■ 9月12日は「プログラマーの日」(ロシア語 День программиста、英語 Programmers' Day)
コンピュータのデータを扱う単位である1バイト(byte)==8ビット(bit)で、0と1 (電流がOFFとON) という2通り(2進法) で、2の8乗==256通りの数字を表わすことができる。
そのことから、1年の始め1月1日から256日目に当たる9月13日 (閏年は9月12日)が「プログラマーの日」として定められ、
2009年に「ロシア情報技術・通信省」によりロシア国の公式な祝日と認められた。
従って閏年の今年2020年は9月12日となる。
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□ お題「プログラミングを体験してみたい??」
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私がサラリーマンになった1971年に新人研修の一環として、当時は主流だったFORTRAN66 (科学技術計算向きプログラミング言語) や COBOL68 (事務処理向き共通プログラミング言語) のプログラミング実習があった。
私は大学生時代、哲学や美学や映画の世界に埋没していたことから、近代経済学や数理学やマイコンの世界に無縁だったため、チンプンカンプンだった。
後に親友となったT君が大学時代からプログラミングを履修していたので、カンニングして実習を切り抜けられたのだった。
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■ 9月12日は「マラソンの日」
紀元前490年9月12日、アテナイ(アテネの古名) を襲いアッティカ半島のマラトンに上陸したアケメネス朝ペルシャ遠征軍を、アテナイ・プラタイア連合軍の将軍ミルティアデス(ギリシャ語 Μιλτιάδης、英語 Miltiades、紀元前550年頃~紀元前489年)が、重装歩兵密集部隊による奇策で劇的勝利を収めた。
フェイディピデス (ギリシャ語 Φειδιππίδης、英語 Pheidippides) という兵士が伝令となった。2説あるが②が有力説。
①ペルシャ軍のマラトン上陸を知らせスパルタ軍への救援を要請するため、アテナイ城門までの225kmを2日間で走破して絶命したと言われる日。
②勝利のエウアンゲリオン(朗報)をアテナイの元老に伝えるため、マラトン~アテナイの40kmを駆け抜けアテナイの郊外で「我勝てり」と告げた後に絶命したと言われる日。
1896年4月6日~15日(ユリウス暦で3月25日~4月3日)、アテネで「第1回オリンピック競技大会」が開かれるに当たり、この故事を偲んでマラトン~アテネ・パナシナイコ競技場の42.195kmの競走が加えられ、それが初のマラソン競走となった。
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昨日9/12(土)の午後、空模様は怪しかったが、近隣の浅草・上野など台東区における "記念碑" を巡回しようと外出したところ、
案の定(苦笑)、俄雨(にわかあめ)に見舞われて濡れてしまったため、途中退散となった。サイクリング&ウォーキング1,600歩と僅か。
■ 「台東区の記念碑」#1 <タイトル訂正>
▽「仁丹塔」跡 (台東区西浅草1-8-13、2000年?)
1932年、「浅草国際通り 雷門一丁目交差点」傍に「浅草凌雲閣十二階」(東京市浅草区浅草公園五区千束町2-38、現在の台東区浅草2-13-10) を模した森下仁丹の広告塔「仁丹塔」が完成し、当時のランドマークとして親しまれていたが、1942年に太平洋戦争激化による金属供出のため解体された。戦後の1949年に再建した二代目もまた、1986年に老朽化によって解体された。
現在、その跡地にはコンビニの「ファミリーマート 西浅草一丁目店」(西浅草1-8-13)が立地しており、壁面プレート「仁丹塔跡」が設置されている。しかし以前訪れた時は無かったイタズラ描きがされていた。

▽「淺草紅團」所縁の場所 (西浅草1-8-12)
川端康成・原作の長編小説「淺草紅團」(『東京朝日新聞』1929年12月12日号~1930年2月16日号連載)に登場する。
『・・・雷門の交番横に「花川戸に集まれ。紅座」という紅団の告知板を見た「私」(主人公の小説家)・・・』の『雷門の交番』とは現在の「蔵前警察署田原町交番」横(西浅草1-8-12)。

▽「浅草国際劇場」跡 (西浅草3-17-1)
1937年、「日蓮宗妙祐山幸龍寺」(現在は世田谷区北烏山5-8-1) の跡地に建設され松竹歌劇団(SKD)のグランドレビューと松竹映画の上映が行われた。私は1961年の中学2年生修学旅行でレビューを観覧した!!
1982年の閉鎖後に取り壊され、跡地には「浅草ビューホテル」が建てられた。劇場前の都道462号線は現在も「浅草国際通り」と呼ばれている。

