この番組の録画を漸く観終わった。

 


NHKスペシャル「司馬遼太郎思索紀行 この国のかたち」

 

ナビゲーター: 香川照之
朗読: 小林薫
語り: 渡邊佐和
声の出演: 園部啓一
テーマ音楽: 得田真裕


ディレクター: 橋本陽

 

 

 

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2016年2月で没後20年を迎える作家・司馬遼太郎氏。
作品『この国のかたち』を読み解きながら、"日本人とは何か"に迫る。
「私は、日本史は世界でも第一級の歴史だと思っている。」

"奇跡"と呼ばれた明治の近代化。それを成し遂げた日本。
戦後、焼け野原から驚異的な復興を果たした日本。
そして今、大きな岐路に立つ私たち日本人。
この日本という国のかたちを生涯、考え続けた作家がいた。国民作家と言われた司馬遼太郎である。
晩年、日本論の集大成として書き続けた作品『この国のかたち』。
日本という国を造り上げて来た様々な文化や慣習を、『この国のかたち』と呼び、その意味を解き明かそうとした作品。

没後20年の今年、その未公開資料や手紙の取材が許された。浮かび上がって来たのは、「日本人とは何か」という大きな問いだった。


 

第1集 「"島国"ニッポンの叡智(えいち) 」

 

2/13(土)21:00~21:50, 再放送 2/16(火)24:10~25:00

 

第1集は、"辺境の島国"という立地がどのように日本人の文化を形作って来たか、日本が培って来た叡智に焦点を当てる。

辺境ゆえに海の向こうから来る異国の文明、普遍的な文化に憧れ続け、貪欲に取り入れて来た日本人。
そのメンタリティーの根源に何があるのか?

司馬は、鎖国下の長崎・出島の好奇心や、大陸への玄関口・壱岐の異国崇拝の風習、東大寺に伝わる神仏習合の秘儀など、時空を自在に行き来して島国日本の基層に迫った。
司馬が日本の風土や人物に見い出した「かたち」を旅しながら島国の叡智を掘り起こす。

2015年7月、近代日本の産業革命に関連する23の建造物が新たに世界遺産に認定された。
その1つに司馬は25年も前から関心を持ち、この国の形の典型を見出していた。幕末、薩摩藩が建造した近代工場群「尚古集成館」。

 

■幕末のエネルギー


江戸時代、欧米に追い着くために必要とされたのが近代産業の基盤となる鉄だった。
司馬が注目したのは、鉄を作るための反射炉と呼ばれる装置。その高さは実に20m。熱源と原料を離した位置に起き、熱の反射を利用して鉄を作り出す反射炉。
未知の技術が必要とされた。その原理が説明されたオランダの本を解き明かし、外国の専門家の助けなく、短期間で作り上げた。萩反射炉、那珂湊反射炉跡、韮山反射炉。

日本人の好奇心はどこからくるものなのか。そこで出てくるのが今回のテーマ「島国」。

 

■島国の原風景を求めて


1300年前から続く、海の伝統行事「御幸船 競漕」。男たちを乗せた木造船が競い合い、赤が勝てば大漁、白が勝てば豊作。その1年の島の運勢を占う。
壱岐に着いた司馬を案内したのが、須藤資隆さん。
7世紀、朝鮮半島の新羅から伝来した仏像。この島には異国から流れ着いた仏像がいくつも伝えられている。仏教に代表される大陸の進んだ文明は常に海の向こうからやって来た。
さらに司馬は島に残る唐人神(神皇寺跡の秘仏)に注目している。
地元に残る伝承によれば、流れ着いた異国の若い男性の下半身を地元の漁師が手厚く埋葬し、その上に祠(ほこら)を立てた。そこには海の向こうへの強い憧れや好奇心があった。

 

■“鎖国”の好奇心


日本人の好奇心は江戸時代に異様な高まりを見せる。鎖国はかえって海外への知的関心を掻き立てた。
出島(和蘭南館跡)に監禁されていたのは、数十人のオランダ人だったが、その数十人が二千数百万の人口の社会に多少の影響を与え続けた。

日本人はどの時代にも外国の優れたものを積極的に取り入れて来た。
10月5日、奈良の東大寺で行われる転害会と呼ばれる儀式に参加するのは、神社の神職と寺の僧侶。大陸伝来の仏教と日本土着の神道を癒着(ゆちゃく)した神仏習合を表す儀式で、この信仰の形に司馬は日本人ならではのものを見ていた。

