ラジオやテレビといった電波メディアの危険性として、
第一に「誰もが同じ番組に影響される」、
第二に「視聴者が出演者の意見を自分の意見と思い込む」、
第三に「放送内容が虚構でも同時進行している現実と感じる」、
という問題がよく指摘される。
なぜなら、マスメディアを政治宣伝に用いる場合、これらは全体主義的な大衆操作につながるからである。
電子メディアの場合もこれらの問題に変わりがないが、情報が大量に流通する現代社会では、
新たな問題も生じている。
政治の場では、有権者がメディアに求めるのは、選挙で自分の望む政治的選択をするための情報である。
しかしながら、
メディアの流す情報は情報商品であり、売れる情報が優先されるため、
画一化が起こる。
例えば、個性を重視されているはずのニュースキャスターのコメントなども、規格化されてくる。
その結果、政治的意思決定のための情報収集と選択のコストが大きくなり、政治的無関心が広がる。
これは第一の問題の新しい側面であると言える。
第二、第三の問題は、「情報環境の間接性」に関わる。
人間関係が希薄化している現代社会では共感が薄れ、
人間同士の接触でさえモノに媒介されて間接的である。こうして虚構と現実の区別がつきにくくなり、
情緒的宣伝によって感情に直接訴えられると、行動が行動する可能性がある。
タレント性が政治家を選ぶ根拠になったり、
大規模なイベントを行う新宗教団体に若者が引きつけられるのは、こうした事情を示している。
民主的な政治体制の基礎は、
個人の政治的選択が「政策を理解した上での同意」として為されることである。
選択が感情でなく冷静な判断に基づいて行われる限り、潜在意識に訴える宣伝の影響は少ないであろう。
しかし、複雑な政治状況の中で情報理解コストが異常に大きくなると、
政治は「わからないもの」になってしまう。
従って、これからのメディアに求められるのは、
第一に、政治的な情報の収集・選択・理解のコストを下げるために個人を援助することである。
そして第二に、双方向の通信などで他者とのつながりを取り戻し、
共感に基づいた社会的合意形成を支援することである。
これらが実現すれば、人々は「政治的無関心」から
「豊かな関係性の中で自分の位置を確認しながら生きる」主体的な生き方に向かうことを可能とする。
2001年9月11日の同時多発テロは、現代世界の大きな価値の亀裂を明らかにした事件であった。
それはアメリカを代表とする科学技術の枠をこらした文明の世界と、
イスラムの伝統的な宗教価値を中心に生活しているような文化の世界の亀裂である。
便利さと機能性を追求し、どこでも同じシステムで生きることを強制するグローバル化は、
西欧的・アメリカ的でない世界観を無視しがちである。
それゆえ、現代世界では、「文化の多様性」を重視し、尊重することが必要であろう。
そもそも文化というのは、自然環境・社会・経済などに根を張っており、
それらの一部分が変化すれば全体としての文化に必ず影響を与えるものである。
そして、部分は独立しながらも全体は統一されている「有機体な全体」としての文化は、
一度変化を始めると元には戻らない。
そこから文化の多様性に関して、肯定的な見方と否定的な見方が生まれてくる。
前者はグローバル化に否定的であり、後者はグローバル化を進める見方である。
グローバル化によって誰もが幸福になると考える見方は、
「文化の有機的な性格」を軽視するところから生じる。
伝統的社会に大国の異質な価値観が経済力の影響で入ってくると、
新しい価値観から生み出される社会的な変化が無意識の内に伝統的な社会システム全体を変え、
明らかな対外摩擦・紛争として現れることになる。
9・11テロはその実例である。
しかし、文化の多様性に関する楽観的主義にも浸ってはいられない。
例えば平等や民主主義などの概念が、異なった価値体系の中で負の評価を受けることもあるからだ。
多元的な視点による文化の相対化は、
時には西洋的近代化の生み出した成果を否定する危機をも生み出すが、
それを新たな「全体的環境」として捉え、多くの人々が有機的な共存への努力をするところに
相互理解の可能性がある。
それはアメリカを代表とする科学技術の枠をこらした文明の世界と、
イスラムの伝統的な宗教価値を中心に生活しているような文化の世界の亀裂である。
便利さと機能性を追求し、どこでも同じシステムで生きることを強制するグローバル化は、
西欧的・アメリカ的でない世界観を無視しがちである。