▽「久保田万太郎生誕の地」(台東区雷門1-15-12)
久保田万太郎は1887年にこの地(東京市浅草区浅草田原町3-10)で生まれ、1914年に移転するまでの26年間在住した。1963年に永眠まで、常に下町の義理と人情を描写した小説や戯曲作品を著わして文学界・演劇界に多大の功績を残した。『末枯』(1917)、戯曲『大寺学校』(1927)、句集『道芝』(1927)、『春泥』(1928)、『花冷え』(1938)、『市井人』(1949)、『三の酉』(1956、読売文学賞)、菊池寛賞(1942)、文化勲章(1957)など。傍には「江戸料理 櫻田」(炭焼き、雷門1-15-12永谷マンション1F)がある。

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▽「鳩ポッポの歌碑」(台東区浅草2-3-1「浅草寺 本堂」斜め向かい、1962年)
作詞の舞台となった浅草寺本堂西側に建立された。童謡「鳩ポッポ」は、作詞家・東くめが浅草寺境内にて鳩と戯れている子供たちを見て、この歌詞を書き、滝蓮太郎により作曲された。

▽「浅草観光讃緒の碑」(台東区浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1968年)
浅草観光に多大な貢献をされた諸先輩方の名が、「浅草観光連盟」によって刻まれている。

▽『石井漠「山を登る」記念碑』(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1963年)
近代バレエの創造、浅草オペラの旗揚げ、300数曲の創作舞踊など、舞踊生活50年の山坂道を失明に喘(あえ)ぎながら登り詰めた不滅の魂を記念した。題字は谷崎潤一郎・筆。

▽「映画弁士塚」(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1959年)
明治の中葉(1896年)、我が国に初めて活動写真(無声=サイレント映画)が渡来するやこれを説明する「活動弁士」が誕生した。幾多の名人・天才が相次いで現れ、その人気は映画スターを凌ぎ光彩を添えたが、1913年の「カチューシャの唄」に始まり昭和初頭(1920年代後半)のトーキー映画の本格出現のため、7,000人もいた弁士は1930年代には転職して姿を消すに至った。題字は鳩山一郎・筆。

▽「喜劇人の碑」(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1982年)
浅草はかつて "日本のブロードウェイ" と呼ばれた華やかな街。人々に笑いと喜びを与えてくれた喜劇人たちに感謝の意を表し建立された。題字は森繁久彌・筆。

▽「半七塚」(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1949年)
三河町の半七、岡本綺堂・原作『半七捕物帳』の主人公。時代小説と探偵小説を融合した「捕物帳物」が文学上定着し様々な捕物帳が書かれることになったが、中でも『半七捕物帳』は別格的な傑作として位置づけられ、江戸風俗の考証では綺堂には叶わないと言われる。野村胡堂『銭形平次捕物控』、佐々木味津三『右門捕物帖』、横溝正史『人形佐七捕物帳』、城昌幸『若さま侍捕物手帖』を加えて "五大捕物帳" とも称される。
▽「三匠句碑」(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1809年建立⇒1894年移築)
江戸時代を代表する俳人3名の句碑。俳諧・連歌は当初は関西(西山宗因ら)を中心に流行し、次第に全国へ波及して松尾芭蕉の蕉風俳諧(松尾芭蕉とその弟子の榎本其角や河合曾良ら)の基礎を築いた。
「ながむとて 花にもいたし 頸の骨」宗因、「花の雲 鐘は上野か 浅草か」芭蕉、「ゆく水や 何にとどまる のりの味」其角。

▽「瓜生岩子女子の銅像」(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」、1901年)
夫で会津藩侍医・山内春瓏の薫陶を受け、堕胎間引きの防止に関心を持つに至る。1868年の会津戦争で孤児となった幼童の教育に尽力し、堕胎など当時の様々な悪習を正し、1889年に貧民孤児救済のため福島救済所を設立するなど社会事業の推進に努めた。岡本綺堂・筆。
▽「九代目市川団十郎 暫(しばらく)銅像」(浅草2-3-1「浅草寺 新奥山」浅草寺病院裏手、1919年⇒再建1986年)
歌舞伎の市川流家元にして市川一門宗家の名跡・市川團十郎。九代目團十郎は江戸末期から明治にかけて活躍した。伝統的な様式美に史実に基づく考証や演出を加味し、歌舞伎の近代化を図り、江戸庶民の娯楽としての歌舞伎に芸術性を伴う日本独自の文化としての価値を加えたことでも知られている。

以下、俄雨のため中断し帰宅した。
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昨日の夜は一気に涼しくなり、エアコン無しで安眠できたようだ (私はブログを書いていたので起きていた)。
最高気温℃
9/11(金) 32.5 ⇒ 9/12(土) 27.7
-4.8





