いつ頃からだったか記憶にないけど、1〜2年に1度ぐらいは、父が入院したら1~2ヶ月程帰れない事がありました。
“…またなんだ…”
とよく思ったものです。
長年専業主婦だった母は、妹が小4ぐらいの頃にはフルタイムのパートで働いていて、
家事、
仕事、
父の看病
と忙しく動いていました。
その頃の父に対しては、過労とかストレスとかでたまたま調子が良くなくての検査入院なんだとしか思わなかったです。
“働くって大変な事なんだなぁ…”
としか思っていませんでした。
しかしあまりにも検査入院が続いてくると
“実は癌なんじゃないの…?”
と思った事もあります。
でも何度検査してもその頃は癌との診断はされませんでした。
ところが私が就職して2年目を迎える20歳の頃、父は転院を勧められました。
「転院先じゃないと薬がない」
との事。
“薬がないって何?”
“取り寄せたらいいだけじゃないの?”
そう思ったものの、この時もまだ癌との診断はされていませんでした。
自宅から更に遠い距離にある大学病院に転院し、通院を始めた数ヶ月後…定期検診の時に癌と告知されました。
今まで何十年もの間、何も分からなかったのに、
「残念ですが、細胞が癌化しました」
と言われたそうです。
家までの長い距離を、両親は無言で帰宅しました。
いつもよりも長く長く感じたであろう帰り道は、父は無言…というより、放心状態だったと思います。
私が仕事を終えて帰宅した頃には、すでに母も心ここにあらずという感じでした。
「…お父さんに何て声をかけたらいいのか分からない…」
「姉ちゃん(私)…これからどうしよう…。
どうしたらいい…?」
母はそう言って、静かに泣きました。
あの重苦しい空気の中、私に出来る事は何もありませんでした。
父にかける言葉が、私も見つからなかったです。
「お父さん、ただいま…」
そう声をかけたけど、いつもみたいに
「おかえり」
とは返ってこなかった。
その日のご飯の時間は、今までで1番苦痛でした。
無言の中で響く食器の音。
誰も見聞きしないTVの音。
味の分からない夜ご飯の時間。
初めてそんな時間を過ごしました。
しかし次の日の朝、
「おはよう!」
と、いつもと変わらない笑顔の父がいました。
父は1日で気持ちを切り替えて、生きる為にもう前を向いていました。
この日から父は、先生を困らせる程病気の事を詳しく調べ始めるのです。
その後、母は私をそっと呼んで
「妹ちゃんには、姉ちゃんから伝えてくれない…?
お母さんからは辛くて伝えられない…」
と泣く母に、私は
「分かった」
と答えました。
妹が高校に入学した年の事でした。
楽しい学生生活が始まった直後だったので、我慢をさせずに高校生活を送らせてあげる事が出来るのか悩みました。
取り合えず私から妹に伝えたけど、妹もよく分かってはなかったけど、何となく察してはいました。
行動に制限をかけてもらわなければいけない時もあったから、時々口喧嘩になりました。
その度に母は
「ごめんね」
と泣きました。
私は、妹と母の仲介役となりました。
泣いてばかりの母には
「あの子(妹)も辛いんだから…」
と諭し、妹には我慢や制限をさせすぎないように、妹の気持ちを聞いた上で気を付けて話しをしました。
“…癌だから死ぬの…?”
“…お金は大丈夫なんだろうか…”
“…私達はどうなるんだろうか…”
と私の頭の中も真っ白の状態が続きました。
ちょうど元旦那と付き合い始めて、3ヶ月程の事でした。
父が告知をされてからは、寝る時間が怖かったです。
事実を受け入れられなかったし、受け入れたくなかった。
嘘だと思いたかった。
そして
“何で父なんだろう…”
と思いました。
“助けてほしい”
“助かってほしい”
“生きてほしい”
心の底から神頼みをした瞬間でもありました。