それゆえ、現代世界では、「文化の多様性」を重視し、尊重することが必要であろう。
そもそも文化というのは、自然環境・社会・経済などに根を張っており、
それらの一部分が変化すれば全体としての文化に必ず影響を与えるものである。
そして、部分は独立しながらも全体は統一されている「有機体な全体」としての文化は、
一度変化を始めると元には戻らない。
そこから文化の多様性に関して、肯定的な見方と否定的な見方が生まれてくる。
前者はグローバル化に否定的であり、後者はグローバル化を進める見方である。
グローバル化によって誰もが幸福になると考える見方は、
「文化の有機的な性格」を軽視するところから生じる。
伝統的社会に大国の異質な価値観が経済力の影響で入ってくると、
新しい価値観から生み出される社会的な変化が無意識の内に伝統的な社会システム全体を変え、
明らかな対外摩擦・紛争として現れることになる。
9・11テロはその実例である。
しかし、文化の多様性に関する楽観的主義にも浸ってはいられない。
例えば平等や民主主義などの概念が、異なった価値体系の中で負の評価を受けることもあるからだ。
多元的な視点による文化の相対化は、
時には西洋的近代化の生み出した成果を否定する危機をも生み出すが、
それを新たな「全体的環境」として捉え、多くの人々が有機的な共存への努力をするところに
相互理解の可能性がある。
1990年以降の出生数と合計特殊出生率の大まかな傾向は、
出生数が110万人を上回るほぼ一定の水準を維持しているのに対し、
合計特殊出生率は低下を続けている。
晩婚化の理由について20パーセント以上に達する回答項目を見ると、
女性では「女性の経済力の向上」「独身生活の方が自由」「世間のこだわりが少なくなった」「仕事のためには独身が良い」「家事、育児の負担」の順に割合が高く、
男性では「独身生活の方が自由」「世間のこだわりが少なくなった」「女性の経済力の向上」「親離れが出来ていない」の順である。
女性の回答の特徴は「生活のために結婚せざるを得ない」「結婚すれば家事・育児の負担は女性だけが担わなければならない」という伝統的な性別役割分業からの解放を示していることである。
それに対して、男性の回答の特徴はやはり性別役割分業による「男は仕事して家族を養う」という意識からの解放を望むものだと言えるが、
その背景には親への依存から抜け出せない傾向も見られる。
また、男子の家事や育児に対する関心の低さは女性の回答との大きな違いである。
少子化により、年齢構成における高齢化の進行が考えられる。
高齢化とは、65歳以上の人口が総人口に占める割合が増大していくことである。
平均寿命が伸びれば高齢化は自然に起こる。
しかし、それに加えて少子化とベビーブーム世代の高齢化により、これからの日本社会は急激に高齢化する。
その結果、経済成長に関しては、労働力人口の減少、貯蓄率の低下、イノベーションの停滞、消費需要の縮小、消費構造の固定化、投資意欲の衰退などが予測できる。
また保健福祉に関しては、年金財政の危機による保険料の上昇と受給額の減少、国民医療保険費の高騰、高齢者介護需要の激増などが起こる。
さらに、地域社会に関しては、きょうだいの数が減り、家族関係が多様化して、家族の機能が変化するだろう。
その結果、家族単位の地域社会は崩壊し、変化を迫られることになる。
これらの状況に対応する政策として、女性・外国人労働力の活用、年金制度の改革、ボランティア活動の推進、負担に関する世代間の調整及び合意形成がますます重要になる。
出生数が110万人を上回るほぼ一定の水準を維持しているのに対し、
合計特殊出生率は低下を続けている。
晩婚化の理由について20パーセント以上に達する回答項目を見ると、
女性では「女性の経済力の向上」「独身生活の方が自由」「世間のこだわりが少なくなった」「仕事のためには独身が良い」「家事、育児の負担」の順に割合が高く、
男性では「独身生活の方が自由」「世間のこだわりが少なくなった」「女性の経済力の向上」「親離れが出来ていない」の順である。
女性の回答の特徴は「生活のために結婚せざるを得ない」「結婚すれば家事・育児の負担は女性だけが担わなければならない」という伝統的な性別役割分業からの解放を示していることである。
それに対して、男性の回答の特徴はやはり性別役割分業による「男は仕事して家族を養う」という意識からの解放を望むものだと言えるが、
