■ 4月5日は「ヘアカットの日」
□ 「丁髷」(「ゝ髷」、ちょんまげ。英語「topknot」) の歴史
▽ 戦国期 (15世紀後半~16世紀)
武士の兜(かぶと)が改良され、頭に密着し防御力が高まった反作用として、兜を被(かぶ)った時に頭が蒸(む)れるようになってしまったため、戦いの前には前頭部~頭頂部にかけて、頭髪を抜いたり剃(そ)ったりするようになった。
剃り上げた部分を「月代」(さかやき)、結った部分を「髷」(まげ)と呼び、更にその形から俗称として「丁髷」(「ゝ髷」、ちょんまげ)と呼ぶようになった。
▽ 江戸期 (17世紀~19世紀半ば)
武士たちは、平和な世になったにも拘わらず、その清潔感や好感度の高さから、日常的に頭を剃って「月代」にし、髪を結って「丁髷」を作るヘアスタイルが確立した。
男性の丁髷や女性の髪を結った職業の者は、風呂屋などで行う場合には「髪結」(かみゆい)、自分の店を持つ場合には「髪結床」や「床屋」と呼んだ。この「床屋」という呼び方は今日でも残っている。
▽ 明治維新期 (19世紀後半)
1871年、明治維新政府は太政官の布告として、「散髪・脱刀勝手たるべし」との旨の「散髪脱刀令」(「断髪令」)によって武士が髷を切り刀を差すのを止め、男性はそれまでの丁髷(ちょんまげ)から散切頭 (ざんぎりあたま、別称・斬髪) にすることが奨励された。
"散切頭を叩いてみれば文明開化の音がする" という流行(はや)り歌が登場した。
1873年、敦賀県(現・福井県)で、断髪令に反対し散髪・洋装の撤廃を要求した一揆が3万人規模で発生し、6人が騒乱罪で死刑となった。
一方それに前後して、断髪令発布の趣旨を婦女子も散髪すべきであると誤解して断髪を自ら行う都会の女性が続出したりした。
そのため1872年4月5日、東京府が「男性に限って許可した断髪を女性が真似てはならない」とする「婦女子散髪禁止令」を出した。
▽ 現在に至るまで髷を結う風習・風俗は大相撲界に残っており、力士の髷を結い上げる職業もまた今も「床山」と呼んでいる。
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□ お題「美容院に行く頻度は?」
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▽ 1983~2006年
私は元々"若白髪" だったのだが、30才台後半の頃から目立って増えて来たため、床屋代の節約もあって、妻が散髪も染髪(カラーリング)もしてくれるようになった。
▽ 2007~2019年
埼玉から浅草へと引っ越してからは、近場の安価な床屋で散髪してもらい、帰宅して妻に染髪してもらうやり方となっていた。
▽ 2020年~
「コロナ禍」となってからは、再び全てを妻にやってもらっている。頻度は概ね1カ月半。
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■「清明の候」PartⅡ。
「清明」の季節(4/4~4/19) が到来した今日4/5(月)の朝、
言問通り~千束通り~「地方橋(じかたばし)」
□「区立山谷堀公園」(台東区東浅草1~浅草6/7)
ハナミズキ / アカバナ

サトザクラ/イチヨウ(一葉)

「吉野橋」(浅草7-9)、隣接の「都立浅草高校」(台東区今戸1-8-13)
サトザクラ / カンザン(関山)

サトザクラ / フクロクジュ (福禄寿)

オオシマザクラ / スルガダイニオイ(駿河台匂)

ドウダンツツジ

キリシマツツジ

コデマリ

文字通り露が光るムラサキツユクサ

背景に「東京スカイツリー」
手前に「今戸橋」~イベント広場(浅草7-1)
左手ハナミズキ、右手サトザクラ / カンザン

□「台東清掃事務所」(今戸1-6−26) 前の花壇
フリージア

アネモネ

□「台東リバーサイドスポーツセンター」(今戸1-1-10)
サトザクラ/フゲンゾウ(普賢象)

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橋場通り~隅田川=「白鬚橋」(台東区橋場2~墨田区堤通1) ~墨堤通り
□「サングランデ桜橋」(堤通1-1-1) 前通りの花壇
シロバナエニシダ

ウツギ

原種チューリップ/クルシアナ系

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□「都立東白鬚公園」(墨田区堤通2-2)
春のノムラモミジ

モッコウバラ

シダレカツラ、トキワマンサク
ゲンペイモモ

ハンカチノキ

ボタン

ハゴロモジャスミン

デルフィニウム(オオヒエンソウ)

ジャーマンアイリス

ショカッサイ(ハナダイコン)、セイヨウアブラナ(ナノハナ)、ゼニアオイ
奥にハナミズキ

ドイツスズラン

セイヨウジュウニヒトエ(セイヨウキランソウ/アジュガ)

999
ムラサキツユクサ

クレマチス(テッセン)

ハナニラ

アネモネ

ネモフィラ

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