■ 2月21日は「夏目漱石の日」

1911年2月21日、文部省が作家・夏目漱石に文学博士の称号を授与すると伝えたのに対し、漱石は「自分には肩書きは必要ない。ただの夏目某で暮らしたい」として辞退した。





■ お題「夏目漱石の『こゝろ』読んだことある?」

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「漱石悶々」(2016-12-06)

 



夏目漱石と森鴎外--筑摩書房・唐木順三の評論から(2015-08-12)

『夏目漱石集2』に掲載の唐木順三「漱石の周辺~鴎外と漱石」
漱石は---
家長制をはじめ社会制度に付随する様々な疑似権威を認めたくない。
舵の取れなかった人、他人の舵取りを嫌った人。取り切れない自分を"自己"という言葉で表した。
自分で自分を舵取り制御できない、それが個性の根源。この根源は自我にもあり、自然にも世界にもある。不測の変に常に脅かされる。
良心もモラルも礼も形式化しえない。そこに生きた人生があり、堪え難く苦しい。
不測の変に怒を感じる。「坊ちゃん」の天誅、「虞美人草(ぐびじんそう)」の金や博士に怒、「行人(こうじん)」の妻や自分に対する怒、「こゝろ」の先生は他人を怒れなくなった自己の悲しみに自殺。
芸術は自己の表現に始まって、自己の表現に終わる。自分の道「則天去私」を求めた。

「歴史秘話ヒストリア」#223「漱石先生と妻と猫」詳細(2015-07-02)

 



「夏目漱石の美術世界展」を鑑賞(2013-06-05)
「夏目漱石の美術世界展」のスタディ(2013-05-14)
 

 

 

 

■ 関連年表

□ 世の中の動向

1910年、「日韓併合」。1910~(32)年、「大逆事件」幸徳秋水ら社会主義者・無政府主義者を天皇制に対する謀反として一斉検挙し処刑。
1914~(18)年、「第一次世界大戦」戦死者992万人・行方不明者775万人・戦傷者2,122万人。
1917~(22)年、「ロシア革命」ロマノフ王朝の滅亡、ソビエト社会主義共和国連邦の樹立。1918~(22)年、日本帝国陸軍のシベリア出兵、米価暴騰による「米騒動」勃発。

ベルサイユ体制と呼ばれる新たな国際秩序が構築され、アメリカ合衆国が大繁栄、大日本帝国が躍進、極大な賠償義務を課せられたドイツ帝国が衰退しナチズムが台頭。
⇒ 第二次世界大戦の勃発へと繋がって行った。


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□ 夏目漱石

以下のように、晩年(40代)、明治末期~明治天皇崩御~大正初期の漱石は、小説家として多忙を極める一方で、身体はどんどん蝕まれていた。
森鴎外らと異なって、国家=中央集権=官僚=軍閥などとは一線を画したい、個人主義に惹かれた漱石は、個人の「心」をテーマとした連作に着手した。

1911年2月21日、文部省文学博士号授与を辞退。8月、関西での講演直後に胃潰瘍が再発し大阪胃腸病院に緊急入院し、東京に戻ると今度は痔に罹り通院。11月29日、五女・雛子が原因不明の突然死。後の漱石の遺体解剖の遠因となる。

1912年9月、痔の再手術。12月、病気のため「行人」執筆中断。

1913年1月、神経衰弱(ノイローゼ)が再発。3月、胃潰瘍も再発し自宅療養。

1914年4月、「こゝろ」の朝日新聞連載開始(~8月)。9月、4度目の胃潰瘍。エゴイズムを追求したと言われる"後期三部作"の「彼岸過迄」(春陽堂1912年9月刊)・「行人」(大倉書店1914年1月)・「こゝろ」(岩波書店1914年9月刊)の出版。漱石はこれら短編・中編を「心」というタイトルの連作集としたい考えだった。11月、「私の個人主義」を学習院輔仁会で講演。

 



1915年3月、京都へ旅行し5度目の胃潰瘍で倒れる。6月、「道草」の朝日新聞連載開始(~9月)。11月、中村是公と湯ケ原に遊ぶ。12月、芥川龍之介・久米正雄が門下に加わる。今度はリューマチに悩む。

1916年1月、リューマチ治療のため湯ケ原・中村是公の許に転地療養。5月、「明暗(めいあん)」の朝日新聞連載(~12月。岩波書店1917年1月刊)。更に糖尿病にも悩む。12月9日、辰野隆の結婚式に出席した後、大内出血を起こし「明暗」執筆途中に死去(49歳)。死の翌日、遺体は東大医学部において主治医・長與又郎先生によって解剖され、摘出された脳と胃は寄贈。墓所は豊島区南池袋の雑司ケ谷霊園。