■ 10月5日は「レモンの日」

お題「レモンサワー好き?」

 

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レモンサワーは好きである。
現役の頃に居酒屋で飲む焼酎のハイサワー類では、レモンの他にウーロン・梅・青リンゴ・ホッピーなど。中ではウーロンが多かったかな。


■ レモンサワー

1980年、博水社(目黒区目黒本町6-2-2)が日本で初めてサワータイプの焼酎割り瓶入り飲料(輩サワー)を発売した。

一方1999年、ホッピービバレッジが公式サイトを開設した。2004年以降のレトロブームに乗ってホッピーに対する新しいイメージが形成され売上は上昇して行った。
ホッピービバレッジ社は遡ること戦争直後のヤミ市時代の新橋で1948年、コクカ飲料 (後にホッピービバレッジと改称)が発売した麦酒様清涼飲料水(炭酸飲料でビールテイスト飲料)。焼酎をこれで割った飲み物もホッピーと略して呼んだ。1970年代には東京の街で再度大きな人気を得て、1981年には売上のピークを迎えた。

しかし、前述のように1980年に博水社が発売したハイサワーが爆発的に売れ、焼酎の割り材の需要が柑橘系等の炭酸飲料に大きく移行して行ったことなど、長い低迷期に入っていたのだった。


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■ 高村智恵子の「レモン忌」
 
1938(昭和13)年10月5日は、高村光太郎の妻・智恵子の命日であり、光太郎が智恵子の臨終を歌った詩「レモン哀歌」に因んで「レモン忌」と呼ばれる。

智恵子は精神病(統合失調症)を病んでいたが、亡くなる数時間前にレモンを齧(かじ)り、智恵子は元の智恵子に戻ったと言われる。

「レモン哀歌」 昭和一四・二(1939年2月)

「そんなにもあなたはレモンを待つてゐた
かなしく白くあかるい死の床で
わたしの手からとつた一つのレモンを
あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ
トパアズいろの香気が立つ
その数滴の天のものなるレモンの汁は
ぱつとあなたの意識を正常にした
あなたの青く澄んだ眼がかすかに笑ふ
わたしの手を握るあなたの力の健康さよ
あなたの咽喉のどに嵐はあるが
かういふ命の瀬戸ぎはに
智恵子はもとの智恵子となり
生涯の愛を一瞬にかたむけた
それからひと時
昔山巓さんてんでしたやうな深呼吸を一つして
あなたの機関はそれなり止まつた
写真の前に挿した桜の花かげに
すずしく光るレモンを今日も置かう」


■ 高村智恵子の生い立ち


1886年5月20日~1938年10月5日、享年53/満52歳没。
日本の女性洋画家・紙絵作家。夫は彫刻家・詩人の高村光太郎。


1886年5月20日、福島県安達郡油井村字漆原(現・二本松市油井字漆原町)の酒造業・斎藤今朝吉(後に長沼家に養子に入り長沼姓)とせん(旧姓・安斎) の二男六女の長女として生まれた。戸籍名・チヱ。長沼家の屋号は米屋(よねや)で、清酒銘柄「花霞」を醸造する酒造家だった (現在は大天狗酒造が継承し純米酒「智恵子の花霞」などを醸造している)。


1901年に油井小学校高等科を卒業。福島高等女学校3年へ編入学。1903年に同校を総代として卒業。
1903年に日本女子大学の普通予科を経て家政学部へと進学。在学中に油絵に興味を持ち自由選択科目の洋画の授業ばかりを受けていた。
1907年に同大学を卒業。当時では珍しい女性洋画家の道を選び、反対する両親を説得して太平洋画会研究所で学んだ。
1911年9月に創刊された雑誌「青鞜」の表紙絵を描くなど、若き女性画家として注目されるようになって行った。

高村光雲の長男・高村光太郎の評論「緑色の太陽」に共鳴し、同年12月に光太郎のアトリエで初めて出会った。
光太郎との出会いは智恵子の心を激しく揺り動かし絵画の創作を増進することとなった。
1912年4月に「太平洋画会展」に油絵2点を出品、6月に「団扇絵展」を開催した。
1913年9月に上高地へ行く光太郎を追い掛けて一緒に絵を描いたことにより、結婚の意思を固めた。
《樟》(くすのき)油彩、キャンバス 1913年

1914年12月から東京市本郷区駒込千駄木林町 (現・東京都文京区千駄木)のアトリエで光太郎との同棲を始めた。
金銭的に苦しい窮乏生活を送りつつも実りの有る創作活動を続けていた。
《花(ヒヤシンス)》油彩、キャンバス 大正初期 27.1X21.3cm

1918年5月に父・今朝吉の死、1929年に長沼家の破産・一家離散。
絵画制作への閉塞感など心労が多く、結婚以前からの持病(湿性肋膜炎⇒粟粒性肺結核)も悪化して行った。
1931年8月に光太郎が三陸方面の取材旅行で留守中に統合失調症の最初の兆しが表れた。
1932年7月15日に大量の催眠鎮痛剤アダリン(芥川龍之介や太宰治が常用)を飲み自殺を図るが未遂に終わった。
1933年8月23日に光太郎は智恵子を入籍。療養のため温泉を巡ったが病状は逆に悪化してしまった。
1934年5~12月に母や妹一家の住む千葉県九十九里海岸の真亀納屋・田村別荘への転地療養を試みたが改善は見られなかった。
1935年2月に東京都南品川・浅間坂(後にゼームス坂と改称)の「ゼームス坂病院」(後に「東芝中央病院」⇒現在は「緑野会・東京品川病院」へと変遷) に入院した。尚、跡地(品川区南品川6-7)には慰霊碑「レモン哀歌の碑」が建てられている。
出典tokyo-kurenaidan

1937年頃から精神病にはやさしい手作業が有効だと聞いた光太郎は病室へ千代紙を持ち込んで、智恵子は病室で紙絵の創作をするようになり病床から千数百点の紙絵を生み出した。
《あじさい》紙絵、1938年 ⇒原画にしたモザイクタイル壁画(神戸文化ホール1973年)

1938年夏頃から病状が悪化し、終に1938年10月5日、長らく冒されていた粟粒性肺結核のため死去した。
遺骨は東京都豊島区駒込の「都営染井霊園」(豊島区駒込5-5-1) の高村家の墓に埋葬。後に光太郎も埋葬された。
光太郎は智恵子が亡くなってから3年後の1941年に生前の智恵子を偲んで詩集「智恵子抄」を発表した。

NHK-E「偉人たちの健康診断」より高村光太郎・智恵子夫妻


十和田湖畔休屋の御前ケ浜北端に建つ「乙女の像」(故・智恵子夫人がモデル、高さ2.1mの一対のブロンズ「裸婦群像」1953年秋)出典: 青森県観光情報サイトaptinet


「智恵子の生家」(再現)&「二本松市智恵子記念館」(1990年完成、二本松市油井字漆原町36) 出典jalan.net



智恵子の作品(これでも極一部)
 


  
「ガーベラ」                「さくら」
  
「くだもの籠」
  
                       「ガラス器の中の野菜」
  
                       「はな」
  
「菊」                    「白い小鉢」
  
「ざくろ」
   
「うさぎの餅撞(もちつ)き」    「青い魚と花」