第一回 PRコンサルタント 大上敦史氏(その2)
こんにちは。コンサルタントの池松です。
ゲストは、ファッション業界のPRコンサルタントとして大活躍中の、
エーバルーンとのお付き合いも長い、大上敦史氏です。
前回の(その1)に引き続き、彼のプレスまでの道のりを伺います。

* * * * *
池松 オーストラリアでのプラダ販売職が
最初のステップだったんだね。
大上 でも、プラダも実はその頃、
半分クビみたいになっちゃったんですよ。
池松 えーーー!?なんでまた?
大上 なぜかというと、
当時お金やストックが無くなっているのが、
すごく問題になっていて。
でも、僕は一番若かったんで、全然気にせず、
彼とハワイやサンフランシスコに旅行に行くんだって、
若気の至りからか、上司や同僚にノー天気にうれしそうに話して。
結局は反感を買い、妬まれていたんですよね。
お給料もほとんどプラダのお洋服に使っていたり、身分不相応な感じで。
池松 妬まれて、クビに?
大上 旅行から2週間後に帰ってきて、
自分のスケジュール表を取りに行ったら、
名前のところに取り消し線が入っていた。
あれ?と思って。
マネジャーが休みだったからアシスタントマネージャーに聞いたら
「何かのミスよ」「そうだよね」って。
その日は帰ったんです。
次の日にマネジャーに聞いたら
「オー、ソーリー・・・。
もう冬になるから日本人のお客さんも少なくなってくるし、
ショップも忙しくなくなるからあなたはしばらくお休みよ」って。
でも僕のホリデー前に日本人の新しいスタッフが2人も入ってるんですよ。
「おかしいんじゃない?」っていったら
「私はミドルの立場だから、社長に直接言いなさい」って。
当時若かったので、そうか、じゃそうしようと思ったんですけど、
今思えば、一介のショップ店員が、
社長に直訴するなんておかしいじゃないですか。
でも、その当時は素直に受け止めて、それでアポ取ろうと思って、
秘書に電話していたんですけど全然取り次いでくれない。
池松 なんか罠っぽいね。
大上 3週間、ずっと家にいて電話を待っている状態で。
クビならクビでいいんですよ、次に進めるから。
なのに、これは一体何なの?と思って。
オーストラリアは組合が強いから簡単にはクビにはできないんですよ。
で、1ヶ月間くらい電話を待ちながらじっと家にいたので、
ストレスアウトしてしまって。
そんな頃、プラダの友達から電話があって、
今日オフィスに行っちゃいなよって。
社長は明日から買付でイタリアへ出張するから、
これを逃すともっと遅くなるよって。
1ヵ月も待ったんだから行けっていわれて、
その通りオフィスに乗り込んだんですよ。
レセプションの人に止められるのも振り切って。
池松 映画だ!
大上 社長室のガラス張り越しに社長と目が合ったんですが、
それはそれは、鬼の形相で「シッシッ!」って手で払われたんです。
それでも乗り込んで行って。
「話があるんですけど・・・」
「あなたが話す人は、私じゃなくマネジャーでしょ。帰りなさい!」
「でも仕事が・・・」
「帰れ!」
結局、何も言えず追い払われました・・・。
池松 ああ・・・。

大上 なんでこんな仕打ちなの?って。
乗り込んで行けって言ってくれた友達が、
本社の人と仲が良くて事情を聞いてくれたんです。
そうしたら、ショップでお金やストックが無くなっていたのは、
すべてあなたのせいにされているんだよって。
だから外されたんだって。
池松 休暇中にそういう流れにされてしまったんだ。
大上 僕も、ああ、だからか!と。
理由がわかったんで、ある意味ほっとしたんですけど。
もちろん僕はやっていない。
で、ことの全てを僕の彼に話したら、
それはきっとマネジャーが怪しいよって。
でも彼女は親身になって僕に親切にしてくれたから違うよって。
その時はそう信じちゃってました。
ところが、彼から突然、このままだとケンカばっかりだし、
憎しみ合っちゃうから別れようって言われたんです。
それまで本当にケンカばかりだったけど、
でも、やっぱり僕は彼のことが好きなんだって。
残念なことに、別れ話の時に再確認したんです。
でも結局、仕事も無くなって、
住む場所も、恋人も無くしちゃった、それも同時に。
何もかもなくなってしまったので。。。
もう日本に帰ろうかなって考えたのですが、
この状態で今帰ったら負け犬みたいだし、
楽しかった2年間がだいなしになっちゃうと思って。
それで、まずは仕事しようと。
それまでは六本木ヒルズのようなタワーマンションに住んでいたんですけど、
そこからいきなり六畳くらいの何もないアパートに引っ越して。
親にお金を借りて。
家具も何もなかったし、ベッドも布団もない。
冬の寒い日だったので、初日はコートを敷いて寝ました。
普段泣いたりしないんですけど、
その時は自然に涙が溢れてきて。
ああ、自分はただのキリギリスだったんだなって。
自分の力じゃないくせに、煌びやかだと思い込んで、
人に頼ってきたから、こんなことになったんだって。
自分の力で生きいけるように、もうこんな思いを二度としないように、
キャリアアップしていこう、そう本気で思ったんです。

池松 切ないけど、でも大上くんのその後には、
必要な経験と挫折だったんだね。
それから、新規一転、仕事を探し始めたの?