 

■独自の信仰の“かたち”


元々あった神道と新たに伝来した仏教の両者を柔軟に融合させた日本人。それを司馬は「日本人最初の独創的な着想」と呼んだ。
宗教学者の山折哲雄氏は「巡り歩いているのは日本人だけ。一神教的思考法ではなく、それぞれの価値をそれぞれ認めるという生き方になる」と述べた。

 

■根源にある太古の精神


太古からの信仰が息づく奈良県の三輪山。山そのものがご神体とされ、日本の原始信仰の形が最も色濃く残っている場所の一つ。「八百万の神々」は大陸から仏教が伝来する前、豊かな
自然の中で日本人が育んでいた多様な神々を認める信仰。

思想的民族というのが世界にはふんだんにいるが、日本人はそれに入ってない。日本人は思想がゼロなのではないかといわれる。
しかし司馬は無思想であるという思想がそこにあると考えていた。

 

■“日本文化”の誕生


小さな島国の中で固有の文化と外国からの文化が融合した室町時代。外来の文化を自由な発想で日本独自のものにした。
今、日本建築と呼んでいるのも、室町末期に起こった書院造りから来ている。大徳寺大仙院の枯山水砂紋
華道や茶道、能狂言、謡曲、日本風の行儀作法や婚礼の作法もこの時代から起こった。

 

日本人の特性は、島国ゆえの海の向こうへの強い憧れや好奇心、無思想の思想。それが最も強く発揮されたのが軌跡と言われた明治時代だった。

 

■明治近代化の秘密


東京大学の正門を潜り、左に曲がってすぐの所に司馬が明治の近代化の秘密を解く鍵とみなした人物、日本の土木工学のパイオニア古市公威の銅像がある。
司馬に古市について教えたのは、土木工学の世界的権威である高橋裕氏。フランスから帰国した古市は国造りの一翼を担って行く。
力を注いだのは、西洋の技術に独自の工夫を加えることだった。当時インフラが未整備で台風や大雨の度に氾濫を起こした日本の河川。狭くて急流の多い河川の特質に合わせ、堤防の基
礎部分に改良を加え、遥かに強固なものへ吊り上げた。

司馬は、島国に育まれ逞(たくま)しく生きて来た日本人の姿を死の直前まで見つめ続けて来た。
晩年、編集者に送った手紙の中に「国民精神は無感動体質になることが怖い」という言葉があった。東大阪のネジ専門の会社に直筆の書があった。新しいことに挑戦するという意味の「
道なき道」。

 

 

 


第2集 「"武士" 700年の遺産」

 

2/14(日)21:00~21:50, 再放送 2/18(木)25:30~26:20

 

第2集は、"武士"の精神が、日本人をどう形作って来たかに焦点を当てる。

司馬が注目したのは、鎌倉時代の武士が育んだ、私利私欲を恥とし他者に尽くす“名こそ惜しけれ”の精神だった。
それは、武家政権が拡大する中で全国に浸透、江戸時代には広く下級武士のモラルとして定着したという。
そして幕末、司馬が「人間の芸術品」とまで語った志士たちが、この精神を最大限に発揮して維新を実現させた。
明治時代に武士が消滅しても、700年の遺産は「痛々しいほど清潔に」近代産業の育成に努めた明治国家を生み出す原動力となった。
それが続く昭和の世に何をもたらし、どのように現代日本人へと受け継がれたのか?
「名こそ惜しけれ、恥ずかしいことをするな」。
グローバリズム礼賛の中で忘れ去られようとしている日本人独自のメンタリティに光を当てる。

司馬は「日本人とは…」という壮大な問いに生涯向き合っていた。番組は全国津々浦々を訪ね司馬遼太郎の思索を辿った。
浮かび上がって来たのは明治時代を奇跡の近代化へと導いたという武士の遺伝子と日本人特有の倫理観だった。

司馬は日本史の中で武士がいたからこそ明治の近代化が成し遂げられたと見ていた。

 

