■ 3月11日は「東日本大震災の日」。
2011年3月11日、「東北地方太平洋沖地震」勃発による「東日本大震災」が発生した。
東日本大震災 被災直後の気仙沼市内 時事通信20110312
発生した当初のブログ記事を掲載すると---
『 妻が初めて「花粉症に罹(かか)った」というので、「とうとう文明人になったね」と薬局へ送り出してから、15分程経っただろうか? 激しい地震が襲った。横になっていたが、どんどん強い揺れとなり、「もしかして、大震災かもしれない、逃げた方が良さそうだ」と思い急いで準備していると、大型液晶テレビが踊っている。必死に手で押さえる。少し弱まったのを見計らって出る。エレベーターが停止している。階段から下り、マンションの外へ出ると、妻が戻って来た。薬を買えず仕舞いで・・・。』
この大震災は、東北地方~北関東地方に未曽有の被害(※1)をもたらし、今尚、地震・津波、原発事故の傷痕を残したままで、安倍内閣による復興はオリンピック開催を優先しているキライがあって遅々としている。
私が住む浅草は被害が少なく、短期間、飲料水や東北産タバコに不自由した程度だった(計画停電も無かった)ので、深刻な被災地の住民の皆様には申し訳ない気持ちである。
(※1)
□□「東日本大震災」
□「東北地方太平洋沖地震」
2011年3月11日(金)14時46分18秒、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(深さ24km)を震源とする Mw9.0 の日本周辺における観測史上最大の地震が勃発した。
この地震により、波高10m以上、最大遡上高40.1mにも上る巨大津波が襲来した。
2020年3月1日時点で、死者15,899人+行方不明者2,529人=18,428人、重軽傷者6,157人。建築物の全壊121,991戸+半壊282,902戸=404,893戸。農地被害21,476ha、漁船被害28,612隻。
震災発生直後のピーク時で、避難者約47万人、停電世帯800万戸以上、断水世帯180万戸以上。
9年経った今でも尚、避難者等47,737人。避難所等での震災関連死3,739人。
東日本大震災の被害状況 毎日新聞20200301現在
□「福島原子力発電所事故」
地震から約1時間後に遡上高14~15 mの津波に襲われた東京電力福島第一原子力発電所は、1~5号機で全交流電源を喪失し、原子炉を冷却できなくなり、1~3号炉で炉心溶融(メルトダウン)が発生。大量の放射性物質の漏洩を伴う重大な事故、国際原子力事象評価尺度 (INES)で最悪のレベル7事故に発展した。
空間放射線量が年間20ミリシーベルト(mSv)以上の地域は約500㎢の範囲に及んだ。
半径20km圏内を警戒区域、20km以遠の放射線量の高い地域を計画的避難区域として避難対象地域に指定し、10万人以上の住民が避難し長期化している。
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■ これを機に、これまで私が遭遇した大規模な災害・事故・事件を整理してみた。
▼ 1959年9月26日に潮岬⇒紀伊半島に上陸した台風第15号は、伊勢湾沿岸の愛知県・三重県の被害が特に甚大であり「伊勢湾台風」と呼ばれることとなった。被災者はほぼ全国に亘り約153万人。死者4,697人、行方不明者401人、負傷者38,921人。建築物の全壊36,135棟、半壊113,052棟、流失4,704棟。床上浸水157,858棟、船舶被害13,759隻。
伊勢湾台風 愛知県半田市内 日本経済新聞195909
当時を回顧して書いたブログ記事を掲載すると---
『 1959年9月26~27日に中部地方全域を襲った、「台風15号」・・・後に「伊勢湾台風」と命名・・・の被害のことを思い出した。当時の私は小学校6年。北陸では台風といえば殆どの場合、勢力が弱まってから通過するのだが、このモンスターは、26日の夜やって来て・・・北緯36度・東経136度は940ミリバール・・・、隣の春日神社の大きな杉の木が私の家の屋根に倒れ、父の指揮の下に家族全員で2階の壁と柱を支え続けた。翌日、氏子の皆さんが杉を斬ってくれ倒壊を免れた。』
▼ 1962年(昭和37年)12月末~1963年(昭和38年)2月初めの約1カ月間、北陸地方を中心に東北地方~九州地方の広範囲で、「昭和38年1月豪雪」(通称「三八(サンパチ)豪雪」)が起こった。我が金沢市は、1月22~27日の6日間に310cmの降雪があり、うち1月27日は史上最高の積雪181cmを記録した。全国の被害・・・死者228人、行方不明者3人。建築物の全壊753棟、半壊982棟。
