■ 2月9日は「漫画の日」
1989年2月9日、日本を代表する漫画・アニメ作家の手塚治虫が亡くなった忌日に因み、漫画本専門の古書店「まんだらけ」が2月9日を「漫画の日」と制定した。この日は「治虫忌」とも呼ばれる。
「まんだらけ」は、1980年、漫画雑誌「ガロ」(青林堂)などで執筆していた漫画家・古川益三(1950年10月21日滋賀県長浜市生まれ) が、中野ブロードウェイ(中野区中野5-52-15) に開店したのが始まり。
□ 手塚治虫 (1928年11月3日~1989年2月9日) の略歴 <更新>
1928年11月3日、大阪府豊能郡豊中町(現・豊中市本町付近) 生まれ。本名は手塚治。明治天皇の誕生日「明治節」に生まれたことから「明治」に因んで「治」と名付けられた。後のペンネームは少年時代から昆虫をこよなく愛していたことから「虫」という字を当てた。
1933年、一家は兵庫県川辺郡小浜村川面(現・宝塚市武庫川町) に移住した。
1935年(6歳時)、大阪府池田師範附属小学校(現・国立大阪教育大学附属池田小学校)に入学した。
1941年(12歳時)、大阪府立北野中学校(現・大阪府立北野高校)に入学した。
1944年、強制修練所⇒軍需工場に駆り出された。
1945年(16歳時)、5年制の北野中学校を4年で卒業。勤労奉仕中に大阪大空襲(3~8月)に遭遇した。大阪帝国大学附属医学専門部に合格し入学した。
1946年(17歳時)、「少国民新聞」(現在の「毎日小学生新聞」)連載の4コマ漫画「マアチャンの日記帳」(1946年1月1日~3月31日) で漫画家デビューした。
1947年、原案: 酒井七馬、作画: 手塚治虫の長編描き下ろし単行本「新宝島」が、ベストセラーとなり大阪に赤本ブームを引き起こした。
1950年から漫画雑誌に登場し、「ジャングル大帝」(学童社「漫画少年」1950年11月~1954年4月)、「鉄腕アトム」(光文社「少年」1952年4月~1968年)、「リボンの騎士」(講談社「少女クラブ」1953年1月~1956年1月) といったヒット作を次々と手がけた。
1951年(22歳時)、大阪帝国大学附属医学専門部を卒業し、大阪大学医学部附属病院で1年間インターンを務めた。
1952年(23歳時)、連載漫画の執筆をしながら第十二回医師国家試験に合格し、1953年9月に医籍登録された。この頃、宝塚から東京に移住した。
1953年(24歳時)、「トキワ莊」(豊島区椎名町5-2253 ⇒現・南長崎3-16-6) に入居し、以降「トキワ荘」には手塚に続いて寺田ヒロオ、藤子不二雄が入居した。手塚自身が転出してからも石ノ森章太郎、赤塚不二夫など後に著名となる漫画家たちが続々と入居し、"漫画家の梁山泊" となった。
1954年、「火の鳥」(学童社「漫画少年」1954年~1986年)の連載を開始し、その後も出版社の事情によって掲載誌を変えながら長年に描き継がれ、手塚のライフワークとなった。
1957年、お見合いした岡田悦子さん(実は幼馴染だったが彼女には記憶が無かった) と交際後、新宿区代々木初台で4月から新婚生活を始めた。
1959年、週刊誌ブームを受けて週刊漫画雑誌「少年マガジン」(講談社)および「少年サンデー」(小学館)が創刊され、月刊誌は次第に姿を消して行った。
1959年10月4日(30歳時)、岡田悦子さんと阪急宝塚ホテルにて結婚式を挙げた。
1960年、練馬区谷原町 (現・富士見台2-30-5)に自らデザインした新居を構えた。
<追記>
1961年、自作の停滞感から一時、漫画を離れて奈良県立医科大学に籍を置き医学研究に従事していたが、この年の1月に学位論文「異型精子細胞における膜構造の電子顕微鏡的研究 (タニシの精虫の研究)」により医学博士号を取得。その後、アニメーション制作のため「手塚治虫プロダクション動画部」を設立した。
1962年、「(株)虫プロダクション」(練馬区富士見台2-30-5) と改名し法人化した。
<追記>
当初は少数スタッフで低額収入のアニメ製作が虫プロ経営を苦しめたが、省力化できるリミテッド手法で乗り切り、「鉄腕アトム」が大ヒットすると版権収入で莫大な利益が上がるようになり、また海外に向けて作品の放映権+派生商品を展開する権利を販売できたことなどにより、急速に規模が拡大して行き、最盛期には社員総数が400~550名規模となる放漫経営に陥って行った。
1967年、「虫プロ商事」が月刊誌「COM」を刊行開始し、「火の鳥」連載を開始した。「ジャングル大帝」が第28回ヴェネツィア国際映画祭サンマルコ銀獅子賞を受賞。
1968年、漫画制作・管理のための別会社として「(株)手塚プロダクション」(練馬区富士見台2-18-12 越後屋ビル ⇒現・新宿区高田馬場4-32-11 セブンビル)を設立した。これによりアニメ制作は虫プロ、漫画制作は手塚プロに切り分けた。
1970年、「火の鳥」(虫プロ「COM」1967~1986年)で第1回講談社出版文化賞(児童まんが部門)を受賞。
1972年、「ブッダ」(潮出版社「コミックトム」1972~1983年) 連載を開始した。
