今日3/7(木)は「新月」。

 

■ 3月上旬は、原子力に関する忌まわしい記念日が目白押しである。


1954年3月1日、米国がビキニ環礁で水爆実験「キャッスル作戦」を行った。日本の静岡県焼津港船籍の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び、被曝(ひばく)した無線長・久保山愛吉さんが半年後の9月23日に死亡した。

1954年3月3日、改進党(後に自民党)の衆議院議員・中曽根康弘氏(現在100歳)らにより、原子力研究開発予算が初めて国会に提出され成立した。


1955年3月1日、英国が水爆製造開始を表明した。


1956年3月1日、日本工業倶楽部に「日本原子力産業会」が発足し、初代会長は電気事業連合会の菅禮之助・東京電力会長が就任した。


1970年3月5日、「核拡散防止条約」が発効し、米国・英国・フランス・ソ連・中国の国連安保理5カ国が、それら以外の核兵器保有を禁止した。


1993年3月12日、北朝鮮が「核拡散防止条約」を脱退した。


1997年3月11日、茨城県東海村の「動燃」の核燃料再処理施設で爆発事故が発生し、37人が被曝した。


2011年3月11日、日本の東北地方太平洋岸沖を震源とするマグニチュード9.0(日本国内観測史上最大規模)の「東北地方太平洋沖地震」が発生した。この地震・津波によって大規模な「福島第一原子力発電所事故」など太平洋沿岸の原子力発電所・火力発電所が広汎に被害を受ける「東日本大震災」が引き起こされた。死者15,897人(北海道1、青森県3、岩手4,674、宮城9,542、山形2、福島1,614、茨城24、千葉21、栃木4、群馬1、東京7、神奈川4)、行方不明者2,533人、合計18,430人。

尚、関連死3,701人を含めると合計22,131人に上る。



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■ 日本における原子力政策の推移


1952年4月、連合国各国と日本との平和条約「サンフランシスコ講和条約」締結によって、戦後日本が自治を回復するとともに、原子力開発検討に着手した。


1952年7月、日本学術会議において、茅誠司・東京大学(後に日本学術会議会長⇒東京大学総長)、伏見康治・大阪大学教授(後に日本学術会議会長⇒公明党参議院議員)らによって「国際的に遅れを取った日本の原子力研究の巻き返し」が提案されている。

 

この提案に対して、広島で被曝した三村剛昂・広島大学教授らが核の兵器利用を懸念することを表明した。


1952年10月、第二次世界大戦極東国際軍事裁判でA級戦犯だった後藤文夫・元大政翼賛会副総裁/東条内閣国務大臣(後に参議院議員・日本青年館理事長)らによって、原子力政策を推進するため「(財)電力経済研究所」が設立された。


1953年12月、原子力発電で先んじていたソ連を牽制するためにアイゼンハワー米国大統領によって「平和のための原子力」演説が行われ、国際的な枠組みで核の燃料を保管・監視し必要に応じて各国に分与しようというその構想は国際原子力機関(IAEA)として実現された。


1954年3月、日本の政財界に「新しい時代に乗り遅れてはいけない」という気運が広がり、改進党(後に自民党)の衆議院議員・中曽根康弘氏(現在100歳)らにより、原子力研究開発予算が初めて国会に提出され自由党・改進党・日本自由党の賛成で成立した。

 

この突然の予算計上に対して、日本学術会議は危機感を示し今の日本に原子炉建設は早計すぎると批判した。


1954年3月、米国がビキニ環礁で水爆実験「キャッスル作戦」を行った。日本の静岡県焼津港船籍の遠洋マグロ漁船「第五福竜丸」が水爆実験によって発生した多量の放射性降下物(いわゆる死の灰)を浴び、被曝(ひばく)した無線長・久保山愛吉さんが半年後の9月23日に死亡した。

 

そんな事故によって世論は一気に反原子力ムードとなった一方で、

 

正力松太郎・読売新聞社社主(元翼賛政治会総務⇒A級戦犯)が、原子力推進の一大キャンペーンを行った。中曽根康弘氏は正力派結成の参謀格として奔走し、政界における日本の原子力政策推進の両軸となった。


1955年12月、自民党・日本社会党は協力して(いわゆる55年体制の談合によって)、「原子力基本法」「原子力委員会設置法」「原子力局設置法」と言われる原子力三法案をスピード可決させた。


1956年1月、「民主・自主・公開」の原子力三原則に基づく「原子力委員会」が設置され、初代委員長は正力松太郎・読売新聞社社主&日本テレビ社長 (衆議院議員・初代科学技術庁長官)。日本の従来の研究テーマであった「アイソトープ利用の実用化」に加えて「5年以内に原子力発電を実現させる」という目標を発表した。さらに目標達成には産業界の協力が不可欠として、2月に「原子力産業会議」を開催、3月に「日本工業倶楽部 日本原子力産業会」を発足、初代会長は菅禮之助・東京電力会長が就任した。


「原子力委員会」には1949年に日本人として初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹・京都大学基礎物理学研究所初代所長&日本物理学会会長)も参加したが、基礎研究を省略して原発建設に急ぐことは将来に禍根を残すことになると反論し辞任している。これ以降、学会は原子力開発の第一線から身を引き始めた。


1957年4月、正力氏は、「原子力平和利用懇談会」を立ち上げ、「原子力平和利用博覧会」の開催、読売新聞や日本テレビなど系列メディアを駆使し、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。このことから日本の「原子力の父」とも呼ばれている。


1957年8月、茨城県東海村の原発実験炉に日本で初めて原子力の灯が灯った。


1970年3~9月、「大阪万博」には敦賀原発から電力が送られ未来のエネルギーとして持て囃(はや)された。


1973年のオイルショックの中で登場した田中角栄総理大臣は原子力推進政策を後押しした。1974年、電源三法が制定され、原発は高度経済成長の果実を得ていない "過疎地の利権" としての地位を得て、更に推進されることになる。