■ 5月28日は「花火の日」


「隅田川花火」は東京下町の盛夏における風物詩の一つ。この大会は、大飢饉とコレラ(通称コロリ)の流行によって、江戸で多くの死者が出た1732年、第8代将軍・徳川吉宗が大川端(現・隅田川河畔)で催した、「川施餓鬼」(かわ-せがき、死者の霊を弔う法会)に遡(さかのぼ)る。
翌1733年の7月9日(旧暦の享保18年5月28日)、幕府は「川施餓鬼」と併せて、慰霊と悪病退散を祈願する目的で、「両国川開き」の日に水神祭を実施し、花火を打ち上げたのがルーツ。
打ち上げ(約20発)の初期は鍵屋が担当。後の1808年からは、鍵屋の番頭・玉屋清吉(市兵衛)が暖簾(のれん)分けで、2業者体制となり腕を競い合って行った。


1978年に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、以後は毎年7月の最終土曜日に開催されて来た。
だが、一昨年2020年~今年2022年は新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大の影響を受けて、開催の中止が決定された。
歴史的に見て、この花火大会は "飢餓と疫病" に立ち向かうことが趣旨なので、コロナウイルスを恐れて中止するのは真逆だと言ってはみても-----開催すれば "三密" の坩堝(るつぼ)となるだろう。


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■ お題「最近、手持ち花火したことある?」

 

 

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子どもの頃(1950年代)は、家族挙(こぞ)って夏休み毎に何回も「線香花火」を、時として「仕掛け花火」をして楽しんだものだった。
そして我が家の子供たち(1980~90年代)もまた夏毎に、それらの花火をして楽しんで来た。だがそれ以降はした記憶は無い。

出典 istockphoto.com




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□ 特に記憶に残る花火大会

 
 
▽「金沢犀川/浅野川/内灘花火」の思い出

金沢で生まれ育った我が夫婦は、1960年代の「犀川花火」「内灘花火」(北國新聞主催の「北國花火」と総称)、「浅野川花火」(北陸中日新聞主催)などが今でも記憶として残っている。


▽「東武動物公園花火」の思い出

1981年に開園した「東武動物公園」(埼玉県南埼玉郡宮代町) の花火は、近くに住んでいた時期(1981~2006年)には最高の風物詩として楽しむことができた。当時、少年少女時代を過ごした我が子供たちにとって、何時までも良い思い出として残っているに違いない。


▽「臨海副都心カウントダウン2000 in お台場」の思い出

現役サラリーマン時代で最も記憶に残った花火と言えば、"Y2K" と呼ばれた2000年問題を控えた1999年末~2000年始。19XX⇒2000と、閏年(うるうどし、2000/2/29)とが重なるため、それに対応するコンピューターソフトウェアに直しておかないと、00年を1900年と見なしたり、更に1900年は閏年ではなかったためダブルで誤動作を起こしたりする恐れがあった。1999年の1年間は、我々、日本の情報通信業界だけでなく、世界各国の政府・経済界全体が対策を講じることに躍起(やっき)となったばかりでなく、どこかに見逃したり抜けがあったりしていないかと、神経過敏な状態の中、1999年の暮までにシミュレーションを繰り返し、2000新年の休暇を返上して監視し続けたのであった。
そして遂に迎えた2000年1月1日0時0分。問題なく迎えることができた新年は、泊り込んで来た会社で我々は役員と共にシャンパンで乾杯した。折しも、眼下の東京湾では年越し(カウントダウン)花火が美しく開いて、来たるミレニアム(2001年)への幕開けを祝っていた。



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昨日5/28(土)の午後は、妻に頼まれて人形町へ棒茶を買いに出掛けた。


国際通り⇔江戸通り⇔水天宮通り⇔甘酒横丁。


□ 隅田川==「駒形橋 西詰」(台東区駒形2)

「花火の日」に因んで、「お好み焼 ボン花火」(駒形2-1-7) 前を通った。

 




□ 水天宮/甘酒横丁側の「江戸落語からくり櫓(やぐら)」(中央区日本橋人形町2-2/3)・・・下の写真、

人形町商店街側の「町火消からくり櫓」(日本橋人形町1-15/16)




□「日本茶専門店・甘味処 森乃園(もりのえん)」(日本橋人形町2-4-9)

「宇治産茶葉の棒ほうじ茶」(掛川市の丸山製茶製)

 

 

 


□ 日本橋人形町2付近

ガクアジサイ / スミダノハナビ




□ 中央区日本橋蛎殻(かきがら)町1付近

ガクアジサイ

 




□ 神田川==「浅草橋  北詰」(台東区柳橋1)

タチアオイ