1973年、「虫プロ商事」「虫プロ」が相次いで倒産した。「ブラック・ジャック」(秋田書店「週刊少年チャンピオン」1973~1983年) 連載を開始した。
1974年、一家は練馬区富士見台2-30-5から杉並区下井草5の借家に転居した。
1975年、 「ブッダ」「動物つれづれ草」(平凡社「アニマ」1973年10月~1974年9月) により第21回文藝春秋漫画賞を受賞した。「ブラック・ジャック」により第4回日本漫画家協会賞特別優秀賞を受賞した。
1977年、「三つ目がとおる」「ブラック・ジャック」により第1回講談社漫画賞(少年部門)を受賞した。講談社が「手塚治虫漫画全集」刊行を開始した。
1978年、日本アニメーション協会の初代会長に就任した。
1986年、「アドルフに告ぐ」(文藝春秋社「週刊文春」1983年1月~1985年5月) により第10回講談社漫画賞(一般部門)を受賞した。
1988年、 戦後マンガとアニメーション界における創造的な業績により朝日賞を受賞した。実験アニメーション「森の伝説」で毎日映画コンクール大藤賞を受賞した。ザグレフ国際アニメーション映画祭CIFEJ賞(青少年映画賞)を受賞した。
体調悪化により急遽入院し、スキルス性胃癌と判明するが本人自身には伝えられず。11月1日に大阪教育大学附属池田小学校で生涯最後の講演を行った。
1989年2月9日、胃癌により入院中の半蔵門病院にて死去(60歳没)。戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。没後に日本政府から勲三等瑞宝章の叙勲。日本SF作家クラブの第10回日本SF大賞特別賞を受賞した。
1990年、東京国立近代美術館で回顧展が開かれた(国立美術館で漫画家の回顧展は空前のこと)。全業績に対して第19回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞した。
2002年、米国アイズナー賞の「漫画家の殿堂」入り。日本漫画家協会と出版社5社は手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを提唱した。
2004年、「ブッダ」英訳版がアイズナー賞最優秀国際作品部門を受賞した。
デビューから亡くなるまで第一線で作品を発表し続け、存命中から「マンガの神様」と評された。
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■ その他の「漫画の日」
□ 3月17日は「漫画週刊誌の日」
1959年3月17日、講談社から少年向け週刊漫画雑誌「週刊少年マガジン」とともに、小学館から少年向け週刊漫画雑誌「週刊少年サンデー」が発刊されたことに因み、3月17日は「漫画週刊誌の日」となった。
□ 7月17日は「漫画の日」
1841年7月17日、イギリスの絵入り風刺週刊誌「パンチ」が発刊されたことに因み、7月17日は「漫画の日」となった。この英語版「パンチ」は1992年に廃刊されるまで151年間刊行されていた。尚、1862年(文久2年)に日本語版「ジャパン・パンチ」は1862年に発刊され、日本における漫画の呼称のひとつ「ポンチ絵」の語源となった。
□ 11月3日は「まんがの日」
手塚治虫の誕生日である11月3日を「漫画の日」とすることを、2002年に日本漫画家協会と出版社5社が提唱した。
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□ お題「最近、ハマっている漫画教えて!」
▼本日限定!ブログスタンプ
過去に好きだった漫画は次の通り。
島田啓三・作「冒険ダン吉」(講談社「少年倶楽部」1933~1934年連載、単行本1934年刊行の古本)
竹内つなよし・作「赤胴鈴之助」(少年画報社「少年画報」1954年8月~1960年12月連載)
手塚治虫・作「鉄腕アトム」(光文社「少年」1952~1968年連載)
赤塚不二夫・作「おそ松くん」(曙出版1962~1969年刊行)
東海林さだお・作「サラリーマン専科」(講談社「週刊現代」1969年1月~2010年3月連載)
山上たつひこ・作「がきデカ」(秋田書店「少年チャンピオン・コミックス」1974~1980年刊行)
長谷川町子・作「サザエさん」(姉妹社文庫本1983年刊行)
鳥山明・作「Dr.スランプ」(集英社文庫1980~1984年刊行)
手塚治虫・作「アドルフに告ぐ」(講談社「手塚治虫漫画全集 ~アドルフに告ぐ」1996年刊行)
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今日2/9(火)は終日、曇天で冷え込みが強かった。
浅草通り⇔中央通り⇔靖国通り⇔北の丸公園。
サイクリング12.3km & ウォーキング3,600歩。
■「環境省皇居外苑 北の丸公園」(千代田区北の丸公園)
□「千代田区役所 無線通信鉄塔」(千代田区九段南1-2-1)

「(公財) 科学技術館」(北の丸公園2-1)

マンサク

□「旧江戸城 清水門」
シジュウカラの番(つがい)









