NHK-G大阪 「歴史秘話ヒストリア」#239年末特別編
鈴木ちなみ・・・「ヒストリア書房」でバイトする看板娘、テツゲンの孫娘 シオリ
我孫子が学生時代に書いた「火花燃ゆ」「STOP再考 !」「よるが来た」の原稿が、同級生だった作家にパクられ、「花火燃ゆ」「STEP最高 !」「ひるが来た」が出版された。
アンディ岸本・・・武田信玄
【あらすじ】
episode 1 「火のない所にも煙は立つ」
■ 悲劇のフランス王妃マリー・アントワネット
「パンがなければ、お菓子を食べれば良いのに」(“炎上”の名言)
フランス革命の前夜、当時のパリ市民は殺気立っていた。理由は空腹。天候不順で小麦が不作になり、パンの値段が高騰していた。食事にも事欠く日々、庶民の不満は爆発寸前だった。
そんな或る日のこと。
「農民には食べるパンがないと聞かされた或る王妃は、『パンがなければ、ブリオッシュを食べればよい』と言った」と市民の間に伝わった。
ブリオッシュとは卵や砂糖をたっぷり使ったお菓子のような物。パンよりもずっと高価だった。
パンが買えないのにブリオッシュなんて買える訳がないと、この発言は忽(たちま)ち大炎上した。これが革命の火種の1つになったとも言われている。
しかしこの言葉をマリー・アントワネットが言ったというのは、実は全くのデマだった。元々、この発言は1冊の本によって広まった。当時、多くの人々に読まれていた思想家ジャン・ジャック・ルソーの自伝「告白」(革命の30年前に書かれた)に、「或る王妃が、農民がパンがなくて困っていると聞かされ、『それならブリオッシュを食べれば良いのに』と語ったということを思い出した」旨が引用されていた。
或る王妃とは、贅沢三昧(ぜいたくざんまい)な暮らしに現(うつつ)を抜かす、"浮気女""雌豹(めひょう)""赤字夫人"---と非常に評判の悪かったアントワネットのことだと人々は思い込み、アイツなら言いそうだ、言ったに違いないと噂話として広まって行った。
しかし一度、群衆の間に燃え広がった憎しみの炎を最早、消す術(すべ)はなかった。
*
episode 2 「よく学び、よくまねろ !?」
■ 武田信玄
「風林火山」(“最強キャッチコピー”の名言)
実は、「風林火山」には続きの言葉「陰雷」があった。 「風林火山陰雷」。
戦国時代の戦国武将たちが誇りを込めて戦場に掲げたエンブレム「旗印」。武将たちのアイデンティティを示す掛け替えのない物だった。
そんな中、異色の旗印を掲げた戦国最強軍団を率いた名将・武田信玄。
この名言の元になったのは、古代中国・呉国の武将・孫武が書いた兵法書「孫子 軍争篇」。
実は「風林火山」の先には大切な続きの言葉「陰雷」があり、6つでワンセットだった。
「知り難きこと陰の如く」(陰のように行動して相手には自分の動きを掴ませない)。
「動くこと雷霆(らいてい)の如し」(雷のように素早く敵に襲い掛かる)。
なぜ信玄は、この2語を旗に書かなかったか?
近年の調査研究では、「陰雷」の発想を寧(むし)ろ奥の手として隠そうとしていたのではないか? という資料が見つかっている。
書状は信玄直筆(戦国大名としては異例)で書くことに努め---
上杉謙信などの敵に、自分の動きを掴ませない、部下に指示を出したことに関係する人間を減らして秘密が漏れないようにしていた。これが即ち「陰」。偽情報を流しながら敵の城を攻めよと指示を出し、噂で敵を油断させ電撃的な奇襲を仕掛けた。これが即ち「雷」。
「風林火山」を高々と掲げ、その裏で「陰雷」の発想を縦横に駆使して敵を翻弄(ほんろう)していた。「孫子」に敬意(リスペクト)を払い、その兵法の真髄を会得した者だけが掲げることができる最強のエンブレムだったのである。
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■ トーマス・エジソン
「天才とは1%のひらめきと99%の努力」(“成功“の名言)
努力することが如何に大切か ! という意味で教わった人も多いのではないか。
でも実は、エジソンが晩年に語ったと伝わる言葉、「どうも誤解がある。私は寧ろ1%の閃(ひらめ)きこそ大切だと言いたいんだ」。それは実際にどうやって発明品を生み出していたかを探れば理解できる。
先ずエジソンが閃くままにアイディアをスケッチする。
日本人・岡部芳郎(※) を含む開発助手たちが製図・素材集めに動く。そしてイギリスから来た熟練の試作職人たちが完成させていた。
エジソンの独自のアイディアを、弟子たち集団(チームプレイ)の努力で形に成って行った。
エジソンは発明考案に集中し、手助けされ、それにエジソンが相談に答える。
それを確立するため、エジソン研究所(1887年、ニュージャージー州ウェストオレンジ)を設立。
最新の工作機械、5000人のエンジニア。エジソンの閃きに大勢の人たちが膨大な努力をしていた。
「1%のとっても大切な閃きがなければ、99%の努力をしても無駄になってしまう」。
製図助手だった岡部氏は晩年、皆の苦労を無駄にしないようエジソンは、「勤勉・不撓不屈・・・・を身を以って示された」と回顧している。寝食を忘れ1日18時間は、実験室で仮眠を取りながら働いていた。範を示し、仕事に対する闘志に溢れていた。
「私は失敗などしていない。ただ、うまく行かない方法を1万通り発見しただけだ」「私たちの最大の弱点は諦(あきら)める事にある。成功するのに最も確実な方法は、常にもう1回だけ試してみることだ」(トーマス・エジソン)。諦(あきら)めないことの天才でもあったのだ。
(※)
1884年4月9日~1945年3月17日、享年61。
【参考】