その背景には親への依存から抜け出せない傾向も見られる。
また、男子の家事や育児に対する関心の低さは女性の回答との大きな違いである。
少子化により、年齢構成における高齢化の進行が考えられる。
高齢化とは、65歳以上の人口が総人口に占める割合が増大していくことである。
平均寿命が伸びれば高齢化は自然に起こる。
しかし、それに加えて少子化とベビーブーム世代の高齢化により、これからの日本社会は急激に高齢化する。
その結果、経済成長に関しては、労働力人口の減少、貯蓄率の低下、イノベーションの停滞、消費需要の縮小、消費構造の固定化、投資意欲の衰退などが予測できる。
また保健福祉に関しては、年金財政の危機による保険料の上昇と受給額の減少、国民医療保険費の高騰、高齢者介護需要の激増などが起こる。
さらに、地域社会に関しては、きょうだいの数が減り、家族関係が多様化して、家族の機能が変化するだろう。
その結果、家族単位の地域社会は崩壊し、変化を迫られることになる。
これらの状況に対応する政策として、女性・外国人労働力の活用、年金制度の改革、ボランティア活動の推進、負担に関する世代間の調整及び合意形成がますます重要になる。
日本の「ニート」には独自の特徴がある。
低い社会階層と関連の強い「非行型ニート」
は各国に共通の存在である。
しかし、高学歴でも自分に合った仕事を見つけられない「自己実現追求型ニート」、
就職してもすぐに退職して次の職探しができない「自信喪失型ニート」、
社会との接点を持つことができない「ひきこもりがたニート」
などは、親がいつまでも子供を養える豊かな日本ならではの現象と言える。
原因の一つとしては就職の機会が新卒時に偏り、再挑戦が難しい日本の雇用システムや、社会の要求と合わない教育システムが考えられる。
「ニート」増加を肯定的に評価すれば、豊かな社会では子供が早く自立して親を助ける必要がないので、自分にあった生き方を探すためのモラトリアム期間が長くなったといえる。
一方、これを否定的に評価すれば、年功序列や終身雇用のようなシステムが崩壊した雇用環境では労働者が使い捨てにされ、働いても自立できない若者が増えていると言える。
どちらにしても、問題は子供世代の依存によって生活格差が広がることである。
本来、教育の機会均等は、誰もが好きな仕事を選べるという社会の水平的な多様性と、
努力によって収入を増やせるという社会階層の垂直的な移動の可能性を支えてきた。
しかし、定職に就けない人が増えれば、親が豊かでない層は家族全体の生活が苦しくなり、親が豊かな層との格差が固定される。
その結果、社会の安定性と公平性は大きく損なわれる。
この事象を解決するには、教育と雇用の両面で「効率性」中心から「多様性」重視への転換が必要である
。序列化によって上から評価するのではなく、多様化する社会に応じた個性的な働きを支援するシステムが必要である。
低い社会階層と関連の強い「非行型ニート」
は各国に共通の存在である。
しかし、高学歴でも自分に合った仕事を見つけられない「自己実現追求型ニート」、
就職してもすぐに退職して次の職探しができない「自信喪失型ニート」、
社会との接点を持つことができない「ひきこもりがたニート」
などは、親がいつまでも子供を養える豊かな日本ならではの現象と言える。
原因の一つとしては就職の機会が新卒時に偏り、再挑戦が難しい日本の雇用システムや、社会の要求と合わない教育システムが考えられる。
「ニート」増加を肯定的に評価すれば、豊かな社会では子供が早く自立して親を助ける必要がないので、自分にあった生き方を探すためのモラトリアム期間が長くなったといえる。
一方、これを否定的に評価すれば、年功序列や終身雇用のようなシステムが崩壊した雇用環境では労働者が使い捨てにされ、働いても自立できない若者が増えていると言える。
どちらにしても、問題は子供世代の依存によって生活格差が広がることである。
本来、教育の機会均等は、誰もが好きな仕事を選べるという社会の水平的な多様性と、
努力によって収入を増やせるという社会階層の垂直的な移動の可能性を支えてきた。
しかし、定職に就けない人が増えれば、親が豊かでない層は家族全体の生活が苦しくなり、親が豊かな層との格差が固定される。
その結果、社会の安定性と公平性は大きく損なわれる。
この事象を解決するには、教育と雇用の両面で「効率性」中心から「多様性」重視への転換が必要である
。序列化によって上から評価するのではなく、多様化する社会に応じた個性的な働きを支援するシステムが必要である。
