◇
姜尚中(カン・サンジュン、東京大学名誉教授)氏は、近年(2008~15年)、著作・講演・マスコミ出演など精力的に活動している。
私が接したものも少なくない。
■ 著作
*
■ 番組出演
□ 2009/02/12アンコール
NHK-BSプレミアム 「世界わが心の旅---ドイツ・故郷と異郷のはざまで 姜尚中」。
⇒ 私のブログ 「世界わが心の旅---ドイツ・故郷と異郷のはざまで 姜尚中」
先進大国の各国共に、多少なりとも略奪であれ自由意思であれ、経済成長国家の底辺の一部を、移住の外国人で補って来ている。日本も、その現象が膨張しつつあった途上で、大不況が直撃した。外国人移民どころか、日本人の派遣社員、更には正社員へと解雇が及び始めている。
富裕層の目線で危機意識を共有できない人物が頂点に在るのが、今現在の日本である。
□ 2012/09/10
□ 2013/12/30~31
TOKYO FM 「未来授業~明日の日本人たちへ」
□ 2013/04/03~04/24
NHK-E 「100分de名著~夏目漱石『こゝろ』」
晩年(40代)、明治末期~明治天皇崩御~大正初期の漱石は、小説家として多忙を極める一方で、身体はどんどん蝕まれていた。命運を意識する中、国家存在を一層、際立たせた天皇崩御と乃木大将夫妻の殉死事件。森鴎外らと異なって、国家=中央集権=官僚=軍閥などとは一線を画したい、個人主義に惹かれた漱石は、個人の「心」をテーマとした連作に着手する。彼にとっての心の問題点▽ 自我・個我とは? しかし個人主義(individualism)は、"明治の精神"から見れば利己主義(egoism)としか見られない。▽ 思慕・愛とは? 友情・友愛(friendship)、性愛(sexual love)など様々な愛は、殖産国家と家父長制度の仁・義・礼の前には押し潰される。▽ 宗教と科学神仏と対立する科学も文明も宗教化し、個我を操って行くのか?本作に登場する「私」も「先生」も「K」も皆、漱石自身が持つ3つの側面(分身)ではなかったか。「K」 (若き金之助) の内面の軌跡、若さに羨望する「先生」(老い行く漱石)。二人を客体化する「私」は、葛藤と不安と孤独の中で・・・。
□ 2015/08/13再
BS-TBS 「林修・世界の名著~夏目漱石『こころ』を語る」
⇒ 私のブログ 「林修・世界の名著~夏目漱石『こころ』を語る」ゲスト・姜尚中
姜氏(1950年生まれ)とはほぼ同世代の私たちは、敗戦後の欧米民主主義教育の下、自我、個人の自由と平等と幸福、自由と責任などを自覚できる世代として育った。漱石のような大文豪でも極めて窮屈で、"共同幻想体" = 国家・地域・家父長の軋轢(あつれき)。現に大正~昭和初期には、皇国史観下の殉死は特攻・玉砕へと、国体は戦争へと直(ひた)走った。彼は心中、予感したのではないか? 戦勝国・米国から授かったとは雖も、平和憲法下(戦争・海外派兵の放棄)で70年間も交戦しない、我々の時代は本当に幸せ、だった。姜氏の場合は、私たちと違って出自による苦しみがあった。姜氏も私たちも、安保法案、東北放射能汚染状態を偽ってオリンピックを招致、弱者救済(最低水準引き上げ)の放棄、などを直走る現政権が恐ろしい。
姜尚中(カン・サンジュン、東京大学名誉教授)氏は、近年(2008~15年)、著作・講演・マスコミ出演など精力的に活動している。
私が接したものも少なくない。
■ 著作
□ 2008/05/16
集英社新書 「悩む力」

情報ネットワークや市場経済圏の拡大に伴う猛烈な変化に対して、多くの人々がストレスを感じている。格差は広がり、自殺者も増加の一途を辿る中、自己肯定もできず楽観的にもなれず、スピリチュアルな世界にも逃げ込めない人たちは、どう生きれば良いのだろうか?こうした苦しみを百年前に直視した夏目漱石とマックス・ウェーバーをヒントに、最後まで「悩み」を手放すことなく真の強さを掴み取る生き方を提唱する。
□ 2012/06/15安定した収入、伴侶と家族、健康、老後の貯え―。この既存の幸福像は、今や瓦礫と化した。神仏はおろか、現代社会の宗教とも言える科学への不信も極まり、寄る辺ない私たちの孤立はさらに深まっている。この憂鬱な時代の只中で、私たちが真の意味で生まれ変わり、新たな「幸せの感情」に浸ることなど、果たして可能なのだろうか?