■“奇跡”の近代化


司馬の代表作「坂の上の雲」は明治維新の後、日本人が一丸となって近代国家を作り上げて行く姿を描いた。
明治の人たちの高い倫理観はどこから来たものなのか? 
そのルーツを司馬は「武士」という人々の中に見つけた。
司馬は驚くほど手間がかかることを驚くほどの速さで成し遂げたと考えた。
小学校は8年で整備、明治19年鉄の大量生産、鉄道網は30年で7000km、これは日本人の総力を結集したものだとし、注目したのは日本人の心根だった。
司馬は大久保利通など政治指導の資本主義が形を成したのは汚職しなかったため、明治の役人は清潔だったと評した。明治の日本は興し手、民衆、民権運動家は公の意識が溢れていたとした。

 

司馬はこの高い倫理観について、或る時代の武士の中に見つけた。

鎌倉、鶴岡八幡宮での流鏑馬(やぶさめ)神事は武芸向上の儀式。
司馬は「街道をゆく」で、鎌倉で語るべきは武士の節義、死への潔(いさぎよ)さは古今東西で際立っているとした。
農民で武装した人々は坂東武士と呼ばれた。香川照之が古戦場の跡、和田塚を紹介。ここには坂東武士の骨が地表にあった。今でも坂東武士の人骨は多く発掘されている。
司馬は農民ながら武装して戦う坂東武士の生き様を描く能「鉢の木」を愛した。坂東武士は雪の日に、旅人のために盆栽を切って暖を取らせた。
司馬は坂東武士の「名を汚す恥ずかしいことをするな」という精神が、その後の非貴族階級に影響を与えたと見ていた。
鎌倉時代から流鏑馬神事を奉納して来た小笠原流宗家嫡男の小笠原清基さんの祖先の坂東武士の「名こそおしけれ」精神を受け継いで来たとした。

司馬は坂東武士の倫理観がその後の数百年後の今の日本人にも息づいている。
香川照之は東日本大震災で混乱での秩序ある行動、ブラジルワールドカップ2014でのゴミ拾いを例に、この精神が息づいていると話した。

 

■“名こそ惜しけれ”の源流


司馬は坂東武士の「名こそ惜しけれ」精神の源流として、高知県梼原町に注目した。
平安時代、農民がここに移り住み過酷な開墾を行なった。山の傾斜を掘り崩し、水平地を作り、石で石垣を作った、築城並の土木感覚。
司馬は「街道をゆく」で梼原町では日本人の一般の仕事を今でも見せてくれるとした。
平安時代、京都の天皇や公家が支配、庶民は重い税に苦しんだ。奥地に逃亡する農民が続々と現れ、梼原町は自らが土地を切り開き、公家の支配から逃れ、自立を始めた。時が経つに連れ、有力な開発人が武士として勃興した。武士は墾田の農場主だった。

 

全国各地に散って、武士は12世紀末に鎌倉に集結した。武士の政権鎌倉幕府を開いた。

司馬は「この国のかたち」で、日本が中国、朝鮮などと似ない歴史を辿ったのは、鎌倉幕府という百姓の政権が誕生してからとした。
坂東武士は鎌倉幕府を立ち上げるために集まり、ここで「名こそ惜しけれ」精神が芽生えた、きっかけは坂東武士が開拓した土地を彼らのものと認めたことだった。
律令制では土地は持てなかった。その恩義に報うために、世話になった人に恥ずかしいことをしない精神が生まれたとした。

司馬遼太郎全講演[第1巻(1964-1983)]より、今後の日本は世界に対して、「名こそ惜しけれ」とさえ思えばよい、ヨーロッパで成立したキリスト教的倫理体系にこの一言で対抗できると
した。

 

■広がる武士の精神


戦国時代、神奈川県小田原市一体を北条早雲が支配した。鎌倉幕府から300年、武士の中に大名が出現した。大名が勢力争いを繰り広げた。
ここで必要なのは普段は耕作する領民が主や武士を信頼しなければ勝ち残れなかった。早雲は領民の信頼を得るために「早雲寺殿廿一箇条」で、武士の振る舞いについて家訓を記した。
司馬は「この国のかたち」で、早雲は伊豆一国を支配、領民の面倒一切を見る方法だったとし、ここで注目したのは家訓の中で武士の中で公の意識が芽生えたとした。武士の恩義ある人のためにが、領国のために変わったと指摘。
1980年、樋口陽一さんは司馬から公の意識について、聞いていたと話した。家訓を作り、領国の支配を盤石にし、戦国大名に先んじて、強力な国を作った。その後、甲斐の武田家などに
家訓などが生まれて行った。戦国で公の意識が浸透した。

