麻雀、できる?
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■ 「麻雀の日」
8(は)1(い)で「牌(パイ)」の語呂合せとして、「全国麻雀業組合総連合会」(全雀連、横浜市西区北幸2-9-40銀洋ビルB1F麻雀サロン・シルバー内)が1989年に制定した。
だが、(社)日本記念日協会(代表理事・加藤清志)に正式登録されたのは、一昨年2014年4月30日である。
8月1日記念日には、「牌」で「麻雀の日」以外にも、
「肺」で「肺の日」、「おっ"ぱい"」で「母乳の日」、「"パイ"ン」で「パインの日」、などがある。
麻雀と言えば学生。
「学生麻雀連盟」(学雀連、渋谷区代々木2-16-2第二甲田ビル3F麻雀王国事務所内)では、2016年(第3回)「学生麻雀甲子園」が9月10日(土)麻雀スリアロチャンネル撮影スタジオ(豊島区南大塚2-45-4三栄ビル3F)にて開催され、決勝戦の模様はニコニコ生放送で放映される。
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■ 起源
「麻雀」[マージャン、中国語:麻將(májiàng)、英語:Mahjong)。
起源は、紀元前4世紀頃、中国春秋時代の思想家(儒家の始祖)・孔子が考案したという説あり。
語源は、麻の布の上で行ない、竹製の牌を混ぜる時の音が雀の鳴き声に似ていることから。
19世紀半ば、清國・寧波の陳魚門(重臣)が、紙カードの馬吊(馬弔、マーディアオ)と獣骨板の骨牌(コッパイ)とを合体させて、ゲームとして完成させたことによるという有力説あり。
■ 日本の動向
夏目漱石は、随筆「満韓ところどころ」(朝日新聞1909年連載)の中に、中国・大連で麻雀を見聞したことを書いている。
図太いことで有名な菊池寛は、1923年に文藝春秋社を創設した頃、神楽坂カフェー・プランタンで麻雀に耽(ふけ)っていたと言う。
そんな中の昭和初期になって、日本の麻雀店は営業許可を得た。
高度経済成長期の1965年、阿佐田哲也が週刊大衆で「麻雀放浪記」の連載を開始。1970年、阿佐田・小島武夫・古川凱章らが麻雀新撰組を結成し名人戦を開始。1972年に近代麻雀、1975年にプロ麻雀が創刊され麻雀ブームが起きた。
こうして1960年代後半~70年代をピークとして、全国の大学生やサラリーマンに麻雀ゲームが浸透した。
しかし一方で、賭博をはじめ喫煙・飲酒・徹夜などの不健康イメージが蔓延(まんえん)したため、80年代以降は遊興や余暇の多様化と相俟って、人気は凋落(ちょうらく)の一途を辿って行った。
他のギャンブル同様、麻雀は不健康である。
役満などの高得点の手を聴牌(テンパ)るものなら、心臓がバクバク、手が震えて来るので、それを悟られまいと酒を飲む。食事は店屋物を掻(か)き込む。タバコはチェーンスモーク。。。
1988年には「日本健康麻将協会」が設立され、健康麻雀が指向されるようになり女性ファンが徐々に増えつつある。
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■ 私と麻雀の関わり
私が麻雀を覚えたのは、大学生になった1971年。先輩たちに引き込まれた。文化サークル活動をしながら、バイトをしながら、麻雀とパチンコに興じていた。それら2つをミックスした雀球というのもあった。
最も利用したのは金沢・尾山神社前の雀荘「オールグリーン(緑一色)」。
徹夜麻雀、略して"徹マン"の場合は場所代を節約するため、誰かの下宿。"徹マン"をやるとメンバー各人の個性(長所・短所)が如実に現れて来る。
大学3~4年生時は、安保闘争やら単位修得やら就活やらで、麻雀の方は疎(おろそ)かになって行った。
何しろ麻雀全盛期に、大学生~独身サラリーマンだった身。
パチンコの方は、マシンのマニュアル⇒全自動化への移行で、アッと言う間に熱は醒めて行ったにも拘わらず、
麻雀の方は、独身寮でも職場でも盛んなこと。同期・先輩・後輩の縦横に付き合ったものだった。
結婚して頻度は落ちたものの、それでも1970~80年代前半は、残業を2H位した後で埼玉への終電時間を気にしながら、虎ノ門界隈の雀荘「東荘」(港区虎ノ門1丁目、廃業か?)などで過ごした。
楽しい遊びを1つ。1980年代後半~90年頃に私はグリーンの雀牌(ジャンパイ)を買い、肉親の子供たちがやって来ると、トランプに混じって「家庭麻雀」で遊んだ経験があった。炬燵(こたつ)の天板(裏面はラシャ張り)を裏返して、麻雀卓として利用。
1980~2000年代は、週1回⇒月1回⇒年数回へと頻度は急速に下がる一方だったが、昭和世代のサラリーマンには或る種"ノスタルジア"さえ覚えるコミュニケーションツールだった。
利用した雀荘は、芝~浜松町~新橋界隈の雀荘「南苑」(港区新橋1-15-4)など、そして渋谷の 健康麻雀「ガラパゴス」 (渋谷区道玄坂2-6-15ユニ道玄坂ビル4F)など。
私はスルーして顧みると、勝負強くもなければ弱くもなかった。
只、社会人3~10年目の頃は、弱い先輩・上司の面子(メンツ)に恵まれた時期であった。