その問いを解く鍵は、夏目漱石の100年前の予言にこそ在るのだ。
□ 2013/04/10
集英社単行本 「心」

主人公の学生は「死」と向き合いながら自らの自意識と戦い、若者らしい恋の悩みにも奮闘する。最後には自意識に飲み込まれてしまった「こころ」の「先生」とは違う答えを出す。「悩み」とは人を「孤独」に引きずり込む鎖。しかし、その「悩み」の共有こそが実は本当の意味での「孤独」から救い出す。
自死した息子と大震災でなくなった2万人近くの人々、原発事故で絶望や流離の果てに亡くなった人々を重ね合わせ、複雑化し苦悩に満ちた今の時代を、死者を抱きしめ、共に生きて行こうと呼び掛ける。
□ 2014/01/17
集英社新書 「心の力」

夏目漱石が100年前に書き残した最大の問題作に挑む。登場人物“先生”の長大な遺書を収めた漱石の『こころ』は、なぜ多くの読者の感情を揺さぶって来たのか。それは、この世に生きる者がみな、誰かに先立たれた存在だからだ。
心の実質を太くする生き方を提唱する。
□ 2015/09/17
集英社新書 「悪の力」

川崎市中一男子生徒殺害事件、群馬大病院事件、名古屋大女子学生の殺人・傷害・放火事件、酒鬼薔薇聖斗、ルフトハンザ系航空機墜落…。周囲では日々、「悪の力」が増大しているように映る。そして、ひとたび「悪」を見出したとき、人々は心の奥底からどす黒い感情が湧き出すのを感じるだろう―こいつだけは許せない、と。しかし、そうした憎悪のエネルギーは、実のところ「誰かと繋がりたい」という叫び声でもあるのだ。
情報ネットワークや市場経済圏の拡大に伴う猛烈な変化に対して、多くの人々がストレスを感じている。格差は広がり、自殺者も増加の一途を辿る中、自己肯定もできず楽観的にもなれず、スピリチュアルな世界にも逃げ込めない人たちは、どう生きれば良いのだろうか?こうした苦しみを百年前に直視した夏目漱石とマックス・ウェーバーをヒントに、最後まで「悩み」を手放すことなく真の強さを掴み取る生き方を提唱する。
□ 2012/06/15安定した収入、伴侶と家族、健康、老後の貯え―。この既存の幸福像は、今や瓦礫と化した。神仏はおろか、現代社会の宗教とも言える科学への不信も極まり、寄る辺ない私たちの孤立はさらに深まっている。この憂鬱な時代の只中で、私たちが真の意味で生まれ変わり、新たな「幸せの感情」に浸ることなど、果たして可能なのだろうか?
その問いを解く鍵は、夏目漱石の100年前の予言にこそ在るのだ。
□ 2013/04/10
集英社単行本 「心」
主人公の学生は「死」と向き合いながら自らの自意識と戦い、若者らしい恋の悩みにも奮闘する。最後には自意識に飲み込まれてしまった「こころ」の「先生」とは違う答えを出す。「悩み」とは人を「孤独」に引きずり込む鎖。しかし、その「悩み」の共有こそが実は本当の意味での「孤独」から救い出す。
自死した息子と大震災でなくなった2万人近くの人々、原発事故で絶望や流離の果てに亡くなった人々を重ね合わせ、複雑化し苦悩に満ちた今の時代を、死者を抱きしめ、共に生きて行こうと呼び掛ける。
□ 2014/01/17
集英社新書 「心の力」
夏目漱石が100年前に書き残した最大の問題作に挑む。登場人物“先生”の長大な遺書を収めた漱石の『こころ』は、なぜ多くの読者の感情を揺さぶって来たのか。それは、この世に生きる者がみな、誰かに先立たれた存在だからだ。
心の実質を太くする生き方を提唱する。
□ 2015/09/17
集英社新書 「悪の力」
川崎市中一男子生徒殺害事件、群馬大病院事件、名古屋大女子学生の殺人・傷害・放火事件、酒鬼薔薇聖斗、ルフトハンザ系航空機墜落…。周囲では日々、「悪の力」が増大しているように映る。そして、ひとたび「悪」を見出したとき、人々は心の奥底からどす黒い感情が湧き出すのを感じるだろう―こいつだけは許せない、と。しかし、そうした憎悪のエネルギーは、実のところ「誰かと繋がりたい」という叫び声でもあるのだ。
*
■ 番組出演
□ 2009/02/12アンコール
NHK-BSプレミアム 「世界わが心の旅---ドイツ・故郷と異郷のはざまで 姜尚中」。
⇒ 私のブログ 「世界わが心の旅---ドイツ・故郷と異郷のはざまで 姜尚中」