秋田沿岸部で、新屋地区は飛び砂で壊滅的被害を受けた。日新小学校では秋田藩の武士で、新屋を救った栗田貞之丞を英雄とし扱っていた。栗田は貧しい下級武士だったが、飛び砂から守るために防風林を作った。
「街道をゆく」で、司馬は貞之丞は庄屋などを訪ね、人手を募った。15年先のことに誰からも相手にされなかったが、貞之丞は1人で取り組み始めた。8年間試行錯誤尽くし、その姿を見
て人々の意識が変わった。村人の日記には徐々に手伝いに参加し始め、毎年、春と秋に植林に参加し、14年間で7万人が参加したと記されている。郷土史家の菅原忠さんは貞之丞の純粋な気持ちが村人に伝わり続いたと解説。
司馬は貞之丞の人柄は江戸中期の家中の良い方の典型だとした。「街道をゆく」で、江戸期の武士のほとんどは貧しく、富むことを願わず、公に奉ずる気持ちが強かったとした。

 

幕末、迫り来る欧米列強に、全国の武士が行動に移った。
司馬は「峠」のあとがきで、人はどう行動すれば美しいか、どう行動すれば公益のためになるか、この2つが幕末人を作り出しているとした。
幕末期に完成した武士の人間像は日本人が生み出した人間の芸術品とまでいえると評価した。
明治の近代化で、武士の公の意識が庶民に根付いていることを注目。急速に広がった郵便制度、奈良市名荷町の名荷郵便局の松本陽一局長を取材、松本家はお茶農家だったが、明治初頭に明治政府から地区の郵便局を頼まれた。
「この国のかたち」で、司馬は全国の名主に特定郵便局をやらせたことが郵便制度の成功にあるとした。初代局長の松本甚内さんは自ら積極的にお金を出し、自宅を郵便局を作った。松本さんは先祖は関われることに喜んでいたと話した。

 

■明治38年 日比谷焼き討ち事件


近代化を成し遂げ、日本は日清戦争、日露戦争で連勝。
司馬は欧米列強に追いつこうとした精神を「坂の上の雲」で描いた。司馬は明治の日本人に根付いていた公の意識は日露戦争後の変質したとした。日比谷焼打事件は日露戦争での賠償に不満だった市民が暴徒化したものだった。
司馬はこの事件が戦争に突き進んだ始まりだとした。
「この国のかたち」編集者の堤尭さんは統帥権で、参謀本部が日本を乗っ取ったと指摘。司馬さんは統帥権を軍部が拡大解釈で権限を広げ、国家が暴走したと指摘した。
樋口陽一さんは司馬が公の意識が軍部の暴走を駆り立てたとしていたとし、そこでは個を出すことをしない雰囲気が悲劇を招いたとした。
司馬は熱中・熱狂を嫌ったと話した。「この国のかたち」で、日本の戦後社会を肯定し、好きだとした。
司馬は晩年の手紙で、日本人は確かな個を作らなければ滅んでしまうと指摘している。

 

 

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【参考資料】

 

 

■ 司馬遼太郎--BS朝日「昭和偉人伝」より(2014/02/02放送)

 

司馬遼太郎氏(1923/8/7~96/2/12, 享年73。本名・福田定一)。

 

司馬氏の真骨頂と言われるのが歴史小説。 代表作『竜馬がゆく』『坂の上の雲』は今も愛読され続けている。
元々は新聞記者。「大阪一の記者になりたい」というのが口癖で、取材力は抜群だった。
そんな彼が、何故、作家となり歴史小説を書いたのか? 
司馬氏は、文化功労賞の授賞会見でこう語っている。 「私の作品というのは22歳の自分へ書いている手紙でした」。 
番組では、数多くの証言と秘蔵映像から、国民作家と呼ばれた司馬氏の魅力と原点に迫る。

*


1941年、大阪外国語学校(現・大阪大学外国語学部)蒙古語科入学。
1943年、学徒出陣のため卒業扱い。戦車連隊に入営。
1944年、満州の戦車連隊に配属。
1945年、本土防衛・決戦のため戦車連隊付の小隊長として栃木県佐野市に配属。ここで陸軍少尉として終戦を迎えた。