大上 たまたまフェラガモの新店舗がオープンする時で、
プラダでの経験があったので、すぐ採用されたんですね。
お給料は週払いだったので、
ベッドや食器などの生活必需品はもすぐ買えたんですけど、
もうこんな思いはしたくないと思って。
自分のスキルをあげて、誰にも頼らずに生きていけるように、
いつか日本に帰る時のために勉強しようと思って、
ビジネスカレッジに入りました。
そこでさまざまな事を学んで。
お昼は働いて、夜は学んでという生活を1年間続けていました。
そして、しばらく経った頃、
たまたまお休みで街を歩いていたら、
突然プラダから電話がかかってきたんですよ。
新しいマネジャーから。今から来れない?って。
何だろうと思って、オフィスに行ったら、社長と会ってほしいって。
実は、今までの一件は全て、マネジャーがやっていたんだと。
当時は彼女が、あなたが怪しいって言ってたからそれを信じたんだけど、
あなたがいなくなった後もずっと同じ問題が起きていたから、
探偵を雇って調査したら犯人は彼女だった。
で、昨日彼女をクビにしましたと。
あなたに悪いことをしちゃって、本当にごめんなさいって。
それでプラダに戻ってこれない?ていわれて。
あまりに突然の事すぎて、声も出ないほど驚きましたが、
僕自身プラダが好きだったのでプラダに戻ったんです。
そして一年後、学校も終わり、それで日本に帰ってきたんです。
池松 濃い20代だねー!(笑)
ところで、販売職から次にどうしてプレスを目指そうと思ったの?
大上 オーストラリアでプラダに戻った時に、
社内の女性が、お昼はスニーカー履いて
雑誌の撮影用の洋服の入った大きなボックスを運んだり、
テキパキ仕事をしている。
夜になるとピンヒール履いて、メイクして、
クラッチバッグを持ってパーティに呼ばれていく。
何この人?と思って。
それがプレスという職種だということがわかって、
それで、次はプレスになりたいなと。
でもオーストラリア国内でそれを狙うには、
やはり自分は日本人だし、
季節が北半球と逆ということもありオーストラリア自体ファッションも弱いし。
で、日本に帰ろうと決心しました。24歳の終わりに帰ってきました。
池松 そこからプレス職で就職活動?
大上 その時は、実はすぐプレスになれると思っていました。
プラダ、フェラガモで合計3年近くも働いてたし、
勉強もしたし、英語もできるしと。しかし、甘かった。
履歴書を出すと、だいたい最終面接まで行くんです、経歴が面白いねって。
でもプレスの採用って、どうしても経験者が優先されるのです。
なので、最初はショップスタッフからどうですか?って言われる。
またショップからのスタートは、
せっかくオーストラリアから帰ってきたのに、
プレスにならなきゃ意味がないって思って。
ただ、いつも求人があるわけでもなく。
カジュアルなところでも、
何社か応募してみたのですが、
結局プレスとしては採用されず。。。
池松 そんな苦い経験をしていたなんて、
今の活躍からは想像もつかない。
大上 で、その頃ちょうど、
母親がタイミング悪く更年期障害になって。
家にいると「働きなさい!」って毎日毎日口うるさく言われる。
自分の頭の中では、オーストラリアがステップ1で、
次はステップ2だから、キャリアアップしていかないとって。
そう言っても「そんな甘いこと言ってんじゃない!」って(笑)。
一旦ちょっと派遣で働こうと思って。
ドコモの支店で、バックオフィスの派遣で働き始めました。
書類作ったり外人対応したり。
10ヵ月働いていて、電話の出方とか書類の作り方とか、
基本的なことから社会人としてのマナーをそこで教えていただきました。
でも、本当はこんなことしている場合じゃないって。
将来も見えないし、不安だし。
で、そんな気持ちを解消するためにもTOEICの勉強をして
さらに英語のスキルアップをしようと、そしてパソコンの勉強も。
プレスもデスクワークが必要だってわかっていたので。
いつか役に立つ日が来るだろうと考えていたのです。
当時実家のあった逗子から南青山までの片道1時間半の通勤時間、
行きは英語のテキスト読んで、
帰りは疲れてるからヒアリングテープ聞いて。
毎日勉強しながら時期を待ちました。
そして、10ヵ月目にディーゼルが
プレス募集の広告を出していて、しかも未経験可!