当時を回顧して書いたブログ記事を掲載すると---
『 その時の私は中学3年生。1月22日~2月1日の「38(サンパチ)豪雪」は北陸でもかつてない程の厳しい豪雪だった。容赦の無い降雪と屋根からの落雪で、とうとう家は2階まで積もってしまい2階が玄関代わりとなり、唯一の交通手段のバスが来てくれず、通勤通学もかれこれ1カ月間も徒歩で通った。3月上旬の高校受験を間近かに控え不安な冬の出来事だった。』
38豪雪 新潟県長岡市内 196301の報道写真(ジオテクサービスが保存)
▼ 1973年10月6日に第四次中東戦争が勃発し、石油輸出国機構(OPEC)加盟産油国のうちペルシア湾岸6カ国が、相次いで原油価格を引き上げる原油生産を削減した。1960年代以降にエネルギー源を石炭から石油に置き換えていた日本は、ニクソン・ショック(米ドル危機)⇒円高不況から立ち直ろうとしていた景気を直撃。1972年からの列島改造ブームによる地価急騰で急速なインフレが発生していたが、この石油危機により相次ぐ便乗値上げにより一層インフレが加速された。そして労働組合も賃上げに走った。
日本の消費者物価指数で1974年は23%上昇し「狂乱物価」という造語まで生まれた。「オイルショック(石油危機)」のインフレ抑制のために公定歩合引き上げが行われ企業の設備投資を抑制する政策がとられた結果、1974年は-1.2%という戦後初めてのマイナス成長を経験し高度経済成長がここに終焉を迎えた。
当時の私は、新社会人3年目で会社の独身寮(世田谷区玉川)に入居していた。当時を回顧したブログ記事を掲載すると---
『 1973~74年(昭和48~49年)と言えば、かの「オイルショック(石油危機)」と「狂乱物価」の時期。物価と給料が1年間で125~135%もアップする程の異常インフレとなり、我が国は戦後初めて実質経済成長がマイナスとなった。1974年11月初頭、或る休日、駅前の東急ストアへ行くと、 店員の誘導の大声でどんどん前進、狂ったような客の姿が見えて来て、事情を知った。トイレットペーパや洗剤の列ではないか、なあんだと並ぶのを止めた。会社の寮生活だったので、それらには余り困っていなかったからである。友だちの自宅を訪ねた折、台所に所狭しと洗剤・シャンプー・石鹸のヤマがあった。それ程に危機感があった時期だった。』
オイルショック 狂乱物価
スーパーマーケットにトイレットペーパー・洗剤などを買い漁る主婦たち
▼ 1995年3月20日午前8時頃の東京都区内ラッシュアワー時間帯の営団地下鉄(現・東京メトロ)日比谷線2本、丸ノ内線2本、千代田線1本の計5本の電車内で、「オウム真理教」の幹部らが猛毒サリンを撒いた同時多発テロ事件のひとつ「地下鉄サリン事件」。乗客・駅員ら13人が死亡、6,000人以上が重軽傷を負った。関与した犯人グループの教団元代表・麻原彰晃こと松本智津夫死刑囚ら10人の死刑(⇒2018年7月執行完了)と4人の無期懲役が確定した。
当時の私は、情報通信システムの営業活動を行っており、事件当日は偶々、朝早く自宅の埼玉から客先(溜池山王駅)へ直行しようと日比谷線で霞ケ関駅==国会議事堂前駅まで行き、そこからウォーキングした。事件はその1,2本後の時間帯に発生しており、まさしく間一髪であった。
地下鉄サリン事件 日比谷線築地駅 朝日新聞19950320
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■ 3月11日は「パンダ発見の日」
1869年3月11日、博物学に長けた伝道中のフランス人宣教師アルマン・ダヴィドが、現在の中国四川省西部宝興県の民家で、地元の猟師が持っていた白黒模様の奇妙な熊の毛皮を見せられた。これが、西洋でパンダが知られる切っ掛けとなった。ダヴィドはパンダのレプリカ標本(毛皮・骨など)をパリの国立自然史博物館に送り、その1年後の1870年に、研究を進めたミレー・エドワードが、Ailaropoda-mlanoleucaという学名を付けた。この日を「パンダ発見の日」とするのは日本独自。
□ お題 「パンダ、見たことある?」
お正月に見ました。
シンシン&シャンシャンの母子は昼寝中。父リーリーが孤軍奮闘で接客。
1/10(金)の午後は「上野動物園」を巡った(2020-01-11)
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