米軍が東京に攻撃に来た場合は栃木から移動して攻撃を行う作戦に基づき、大本営から来た参謀は、兵隊と国民が大混乱に陥ることが想定され、その場合、戦車隊に轢(ひ)き殺しても進軍せよと命じた。
22歳の司馬は、何故、こんな馬鹿な戦争をする国に生まれたのだろう? 何時から日本人はこんな馬鹿になったのだろう? との疑問を持ち、昔の日本人はもっとマシだったに違いないとして、「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書き始め書き続けて来た、と述懐している。
この敗戦の体験が、その後の作家生活の原点にあった。

番組では紹介されなかったが、司馬氏は、靖国神社に祀られているA級戦犯・東條英機のことを、「集団的政治発狂組合の事務局長のような人間」と評し、自衛隊で自決した三島由紀夫のことを、「精神異常者が異常を発し、彼の死の薄汚れた模倣をするのではないかということを畏れる」と評している。

 

*


1960年、『梟の城』で第42回直木賞を受賞し、61年に産経新聞社を退職し作家生活に入る。

話し上手・聞き上手として「座談の名手」と呼ばれた。対話や議論を重ねて行くうちに、雪だるま式に自分の思考を整えて行くと言う。
司馬氏が愛した割烹に京都先斗町の「ますだ」があるが、ここには彼是38年前、我が夫婦は婚約旅行の際に訪れた思い出がある。

資料集めへの執念は凄まじく、東京神田などから一度に何千万円単位という巨費を投じて買い集めた。
更に、速読家としても知られ、1枚をめくる(2ページを読む)速さは2秒だったという目撃談がある。

1962~66年、『竜馬がゆく』を産経新聞夕刊に連載。
司馬氏の代表作でかつ世間一般でイメージされる龍馬像は、この歴史小説で作られたと言ってよい。
執筆のきっかけは産経新聞時代の後輩にあたる高知県出身の渡辺司郎(元・産経新聞社常務大阪代表、元大阪市教育委員会委員長)が遊びに来て、土佐の坂本龍馬という男のことを書いてくれと依頼されたこと。
当初は司馬氏自身にその気がなかったが、後日、資料集めをしていると不思議と龍馬が登場して来るので、本格的に龍馬を調べてみようと思うようになったのだと言う。 <続く>

 

*

 

<続き> Wikipediaによる司馬氏の記述


1968~72年、明治の群像を描いた『坂の上の雲』を産経新聞に連載。
明治という時代そのものに対する高評価、日露戦争を一種の自衛戦争であると捉えた史観、旅順攻撃を担当した乃木希典およびその配下の参謀たちが能力的に劣っていたために多大な犠牲を強いることになったとする見解については、未だに賛否両論がある。

明治期の戦争を肯定的に描きながら、昭和期の戦争を否定的に描いている。いわゆる「明るい明治」と「暗い昭和」の二極観。
「明るい明治」は作家としての調査・研究による合理主義から、「暗い昭和」は戦争体験による実証主義から来ている。

司馬氏の歴史観は合理主義への信頼である。
昭和初期~太平洋戦争を通じた日本帝国陸軍に対する不信から小説の筆を執り始めた。
理論に合せて現実を曲げる左右双方の極端な思想家と帝国陸軍的な発想を否定する。
幕末下級志士~明治藩閥政府の近代合理主義が、それらに対局するものと考え、その体現者こそが司馬の愛する人物像であった。

 

1971年から、紀行随筆『街道をゆく』を週刊朝日で連載開始。(96年に急逝したことで、43冊目の『濃尾参州記』で絶筆(未完)となった。)

1981年に日本芸術院会員、91年に文化功労者、93年に文化勲章受章。
この頃から腰に痛みを覚えたため坐骨神経痛と思われていた。96年2月12日、腹部大動脈瘤破裂のため国立大阪病院にて逝去。

忌日は生前好きだった菜の花に因み「菜の花忌」と呼ばれる。墓所は京都市東山区の五条坂西大谷廟。 

 

 

 

■ 私のブログ 司馬氏の『武士道』(2009/03/28記)

 