これしかないと感じて、受けたらやっぱり最終までいって
最後は社長面接だったんです。
そうしたら、そこでもやっぱりまた、
「君は経歴は面白いけど、経験がないから、
ショップの店員からどうや?」って関西弁で言われて。
そこで、ブチン!ときちゃって。
この10ヵ月間こんなに頑張ってきたのに、
もう落ちてもいいや!と思って
ワーッ!と思いをぶちまけてしまいました。
その結果、その熱意を気に入ってもらえて、
プレスとして採用されたんです。25歳の時でした。
* * * * *
挫折がありながらも、常に気持ちをポジティブに切り替える、
そういう大上くん姿勢が、直接伝わってきた彼の経験談。
未経験のプレス志望の方には、
とても参考になる内容だったのでは?
さて、いよいよ最終回(その3)では、
ディーゼルからD&G,そしてヴェルサーチへと
プレスの階段を上っていく
大上くんのプレスとしての活躍を伺います。
初心者時代の失敗談や、
プレスとしての貴重なアドバイスなど、
業界志望者はもちろん、
ファッションに興味ある全ての方、必見の最終回です!
(文責:堀田律子)
取材協力店DATA
ラスチカス
天井の高いインターナショナルな雰囲気の店内で。天気がいい日はテラスも気持ちいい。
「ここのナチョスは、東京でも1、2を争う本物のメキシカンテイスト。モヒートとともにぜひ!」(クリス)
住所:東京都渋谷区神宮前5-47-6
TEL:03-3407-6865
最寄り駅:表参道から徒歩7分。
URL:http://www.vision.co.jp/aoyama/index.html

ゲストは、ファッション業界のPRコンサルタントとして大活躍中の、
エーバルーンとのお付き合いも長い、大上敦史氏です。
前回の(その1)に引き続き、彼のプレスまでの道のりを伺います。

* * * * *
池松 オーストラリアでのプラダ販売職が
最初のステップだったんだね。
大上 でも、プラダも実はその頃、
半分クビみたいになっちゃったんですよ。
池松 えーーー!?なんでまた?
大上 なぜかというと、
当時お金やストックが無くなっているのが、
すごく問題になっていて。
でも、僕は一番若かったんで、全然気にせず、
彼とハワイやサンフランシスコに旅行に行くんだって、
若気の至りからか、上司や同僚にノー天気にうれしそうに話して。
結局は反感を買い、妬まれていたんですよね。
お給料もほとんどプラダのお洋服に使っていたり、身分不相応な感じで。
池松 妬まれて、クビに?
大上 旅行から2週間後に帰ってきて、
自分のスケジュール表を取りに行ったら、
名前のところに取り消し線が入っていた。
あれ?と思って。
マネジャーが休みだったからアシスタントマネージャーに聞いたら
「何かのミスよ」「そうだよね」って。
その日は帰ったんです。
次の日にマネジャーに聞いたら
「オー、ソーリー・・・。
もう冬になるから日本人のお客さんも少なくなってくるし、
ショップも忙しくなくなるからあなたはしばらくお休みよ」って。
でも僕のホリデー前に日本人の新しいスタッフが2人も入ってるんですよ。
「おかしいんじゃない?」っていったら
「私はミドルの立場だから、社長に直接言いなさい」って。
当時若かったので、そうか、じゃそうしようと思ったんですけど、
今思えば、一介のショップ店員が、
社長に直訴するなんておかしいじゃないですか。
でも、その当時は素直に受け止めて、それでアポ取ろうと思って、
秘書に電話していたんですけど全然取り次いでくれない。
池松 なんか罠っぽいね。
大上 3週間、ずっと家にいて電話を待っている状態で。
クビならクビでいいんですよ、次に進めるから。
なのに、これは一体何なの?と思って。
オーストラリアは組合が強いから簡単にはクビにはできないんですよ。
で、1ヶ月間くらい電話を待ちながらじっと家にいたので、
ストレスアウトしてしまって。
そんな頃、プラダの友達から電話があって、
今日オフィスに行っちゃいなよって。
社長は明日から買付でイタリアへ出張するから、
これを逃すともっと遅くなるよって。
1ヵ月も待ったんだから行けっていわれて、
その通りオフィスに乗り込んだんですよ。
レセプションの人に止められるのも振り切って。
池松 映画だ!