先進大国の各国共に、多少なりとも略奪であれ自由意思であれ、経済成長国家の底辺の一部を、移住の外国人で補って来ている。日本も、その現象が膨張しつつあった途上で、大不況が直撃した。外国人移民どころか、日本人の派遣社員、更には正社員へと解雇が及び始めている。
富裕層の目線で危機意識を共有できない人物が頂点に在るのが、今現在の日本である。
□ 2012/09/10
TOKYO FM 「未来授業~3.11後にふさわしい生き方」
□ 2013/12/30~31
TOKYO FM 「未来授業~明日の日本人たちへ」
□ 2013/04/03~04/24
NHK-E 「100分de名著~夏目漱石『こゝろ』」
晩年(40代)、明治末期~明治天皇崩御~大正初期の漱石は、小説家として多忙を極める一方で、身体はどんどん蝕まれていた。命運を意識する中、国家存在を一層、際立たせた天皇崩御と乃木大将夫妻の殉死事件。森鴎外らと異なって、国家=中央集権=官僚=軍閥などとは一線を画したい、個人主義に惹かれた漱石は、個人の「心」をテーマとした連作に着手する。彼にとっての心の問題点▽ 自我・個我とは? しかし個人主義(individualism)は、"明治の精神"から見れば利己主義(egoism)としか見られない。▽ 思慕・愛とは? 友情・友愛(friendship)、性愛(sexual love)など様々な愛は、殖産国家と家父長制度の仁・義・礼の前には押し潰される。▽ 宗教と科学神仏と対立する科学も文明も宗教化し、個我を操って行くのか?本作に登場する「私」も「先生」も「K」も皆、漱石自身が持つ3つの側面(分身)ではなかったか。「K」 (若き金之助) の内面の軌跡、若さに羨望する「先生」(老い行く漱石)。二人を客体化する「私」は、葛藤と不安と孤独の中で・・・。
□ 2015/08/13再
BS-TBS 「林修・世界の名著~夏目漱石『こころ』を語る」
⇒ 私のブログ 「林修・世界の名著~夏目漱石『こころ』を語る」ゲスト・姜尚中
姜氏(1950年生まれ)とはほぼ同世代の私たちは、敗戦後の欧米民主主義教育の下、自我、個人の自由と平等と幸福、自由と責任などを自覚できる世代として育った。漱石のような大文豪でも極めて窮屈で、"共同幻想体" = 国家・地域・家父長の軋轢(あつれき)。現に大正~昭和初期には、皇国史観下の殉死は特攻・玉砕へと、国体は戦争へと直(ひた)走った。彼は心中、予感したのではないか? 戦勝国・米国から授かったとは雖も、平和憲法下(戦争・海外派兵の放棄)で70年間も交戦しない、我々の時代は本当に幸せ、だった。姜氏の場合は、私たちと違って出自による苦しみがあった。姜氏も私たちも、安保法案、東北放射能汚染状態を偽ってオリンピックを招致、弱者救済(最低水準引き上げ)の放棄、などを直走る現政権が恐ろしい。
□ 2015/09/30
J-WAVE 「Jam the WORLD(ジャム・ザ・ワールド)~BREAK THROUGH! コーナー」
【姜尚中氏の呼び掛け】
1970~80年代、低成長、貿易摩擦、バブル崩壊。
その問いを解く鍵は、夏目漱石の100年前の予言にこそある。
最後まで悩みを手放すことなく、真の強さを掴み取る生き方。
人は独りでは生きていけない---隣人愛。
◇----------------------------------
【参考】
姜氏の主張に接するにつけても、
私は、自分の遠き大学生時代(1967年4月~71年3月)に経験した、悩ましきエスプリが甦って来る。
1950~60年代の平和憲法下の高度経済成長、列島改造、核付き沖縄基地
⇒ 歪みの坩堝(るつぼ)、公害垂れ流し
⇒ ベトナム反戦、交通ゼネスト・学園封鎖の70年安保闘争 ⇒ 敗北。。。
■ 実存哲学
⇒ 私のブログ
学生生活におけるエスプリ(2006/12/20)
ベトナム戦争に反対する学生運動、市民参加の「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」活動、安保条約の70年見直しに対する反体制運動、が日増しに戦闘化していた。我々、セクトに属さない学生たちは、"ノンポリ・ラジカル"と揶揄(やゆ)された。文化系サークル、その中で私が属する映画研究会も、既成の自民党体制と日本共産党(代々木)に反対する、いわゆる三派全学連のサポーター的存在となって行った。代々木vs反代々木の二極化から、風雲急を告げて、多極化への一途を辿ることになる。日夜、暇さえあれば議論を闘わす日常生活である。「歴史的存在としての参加(アンガージュ)・投企(プロジェ)」、「造反有理」、をテーマとした理論武装と構築、そして実践・・・。仲間だろうが、先輩だろうが、教授だろうが、論破することに生きがいを持つソサイアティが続いた。私は既に、家庭がそれ程貧困でなくなっており、大学まで進学させてもらえる、いわゆる小市民(プチブル)と言える境遇となっていた。