司馬氏の「武士道」観とは、「名こそ惜しけれ」の言葉に集約される。
武士の道徳は、煮詰めてしまえば、たった一つの徳目に落ち着く。「潔さ(いさぎよさ)」ということ。

坂本龍馬は、日本を生まれ変わらせたかっただけで、生まれ変わった日本で栄達するつもりはなかった。
こういう心境でなければ、大事業というものはできない。
平素からそういう心境でいたからこそ、一介の処士に過ぎぬ俺の意見を世の人々も傾聴し採用してくれた。
西郷隆盛もまた、「敬天愛人」を腹に据え、その私心の無さは凄味(すごみ)すら感じる。

「名こそ惜しけれ」とは、自立した勇ましい志を持つこと。
自分の行うことには自分が責任を持ち、他人に責任を転嫁しないこと。
自分の人生に潔い覚悟をし、恥ずべきことはできない。「背筋を伸ばす」という生き方。
質実剛健さ、個人の欲望を抑える節度、公的なもの(家族~組織~社会)に対する無私の精神。
金やポストに執着して天下る役人には、一欠片(ひとかけら)の潔さもない。

自分が何をしたか、どんな成果を生んだかというより、どう生きたかという精神のプロセスに重きが在る。
どんな大人にも、こう在るべきだという理想の自分と、現実の自分とのギャップ(差異)が在る筈。自分の全てについて、自分自身の目から見ても他人の目から見ても、差異が無いところまで、自分を鍛錬することである。

 

 

 


■ 私のブログ 司馬氏の歴史観「司馬史観」(2009/03/24記)

 

司馬氏は、我々のような戦争を知らない子供達ではなく、戦争とともに成長して来た青年だった。
しかし、22歳で終戦を迎えた彼は、ジャーナリストとなって日本帝国の悪しき変貌の歴史を完全否定する立脚点から著作活動に入った。
日本の近世史を遡(さかのぼ)って探し求め、先ず戦国時代に行き着いた。
そうして、政治史のリーダーやヒーローの群像から、戦後復興し経済成長へと歩み始めた、昭和後期の日本人に対する、示唆(しさ、ヒント)を提供したかったに違いない。

1960年代の高度成長を支える、上昇志向溢(あふ)れるキャリア官僚、大企業戦士、そして彼等を支持するジャーナリストから、絶大なる讃辞を以て、司馬氏の著作は読まれたのである。
更に、テレビの急速な普及に裏打ちされ、NHKが大河ドラマ化することによって、大いに加速された。

司馬氏の思考構造や歴史観は、「司馬史観」と呼ばれるが、知日家のドナルド・キーン等との『日本文明のかたち』 (文藝春秋)のような対談集や随筆などを通して、より明確に確認できる。
司馬氏は、二元的に、善悪・白黒をハッキリさせるので、大衆には分かり易い。

新田を開墾する武装農民に代表される「一所懸命」の思想、滅私奉公(めっしほうこう)の倫理的精神、即ち、責任と勤労と清貧の「武士道」精神と倫理---彼は、そこに合理主義的なリアリズムを見い出す。
それらを体現したのが、幕末の下級武士であり、明治維新のヒーローだった。

それに対立する思想として、大陸からの外来精神・支配者思想「朱子学」は、皇国史観に基づく冒険的・教条的な革命を煽動(せんどう)する、イデオロギーであり、尊王攘夷~超国家・排他主義となって国民国家を破滅に追い遣(や)ってしまう。
明治維新は、植民地化する危機を回避し、世界に誇れる明治国家を、しかも素早く樹立した。

成功を支えたのが、武士の精神に他ならない。
そのかけがえのない国家を、非科学的に、作戦や兵站(へいたん)を無視し、根性や気合だけで勝利できると嘯(うそぶ)き、国家と国民を奈落(ならく)の底に突き落した、長州軍閥を中心とする昭和の日本帝国軍を糾弾(きゅうだん)しなければならない。

だが、昭和中期に飛躍的な経済成長を遂げた日本が、科学的合理主義に溺(おぼ)れ、昭和後期~平成初期にはバブル経済を破綻(はたん)させてしまった。
そして、ミレニアム以降、日本を変革するリーダーに託しながら司馬氏は旅立ってしまったが、未だにリーダーは登場するに至っていない。

 

 

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