bluearrowのブログに ようこそ。
ジャンルにとらわれず くっだらねー事から硬い話まで色々な事を書いてます。
2017年2月にAmebaデビューしまして人生の節目の出来事を書いたブログがあります。
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さて今回のブログです。
赤穂浪士を書いたシリーズとして始めまして今回は2つ目。
前回は浅野 内匠頭切腹までを書きましたが その後を続けます。
殿中にて刃傷に及んだ内匠頭の江戸屋敷である築地鉄炮塚上屋敷、赤坂下屋敷、本所下屋敷は即刻お取り上げとなったため遺体の帰る屋敷はない。
菩提寺の高輪 泉岳寺に直接送られて葬儀はお供まわりの者と妻の阿久理、腰元の戸田局だけで執り行われた。
この静かな式が赤穂浅野五万石を預かる主の葬儀。
式を終え妻 阿久理は「皆の者、長い間 影ひなたなく よう仕えてくれた、今こそ今生の別れ、身体をいとえよ」と残して実家、浅野 土佐守(とさのかみ)の迎えにより南部坂の下屋敷に引き取られた。
事件の後すぐに第一の早使いが出発。
浅野 内匠頭長矩、江戸城にて吉良 上野介に対し刃傷に及び御上儀の沙汰を待つ、の内容。
これに次いで夜、第二の早使い。
内匠頭の死を伝え遺品を届ける使者が出発。
江戸から赤穂は155里、約620キロ。
通常に歩けば16日かかるところを第一の使者は3月19日の未明、卯の刻、現在の5時頃に到着したというから4日半で到着。
宿場毎に早馬、早駕籠を乗り継いで何か食べる、飲むどころではない。飲んでも食べても口から戻してしまうから一切口に出来ず睡眠もとれない命懸けの使者。
殿の運命を知らせる第二の早使いは原 惣右衛門と大石 瀬左衛門。
赤穂へ 早く 赤穂へ 二人にはその思いだけがあった。
犬の刻、現在で言う午後8時頃に筆頭家老 大石 内蔵助と長男 主税、妻 理玖が待つ屋敷に、後に赤穂浪士に加わる大石家奉公人 寺坂 吉右衛門に迎えられて到着。
「第一報を受け取ってより腹の中が焼ける思いで待っておった。御上儀の御裁断は、殿のお身の上、いかが相成った、惣右衛門」。
内蔵助は早駕籠で到着し倒れそうな原 惣右衛門を怒鳴りつけた。
「殿は御生害、浅野家には断絶にござりまする」
「なに、殿は御生害と、殿は既に御生害と」
内匠頭留守で城の全てを預かり赤穂に留まった内蔵助。
内匠頭が幼少の時代から仕えてきた、愛する殿が自分が知らぬ間に世を去っていた。
大石 瀬左衛門は内匠頭お肉通しの刀と御時世、遺言を内蔵助に差し出す。
田村家付人が書き付けた書状は内蔵助に宛てたもののみ。弟 大学、妻 阿久理へのものはなく ただ内蔵助にのみ。
「お書き付けに刀まで添えた そのお心、なんと見られますか」
「殿が内蔵助にと、そう申されたか」
翌朝、城に集まった家臣は殿、内匠頭の身の上はどうなったかと筆頭家老 内蔵助に問う。
「その儀につき みなに申し渡す事がある。
昨夜 戌の下刻、江戸表より第二のお早が到着した。
それによると上様は三月十四日、酉の上刻、芝愛宕下 田村右京大夫様お屋敷お庭先にて御切腹に相なられたとの事でござる」
第一の報に接した折には既に殿は切腹しており しかも庭先での切腹にみな茫然となる。
江戸の屋敷に続いて赤穂の城も御取り上げになると騒ぎになる。
幕府にむざむざと明け渡すものではない、合戦だと、討ち死にだと騒ぎになる。
皆をいさめ内蔵助は田村 右京大夫より引き渡された内匠頭お肉通しの小さ刀、お書き付け、御時世を披露する。
「かねて知らせおくべきところなれど そのいとまなく こんにちの成り行き定めし不審に思うであろう無念である」
次いで「御時世 風誘ふ 花よりもなお我はまた 春の名残を いかにとかせぬ」。
赤穂城の家臣に残された道は幕府に城を明け渡す開城か、幕府を相手に合戦か、主君を追っての儀腹による殉死。
赤穂の町は城に籠城し幕府と合戦の噂で崩壊する。
人々は続々と町を後にした。
一方、江戸、京、大阪各地に散った家中の者は知らせを受け赤穂の城に戻って来た。
江戸屋敷に残った片岡 源五右衛門はじめ常のお供まわりの者は泉岳寺で内匠頭の初七日法事を営み全員がその場で髷を切り寺に残す。
その日からは仕官する侍ではなくなった。その日から浪人。
その姿で赤穂へと向かう。
妻 阿久理は実家である南武藩 赤坂下屋敷で名を瑤泉院と改め戸田局とともに亡き夫の菩提をともらう日々。
瑤泉院は吉良 上野介が深い傷を負ったが命を取り留めた事実を知っていた。
赤穂にいる大石 内蔵助が必ず仇をとってくれると信じ夫の位牌に祈り続ける。
