今日1/2(木)
月齢6.9 正中17:11
南の空高く 16:58 (正中13分前)
日没16:39
西の空 16:59(日没20分後)
夕焼け雲の棚引く
南西の空 17:00
宵の明星(金星)が輝く
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□ お題 「初夢見た?」
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辛うじて、前夜観たNHKの「本能寺の変サミット」の場面が再現された夢だったような気がする。
そこで、同番組の紹介をすることに代えたい。
NHK-BSプレミアム「本能寺の変サミット2020」
□ 放送日: 2020年1月1日(水)19:00~21:00
石川美咲・・・福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員
稲葉継陽・・・熊本大学教授、永青文庫研究センター長
柴 裕之・・・早稲田大学エクステンションセンター八丁堀校講師、千葉県文書館県史・古文書課嘱託、東洋大学文学部史学科非常勤講師
高木叙子(よしこ)・・・滋賀県立安土城考古博物館学芸員(学芸課副主幹)
福島克彦・・・大山崎町歴史資料館館長
藤田達生・・・三重大学大学院地域イノベーション学研究科教授、織豊期研究会会長
▽ 再現ドラマ出演者:
前川泰之: 信長
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□ 概要
NHK-G/BS-プレミアム 2020大河ドラマ「麒麟がくる」(脚本:池端俊策) 放送開始直前のイントロ番組。
天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都・本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件。
「敵は本能寺にあり」というセリフは夙(つと)に有名。しかし、その「敵」とは誰なのか? 部下は全く知らなかったという謎。
明智光秀はなぜ主君・織田信長に謀反したのか?
当日お茶会をしていたため、信長とその家来たちの警備が手薄だった。本能寺のような狭いお寺に、なぜ要人が集まっていたのか? しかも本能寺は坂の下にあり坂の上から丸見えで、狙われたら終わってしまう場所だった。
しかも織田信長の遺骨は見つかっていない。
それら数々の謎は、今も諸説紛々、百家争鳴だ。
一方、近年、新たな史料が発見され、従来の織田信長や明智光秀のイメージが大きく変わりつつある。
今回、気鋭の研究者が一堂に会し、明智光秀と「本能寺の変」を巡る歴史激論バトルを繰り広げる。
根強い定説から珍説、新学説まで一挙登場!
2020年現在の最新「本能寺の変」決定版!
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□ あらすじ
明智光秀は、一貫して「乱世の収束」「麒麟が来る世の実現」を目指している。
織田信長の将軍・足利義昭追放も、「平和な世」のためなら止むを得ない。
織田方面軍による地方への軍事侵攻。四国の長宗我部元親は服属すると言っているのに、これでもかと叩くという。そんなことをしたら北条だって反旗を翻すであろう。
「天下統一事業」としてではなく、乱世の拡大。戦乱の世は果てし無く続くではないか。
しかも、信長は、「一向一揆の虐殺」を繰り返す。
さらに将軍・貴族ばかりか朝廷をも超える「神格」の権威を目指す。
光秀の行為は、「乱世拡大の阻止」「虐殺の阻止」だったのか?
比叡山を焼き打ちした時に最も忠誠を尽くし手柄を挙げたのは光秀で、それで後の坂本城一帯をもらったのは事実。
しかしながら、虐殺・乱世の拡大再生産を続ける信長の家臣でいることに疲れたのではないだろうか?

