひとつの事件を、隠蔽する必要がなくなりました。  高貴郷公の弑殺事件です。  陳寿『三国志』では、魏の第四代皇帝である高貴卿公・曹髦が死亡し、彼が皇太后を暗殺しようとして失敗したという公式発表と、王の格式で葬られることのみ記されています。しかし実際には、曹髦が暗殺しようとしたのは皇太后ではなく司馬昭であり、賈充の指令を受けた成済が曹髦を殺し、その後、司馬昭が成済とその一族を処刑したというのが事件の顛末です。司馬昭が事実上の指導者であったことは、賈充が無罪とされたことからも判断できます。  本来なら、主君たる皇帝の暗殺であり、大逆となるはずです。しかし、「皇太后を暗殺しようとした」曹髦のほうこそ悪逆であり、弑殺したのは、やむを得ない行為だったと、言い訳が立つことになります。なぜなら、司馬氏が本来仕えるべきは、異端の魏ではなく、正統の漢であるから。そして、正統の座を奪い取った魏は、いずれはその座から引きずり降ろされるべきであり、晋が魏の偽皇帝を倒そうと、やがて魏から政権を禅譲されようと、正統たる漢の仇討ちであれば、良心の呵責に苦しむ理由など、なにひとつとして無いということになります。  ただし、これは意図しない副産物と言えるでしょう。   ↑クリックしてもらえると、とても嬉しい「にほんブログ村」 . 風の伝えるままに ...