大上 社長室のガラス張り越しに社長と目が合ったんですが、
それはそれは、鬼の形相で「シッシッ!」って手で払われたんです。
それでも乗り込んで行って。
「話があるんですけど・・・」
「あなたが話す人は、私じゃなくマネジャーでしょ。帰りなさい!」
「でも仕事が・・・」
「帰れ!」
結局、何も言えず追い払われました・・・。
池松 ああ・・・。

大上 なんでこんな仕打ちなの?って。
乗り込んで行けって言ってくれた友達が、
本社の人と仲が良くて事情を聞いてくれたんです。
そうしたら、ショップでお金やストックが無くなっていたのは、
すべてあなたのせいにされているんだよって。
だから外されたんだって。
池松 休暇中にそういう流れにされてしまったんだ。
大上 僕も、ああ、だからか!と。
理由がわかったんで、ある意味ほっとしたんですけど。
もちろん僕はやっていない。
で、ことの全てを僕の彼に話したら、
それはきっとマネジャーが怪しいよって。
でも彼女は親身になって僕に親切にしてくれたから違うよって。
その時はそう信じちゃってました。
ところが、彼から突然、このままだとケンカばっかりだし、
憎しみ合っちゃうから別れようって言われたんです。
それまで本当にケンカばかりだったけど、
でも、やっぱり僕は彼のことが好きなんだって。
残念なことに、別れ話の時に再確認したんです。
でも結局、仕事も無くなって、
住む場所も、恋人も無くしちゃった、それも同時に。
何もかもなくなってしまったので。。。
もう日本に帰ろうかなって考えたのですが、
この状態で今帰ったら負け犬みたいだし、
楽しかった2年間がだいなしになっちゃうと思って。
それで、まずは仕事しようと。
それまでは六本木ヒルズのようなタワーマンションに住んでいたんですけど、
そこからいきなり六畳くらいの何もないアパートに引っ越して。
親にお金を借りて。
家具も何もなかったし、ベッドも布団もない。
冬の寒い日だったので、初日はコートを敷いて寝ました。
普段泣いたりしないんですけど、
その時は自然に涙が溢れてきて。
ああ、自分はただのキリギリスだったんだなって。
自分の力じゃないくせに、煌びやかだと思い込んで、
人に頼ってきたから、こんなことになったんだって。
自分の力で生きいけるように、もうこんな思いを二度としないように、
キャリアアップしていこう、そう本気で思ったんです。

池松 切ないけど、でも大上くんのその後には、
必要な経験と挫折だったんだね。
それから、新規一転、仕事を探し始めたの?
大上 たまたまフェラガモの新店舗がオープンする時で、
プラダでの経験があったので、すぐ採用されたんですね。
お給料は週払いだったので、
ベッドや食器などの生活必需品はもすぐ買えたんですけど、
もうこんな思いはしたくないと思って。
自分のスキルをあげて、誰にも頼らずに生きていけるように、
いつか日本に帰る時のために勉強しようと思って、
ビジネスカレッジに入りました。
そこでさまざまな事を学んで。
お昼は働いて、夜は学んでという生活を1年間続けていました。
そして、しばらく経った頃、
たまたまお休みで街を歩いていたら、
突然プラダから電話がかかってきたんですよ。
新しいマネジャーから。今から来れない?って。
何だろうと思って、オフィスに行ったら、社長と会ってほしいって。
実は、今までの一件は全て、マネジャーがやっていたんだと。
当時は彼女が、あなたが怪しいって言ってたからそれを信じたんだけど、
あなたがいなくなった後もずっと同じ問題が起きていたから、
探偵を雇って調査したら犯人は彼女だった。
で、昨日彼女をクビにしましたと。
あなたに悪いことをしちゃって、本当にごめんなさいって。
それでプラダに戻ってこれない?ていわれて。
あまりに突然の事すぎて、声も出ないほど驚きましたが、
僕自身プラダが好きだったのでプラダに戻ったんです。
そして一年後、学校も終わり、それで日本に帰ってきたんです。
池松 濃い20代だねー!(笑)
ところで、販売職から次にどうしてプレスを目指そうと思ったの?