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室町時代以来の中世的思考から脱し切れない信長、近世的領国支配体制を形成しつつあった光秀や柴田勝家ら直臣大名とのギャップ。
織田政権は近世的分権の進化に対応できなくなった中世国家の最後のかたちであり、その迷走に終止符を打ち、豊臣政権の成立という近世封建国家の樹立過程における一大画期に道を開いた。
明智十兵衛尉光秀は美濃国の守護・土岐氏の一族で、土岐氏を追放した斎藤道三に仕えるも、道三父子の争いに巻き込まれ越前に逃れた。
浪人生活を送った後に朝倉義景に仕えた。光秀が称念寺(坂井市)の門前に10年程住んでいた。医学書「針薬方」には、朝倉家秘伝の傷薬「セイソ散」(後の「新ホルム散」。芭蕉・スイカズラ・ヤマモモ・黄檗)の製法を光秀が知っており籠城の際に口伝した。
2017年、岐阜県美濃加茂市が所蔵する光秀の書状が天正10年(1582年)に紀伊国雑賀の反信長勢力のリーダー・土橋重治に宛てた手紙の原本であると確認された。その内容は室町幕府の再興を図っていたことになる。
調査に当たった藤田達生氏は足利義昭の「鞆幕府説」を支持する。光秀が自ら天下人になろうとした単独謀反説は成立しない。また、教科書ではこの年に室町幕府滅亡と教えるが、書状は幕府の権威が健在だった事実を示している。本能寺の変まで、義昭、信長の2つの公儀が併存していたのは確か。光秀は義昭に仕えた時期もあり、義昭を戴く政権を作ることに生き残り賭けたのだろう。光秀は最も頼みの綱としていた細川藤孝に支持してもらえず、部下である筒井順慶も陣営に馳せ参じて来ず、苦境に立たされていた。
「益田家文書」。信長は前例のないスピードで権力拡大する中、現地の人間を抱え、裏切った者も登用して家臣間で競わせ、現実的かつ柔軟に対応したという。
一方で、粛正や追放に明確な理由がないことも多く、仕えにくい上司だったのではないか。勢力が大きくなるうちに家臣間や信長との関係に矛盾が生じ、裏切りや謀反に繋がった。その結末が「本能寺の変」だった。
「本能寺の変」には、複雑な人間関係が交錯していた。その基底には、四国領有を巡る長宗我部氏と三好氏との戦いがあった。長宗我部氏を支持する光秀、三好氏と入魂(じっこん)な秀吉。生き残りを賭けた抗争が、最終的には主君を討滅するという歴史的クーデターへと繋がって行った---と推定している。

焦った光秀が細川を味方にするためにリップサービスをした。だが、細川家の方は事前に秀吉に内通していた。比類なき頼もしさというのも秀吉に事前に情報を流していたことを表してるのかも知れない。細川藤孝・忠興父子は時代の潮流を読むのがうまかったのか。
羽柴秀吉は「本能寺の変」を毛利側に隠しつつ、「毛利家の武将のほとんどが調略(政治的工作)を受けている」と毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊(えけい)に知らせる。これで毛利側は疑心暗鬼に陥り、和睦を受諾せざるを得なかった。結果、備中高松城は開城し、清水宗治らは切腹。織田軍は備中国から撤退した。
尚、「本能寺の変」を伝える知らせが毛利方にもたらされたのは秀吉撤退の日の翌日で、紀伊の雑賀衆からの情報であったことが、吉川広家の覚書(案文)から確認できる。川角太閤記によれば、毛利元就次男・吉川元春はこの際追撃を主張したが、毛利元就三男・小早川隆景に制止されたという。一方で、吉川家文書では、両名が追撃は無謀であり、失敗すれば毛利は次こそ滅ぼされると懸念し、光秀討伐に引き返してゆく秀吉を見逃したと記述されている。
秀吉が毛利氏攻めのために瀬戸内の制海権を欲していて、そのために三好氏と入魂となった結果、織田家中で長宗我部氏を支持する光秀と利害が対立してしまった。秀吉は光秀の行動に注意を払うようになり、その危機管理が結果的に「中国大返し」に繋がったのではないか。

◇
□ 感想
光秀としては、類稀な博識と豊かな経験とをバックボーンに、しかも滅私奉公で気難しい主君・信長に尽くして来た。
光秀は戦乱の世を平定した段階で、一旦、戦闘を休止する穏健派タイプだろう。
だが信長は、将来の海外進出も有り得る、限り無き武闘派。
光秀はこれ以上の虐殺に終止符を打つべく、主君に謀反(クーデター)を企ててしまう。
謀反者に味方するは皆無に近く、稀代の人誑(たら)し・秀吉が政権を掌握することになる。
彼は全国平定を成し遂げた段階で、戦闘を休止するかに思えたが、朝鮮半島の進出を試み疲弊した。
武家国家の総仕上げをしたのが最後に登場した家康だった。
そして完全に武闘を封じ込め、鎖国政策まで実現した(3代・家光)のであった。太平の世は11代・家斉の腐敗政権まで続くことになる。