インターネットを使わない既存のコミュニケーションを考えてみると、
直接対面する場合、時間的・空間的に拘束されると共に、用件以外の個人的情報も全て交換されてしまう。
電話は相手との距離を縮めるが、音声情報に限定され、一体一のコミュニケーションなので、ほかの人が参加する二次元的な広がりがない。
手紙によるコミュニケーションは記録性を持ち、時間的・空間的な拘束がない反面、即時性がない。
これらに対して、インターネットのようなネットワーク・システムでは、
テキスト、画像、音声を等しくデジタル情報で扱えるので、視覚・聴覚・思考に同時に訴えるコミュニケーションが可能になる。
さらに、インターネットの双方向性、即時性、記録性、「多対多」のコミュニケーション・システムという特性は、多くの人が求める情報と多様な個人が求め、発信したい情報の共存を可能にする。
しかし、その匿名性と間接性は、拘束のないコミュニケーションを可能にすると同時に、無責任な発言や相手に対する思いやりの欠如につながることも考慮しなければならない。
インターネットの電子メディアでは現実認識が「視覚」に極小化される。
本来、全体的な感覚である「生きる実感」が、視覚中心の感覚に変質しているのである。
さらに、インターネットでは、環境との多様な関係から生まれる、
「多様な感覚が統一された全体としての現実性」
が均質化される。
そこでは、自然と自分との関係も、他人と自分の関係も、すべてデジタル化され、ファイルされた情報のディスプレー出力としてしか経験され得ない。
それが日常化した社会では、全てが「他人事」になると同時に、私事の中に「他人事」が侵入してくる。
例えば、他人のゴシップに対する過剰な関心と、重大な政治問題に対する無関心とは、同じ問題の二つの現れである。
この状況の中で現実的な経験の「全体性」を回復するには、自らが「主体的発信者」になることが必要だ。
そのためには自ら情報を集め、選択し、理解するための「読書」「文章表現」など、「ストックされ、応用される知識」を増やすための思考が必要となる。
それと同時に地域のコミュニティー活動への参加など、自分自身の小さな体験から出発することが、仮想世界流されない生き方の基礎になりうる。
直接対面する場合、時間的・空間的に拘束されると共に、用件以外の個人的情報も全て交換されてしまう。
電話は相手との距離を縮めるが、音声情報に限定され、一体一のコミュニケーションなので、ほかの人が参加する二次元的な広がりがない。
手紙によるコミュニケーションは記録性を持ち、時間的・空間的な拘束がない反面、即時性がない。
これらに対して、インターネットのようなネットワーク・システムでは、
テキスト、画像、音声を等しくデジタル情報で扱えるので、視覚・聴覚・思考に同時に訴えるコミュニケーションが可能になる。
さらに、インターネットの双方向性、即時性、記録性、「多対多」のコミュニケーション・システムという特性は、多くの人が求める情報と多様な個人が求め、発信したい情報の共存を可能にする。
しかし、その匿名性と間接性は、拘束のないコミュニケーションを可能にすると同時に、無責任な発言や相手に対する思いやりの欠如につながることも考慮しなければならない。
インターネットの電子メディアでは現実認識が「視覚」に極小化される。
本来、全体的な感覚である「生きる実感」が、視覚中心の感覚に変質しているのである。
さらに、インターネットでは、環境との多様な関係から生まれる、
「多様な感覚が統一された全体としての現実性」
が均質化される。
そこでは、自然と自分との関係も、他人と自分の関係も、すべてデジタル化され、ファイルされた情報のディスプレー出力としてしか経験され得ない。
それが日常化した社会では、全てが「他人事」になると同時に、私事の中に「他人事」が侵入してくる。
例えば、他人のゴシップに対する過剰な関心と、重大な政治問題に対する無関心とは、同じ問題の二つの現れである。
この状況の中で現実的な経験の「全体性」を回復するには、自らが「主体的発信者」になることが必要だ。
そのためには自ら情報を集め、選択し、理解するための「読書」「文章表現」など、「ストックされ、応用される知識」を増やすための思考が必要となる。
それと同時に地域のコミュニティー活動への参加など、自分自身の小さな体験から出発することが、仮想世界流されない生き方の基礎になりうる。