片岡 源五右衛門らとは別行動の堀部 安兵衛は赤穂で内蔵助と再会し自ら調べ上げた御上儀らがひた隠しにする吉良 上野介の傷の具合、今どの様な暮らしぶりであるか、そして「理不尽な御決着、殿は吉良に対し刀に手をかけた時すでに浅野家断絶はお覚悟であった、それでもなお替え難きご鬱憤がおありになった。
この上はただ一念そのご鬱憤を散じるほかに我ら家臣たる者の務めはござりません。
無き殿の恨みの やいば その切先三寸、その恨みを我らが手で」と内蔵助に対し思いをぶつけた。
その夜、内蔵助のもとに江戸城からの書状を携え潮田 高教が到着。
城受け取りの使者が決まったとの内容とともに相手は隣国 辰野の城主 脇坂 淡路守(あわじのかみ)合わせて受け取り後の赤穂在番を務める事と相なった。
亡き殿の幼馴染み、無二の友である脇坂。
居合わせた堀部 安兵衛と潮田 高教に対し「どうだ 脇坂様相手に合戦ができるか」と問う。
自らが仕えた上様が心を許した脇坂を相手に出来る筈がなかった。
脇坂 淡路守による赤穂城受け取り方決定の報を受け家臣を集め何度目かの会議。
最初は百三十名を数える家臣が参集したが回を重ねる毎に人数は減っていった。
この回、六十名。
「もはや逡巡は許されぬ事ゆえ本日は衆議の一決を望みたいと存ずる、方々 、ご意見を賜ろう。
ご意見は ご意見はござらぬか」
家臣の中から小山田 庄左衛門が声を上げる「意見は既に出尽くしてござる、一つには亡き殿の後を追って殉死 追腹 。一つには弔い合戦による籠城 討ち死に。今一つは恭順開城。
この三つより他に道はないはず。
この上は大夫のお考えを以て一決を願いたい」。
家臣から「大夫お考えを」「お考えの明かしください」と声が飛ぶ。
が江戸にて殿のお供周りを務めた大高 源五が遮る。
「我ら江戸方の考えにては今の三つの道の他に今ひとつ道があると存ずる」
「おお賜ろう」「今ひとつの道とは」
内匠頭の最期の姿を見届けた片岡 源五右衛門が受けて「殿のご無念をお晴らし申すこと。
この赤穂の地におあす方々には一つお解りににならぬ事であろうが、この度の不慮の事、吉良 上野介ただいちにんの所業にござる。
上野介の度重なる無礼の段、その耐え難きをお家のため、家臣のためと歯がみして耐えた殿のお姿が この源五右衛門の瞼に焼き付いて離れませぬ。
しかもお上には理不尽なご裁き。
殿は命をお絶ちになり、吉良 上野介は生きてござる」。
「なにー!」と家臣一堂大騒ぎとなる。
堀部 安兵衛は「左様、上野介は生きておる。吉良を討たずして忠義の一文は立たぬ」。
「おおー 仇討ちじゃ」と満場に声が上がる。
「大夫、我らが存念お応え申した。この上は大夫ご自身のお考えをお示しくだされ」。
「では私の考えを言おう。
まず籠城合戦の儀、お気持ちはわかるが ここにお集まりの人数ではとてものこと、保って一日二日、かえって世間の物笑いとなり城下に迷惑かけること目に見えている。
また仇討ちの儀については上杉十五万石の頭首 綱憲公は吉良殿の実の子、その後ろ盾があってとなると困難を極め申す」。
「では大夫のお心は」
「恭順開城などはあり得まい」
「殉死でござるのか」の問いに「左様」と内蔵助は答え全員が唖然とする。が「ただの殉死ではござらぬ。
内蔵助 、殉死を以て御上儀に嘆願致したき儀がござる。
先君は御生害、お家は断絶になり申したが当家には御舎弟 大学殿がおあされる。
絶えたるを継ぎ滅びたるを起こすことこそ家臣としての務め。
我ら死を決して その儀、願いあげ奉ろうと存ずる。
弟君 大学殿お取り立てによる再興を。大学殿お取り立てに相なれば先君に対する一文が立とうというもの。
けして犬死ではありますまい」。
と内蔵助は巻き物を手に「したためた殉死嘆願の書でござる。ご賛同の方は末尾に署名血判を願いたい」。
既に内蔵助自身の署名血判がある。
数名が立ち上がり血判を押して行くのを見ていた江戸方お供周りの面々から片岡 源五右衛門が「拙者 この連判には加わりませぬ。
先君御生害の折り そのご遺体を多村家不浄門にてお待ち申し上げ泉岳寺までお供つかまつりました。
その道すがら、この御無念は必ずやお晴らし奉る、切先三寸届かざりしを必ず我らが手でと固くお約束つかまつってござりまする。
殉死と申すは拙者の胸中とは全く違う事。この連判はつかまつりませぬ。御免」
と言って出て行った。
同様に江戸にて内匠頭の近辺を務めた家臣は同様に出て行った。
内蔵助の考えに対し城内の思いは割れた。
読んで頂きありがとうございました。
全く放置状態なんですが別口で特に専用器具を使わずやれる簡単筋トレブログやってます。
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