大上 オーストラリアでプラダに戻った時に、
社内の女性が、お昼はスニーカー履いて
雑誌の撮影用の洋服の入った大きなボックスを運んだり、
テキパキ仕事をしている。
夜になるとピンヒール履いて、メイクして、
クラッチバッグを持ってパーティに呼ばれていく。
何この人?と思って。
それがプレスという職種だということがわかって、
それで、次はプレスになりたいなと。
でもオーストラリア国内でそれを狙うには、
やはり自分は日本人だし、
季節が北半球と逆ということもありオーストラリア自体ファッションも弱いし。
で、日本に帰ろうと決心しました。24歳の終わりに帰ってきました。
池松 そこからプレス職で就職活動?
大上 その時は、実はすぐプレスになれると思っていました。
プラダ、フェラガモで合計3年近くも働いてたし、
勉強もしたし、英語もできるしと。しかし、甘かった。
履歴書を出すと、だいたい最終面接まで行くんです、経歴が面白いねって。
でもプレスの採用って、どうしても経験者が優先されるのです。
なので、最初はショップスタッフからどうですか?って言われる。
またショップからのスタートは、
せっかくオーストラリアから帰ってきたのに、
プレスにならなきゃ意味がないって思って。
ただ、いつも求人があるわけでもなく。
カジュアルなところでも、
何社か応募してみたのですが、
結局プレスとしては採用されず。。。
池松 そんな苦い経験をしていたなんて、
今の活躍からは想像もつかない。
大上 で、その頃ちょうど、
母親がタイミング悪く更年期障害になって。
家にいると「働きなさい!」って毎日毎日口うるさく言われる。
自分の頭の中では、オーストラリアがステップ1で、
次はステップ2だから、キャリアアップしていかないとって。
そう言っても「そんな甘いこと言ってんじゃない!」って(笑)。
一旦ちょっと派遣で働こうと思って。
ドコモの支店で、バックオフィスの派遣で働き始めました。
書類作ったり外人対応したり。
10ヵ月働いていて、電話の出方とか書類の作り方とか、
基本的なことから社会人としてのマナーをそこで教えていただきました。
でも、本当はこんなことしている場合じゃないって。
将来も見えないし、不安だし。
で、そんな気持ちを解消するためにもTOEICの勉強をして
さらに英語のスキルアップをしようと、そしてパソコンの勉強も。
プレスもデスクワークが必要だってわかっていたので。
いつか役に立つ日が来るだろうと考えていたのです。
当時実家のあった逗子から南青山までの片道1時間半の通勤時間、
行きは英語のテキスト読んで、
帰りは疲れてるからヒアリングテープ聞いて。
毎日勉強しながら時期を待ちました。
そして、10ヵ月目にディーゼルが
プレス募集の広告を出していて、しかも未経験可!
これしかないと感じて、受けたらやっぱり最終までいって
最後は社長面接だったんです。
そうしたら、そこでもやっぱりまた、
「君は経歴は面白いけど、経験がないから、
ショップの店員からどうや?」って関西弁で言われて。
そこで、ブチン!ときちゃって。
この10ヵ月間こんなに頑張ってきたのに、
もう落ちてもいいや!と思って
ワーッ!と思いをぶちまけてしまいました。
その結果、その熱意を気に入ってもらえて、
プレスとして採用されたんです。25歳の時でした。
* * * * *
挫折がありながらも、常に気持ちをポジティブに切り替える、
そういう大上くん姿勢が、直接伝わってきた彼の経験談。
未経験のプレス志望の方には、
とても参考になる内容だったのでは?
さて、いよいよ最終回(その3)では、
ディーゼルからD&G,そしてヴェルサーチへと
プレスの階段を上っていく
大上くんのプレスとしての活躍を伺います。
初心者時代の失敗談や、
プレスとしての貴重なアドバイスなど、
業界志望者はもちろん、
ファッションに興味ある全ての方、必見の最終回です!
(文責:堀田律子)
取材協力店DATA
ラスチカス
天井の高いインターナショナルな雰囲気の店内で。天気がいい日はテラスも気持ちいい。
「ここのナチョスは、東京でも1、2を争う本物のメキシカンテイスト。モヒートとともにぜひ!」(クリス)
住所:東京都渋谷区神宮前5-47-6
TEL:03-3407-6865
最寄り駅:表参道から徒歩7分。
URL:http://www.vision.co.jp/aoyama/index.html
