「名僧とは何か」

永遠なる救いを

歴史を動かした名僧

 

「沢庵」

徳川幕府に抵抗した気骨の僧の生涯

沢庵と家光

沢庵は、寛永六年八月十五日には上山に着いた。藩主士岐氏の保護は手厚く、しかも、各方面からの見舞いの便りや贈り物が届けられた。

上山で自適の生活を送っていた沢庵は、寛永九年七月十七日に赦免され、江戸に帰った。

この年の正月に二代将軍秀忠が死去したことによる大赦ということもあったであろうが、天海の動きによるところ大であったらしい。

 

それから二年後の十一年になって、ようやく京に帰ることを許された。ちょうどこの年には、家光が上洛した。

天海や柳生宗矩らに、是非この折に家光に会っておくよう強く勧められ、それに従わざるを得なかった。

 

 

翌十二年には家光の要請に応じて江戸に下り、十三年七月には、玉室・江月ともに家光に謁見し、「大徳寺法度」について説明した。

それが終わると玉室・江月は帰京したが沢庵一人は十一月まで江戸に引き留められ、帰京を許されなかった。十四年三月には、またも呼び出され江戸に下り、登城しては家光の聞法に答えた。

 

家光は、ことのほか沢庵を歓待したが、沢庵にとっては有難迷惑であった。家光の信任は、ますます厚くなり、沢庵のために品川に寺を建てたいといい出した。

沢庵は、辞退したが、とうとう、その好意を受けざるを得なかった。

 

寛永十八年三月二十八日、止められていた大徳寺の出世が、ついに許可されることになった。正保元年六月、沢庵は上京し、九月に江戸に戻り翌二年十二月十一日に七十三歳で寂し、東海寺に埋葬された。

 

◎沢庵は大徳寺のためを思って家光の歓持を固辞しなかった。時代の流れに対する、せめてもの抵抗であった。

信念を貫き通す精進を続けさせて頂きます。