6月22日は「ボウリングの日」


□ ボウリング(英語 bowling)の語源


ラテン語 bulla [泡・瘤(こぶ)]に由来する。類語としてゲルマン語 ball(球)、bowl(食器・容器)。


紀元前5000年頃の古代エジプトの墓から、木製のボールとピンが発掘されている。元々は、倒すピンを災いや悪魔に見立てて、それを沢山倒すことができたならば災いなどから逃れられるという一種の宗教儀式であった。


中世ドイツの宗教改革創始者、マルティン・ルター(Martin Luther、1483~1546年)が、ピンを9本、並べ方を菱形に統一、宗教家の間で近代ボウリング「ナインピンズ・ボウリング」(nine-pin bowling、九柱戯)ルールの原型になった。


17世紀になると、清教徒たちが移住した米大陸でもボウリングが盛んになった。ピンを10本、並べ方を正三角形に変えた、現代ボウリング「テンピンズ・ボウリング」(ten-pin bowling、十柱戯)ルールの原型になったのだ。


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□ 日本におけるボウリング史


1861年6月22日付け「The Nagasaki Shipping List and Advertiser」紙 (英貿易商A.W.ハンサードが創刊した日本最初の英字新聞) に、長崎市の外国人居留地・大浦で、オランダ人が伝えた、日本初のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」の開設が報じられた。


1952年、日本初の本格民間ボウリング場「東京ボウリングセンター」(東京・港区青山の神宮球場と秩父宮ラグビー場との間)に開業した。男子初のパーフェクトは1957年の岩上太郎。
1966~75年(ピークは70~72年)には、スター・プレイヤーである須田開代子(1938/8/2~95/11/20)・中山律子(1942/10/12~)らの出現によって "ボウリング・ブーム" 到来。
1970年8月21日、中山律子が女子プロボウラー初のパーフェクトゲームを達成。その後、"さわやか律子さん"の愛称で一大旋風を巻き起こした。
それに前後した1970年、スコアをボウラーが計算しなくても済む自動計算機能マシン「オートマティックスコアラー」が実用化。


1972年、「日本ボウリング場協会」 (略称「BPA」。1965年任意団体⇒1973年社団法人⇒2012年公益社団法人。品川区南品川2-2-10) は、前出の日本初のボウリング場「インターナショナル・ボウリング・サロン」が開設された1861年6月22日に因んで、この日を「ボウリングの日」に制定した。



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□ ボウリングと私


私が初めてボウリングを経験したのは大学浪人期(1966年)だった。当時はブームが始まった頃。金沢市内だけでも、香林坊・片町の映画街と同様、武蔵ケ辻~玉川町・専売公社ソバ~尾山神社ソバ~長町の金沢聖霊修道院&病院ソバ~片町・中央通りの間を中心に、金沢スタジアム・金沢スターレーン・片町中央ボール・ジャンボボール・カナザワ寿レーン・エバラ金沢ボウルなどが相次ぎ開設されて行った。中学の同窓生に熱いヤツがいて「金沢スターレーン」(金沢市尾山町10-5、1965~1975年。現「石川県文教会館」) に入り浸っていたため、私も釣られて予備校や図書館通いの後で立ち寄ったものだった。最高スコアはよくは覚えていないが恐らく学生時代に出した150~170点ではなかったかな? 
だが、社会人になってからも肝心のスコアが上がることはなかった。


社会人となって工場実習で青梅に滞在している間(1971年初夏)のこと。近くのボウリング場 [青梅線小作駅に近い今日の「西東京レーン」(青梅市新町9-1-1、1968年~) だったと思う] に、人気絶頂の中山律子さんが来ると言うので皆が騒いでいた。


1980年代~90年代の会社懇親ボウリング大会は、決まって「田町ハイレーン」(港区芝浦2-12-13、1972~2015年)で開かれたし、その後も仕事の途中の休憩に立ち寄っていた。
だが、そこも2015年3月を以って閉館した。



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□ お題 「みんなで集まった時の遊びといえば?」

 

 

 

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▽ 少年期(7~19歳)


正月を中心として我が6人家族で楽しむ遊びは多彩だった。百人一首はじめカルタ・トランプ、双六(すごろく)・源平合戦・福笑い。戸外なら、羽根撞(つ)き・独楽(こま)回し・凧上げ。枚挙に暇(まいきょにいとま)が無かった。



▽ 青/壮年期(20~40歳代)


ボウリングについては前述の通り。


一方、麻雀の全盛期に大学生~独身サラリーマンだった身。会社独身寮でも職場でも盛んで、同期・先輩・後輩の縦横に付き合ったものだった。学生時代は殆どが同期・先輩の下宿での対戦だったが、雀荘では金沢市尾山神社前の「オールグリーン」の利用が多かった。
結婚して頻度は落ちたものの、それでも1970~80年代前半は、残業を2H位した後で埼玉への終電時間を気にしながら、愛宕下通りの雀荘などで過ごした。利用した主な雀荘は虎ノ門界隈の「ちえ」「あき」「東(あづま)」など。
1980年代後半~90年代の経済バブル景気の頃に私はグリーンの雀牌(ジャンパイ)を買い、肉親の子供たちがやって来ると、トランプに混じって「家庭麻雀」で遊んだ経験があった。炬燵(こたつ)の天板(裏面はラシャ張り)を裏返して、麻雀卓として利用していた。
1980~2000年代は、週1回⇒月1回⇒年数回へと頻度は急速に下がる一方だったが、昭和世代のサラリーマンには或る種"ノスタルジア"さえ覚えるコミュニケーションツールだった。
利用した雀荘は、芝~浜松町~新橋界隈、そして渋谷道玄坂の「健康麻雀ガラパゴス」など。