アルベール・カミュ・・・自分は何故、このような境遇なのか、太陽=「不条理」に反抗して、いかに自分の人生を、そして幸せを見出すか。生き続ける限り、問い続けなければならない。
そうした社会情勢の中で、「人間の実存」・「現象学」に非常な興味を持ち、大学2年の夏休みに、大学の図書館に通い詰めて、西洋哲学史を勉強し、日本の戦後主体性論に陶酔した。
*
⇒ 私のブログ
高橋和巳氏の「失明の階層」・「孤立無援の思想」(2010/03/11)
*
⇒ 関連番組
NHK-E 「ケンブリッジ白熱教室」(2014年10月)
ケンブリッジ大学フランス学部講師のアンディ・マーティン博士の講義。
「カミュ vs サルトル論争」
カミュの言う「不条理」とは、私の人間性を脅かすもの、世界に対峙する時に現われる不合理性のことであり、そのような「不条理」な運命に目を背けず見つめ続ける態度が「反抗」だと言い表し、それが生を価値あるものにする。「不条理」の体験は、個人的な苦悩に終わるが、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる「反抗」は、個人を超えるものであり、そこから人々の間で「連帯」が生まれる。「不条理」という感情は、人間の内面にあるものと世界にあるもの---両者の共存・共生を結ぶ唯一の「絆」である。革命を含め、あらゆる政治的暴力を批判し忌避しようとするカミュの姿勢。無垢への郷愁である「反抗」から起こった筈のプロレタリア革命が、必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌して行くのだ。盟友サルトルとの間で論争 <カミュ=サルトル論争> を引き起こし、第二次世界大戦後の文壇において、その立場を孤立させて行く原因ともなった。
コミュニストでもあるサルトルとボーヴォワールは、カミュの思想は文学的な曖昧さと見なす。サルトルは、一方で革命や党派性の限界を示しながら、カミュを諌める。
人間は自分で選択した訳でもないのに、気付いた時には既に状況に拘束されている。常に自分が外から拘束されているとみなすべきではない。自由な「対自」(意識を持つ存在、対象化する)としての人間は、不確実なものに自己を賭ける(自己変革する)ことができる。ヘーゲルの弁証法を適用。つまり、自己が状況に主体的に関わる。現況から自己を解放し、新たな状況に自ら拘束するアンガージュマン<engagement>。アンガージュマン(社会参加)の実践を通して、歴史的状況への認識を深めよう。
◇
J-WAVE 「Jam the WORLD(ジャム・ザ・ワールド)~BREAK THROUGH! コーナー」
『さまざまな凶悪事件「悪」について』パーソナリティー・安田菜津紀(なつき)。
⇒ 番組録音
⇒ 番組録音
【姜尚中氏の呼び掛け】1970~80年代、低成長、貿易摩擦、バブル崩壊。
1990年代~ミレニアム"失われた20年"。
冷戦崩壊=自由主義が強制主義に勝った。資本主義が社会主義に勝った。
資本主義に取って代わるものがない。
そこで蔓延(はびこ)る原理主義=排他主義。悪の枢軸と決めつけ、殲滅(せんめつ)していいという米国正義論。
一方で、崩壊した社会主義大国のロシアも中国も、挙(こぞ)って修正資本主義に奔走する。
冷戦崩壊=自由主義が強制主義に勝った。資本主義が社会主義に勝った。
資本主義に取って代わるものがない。
そこで蔓延(はびこ)る原理主義=排他主義。悪の枢軸と決めつけ、殲滅(せんめつ)していいという米国正義論。
一方で、崩壊した社会主義大国のロシアも中国も、挙(こぞ)って修正資本主義に奔走する。
金融経済が実態経済の何倍にも膨れ上がっている。
実は金融こそ虚構の悪。身体性を離れたシステムは悪を宿す。倒錯性があるマネーゲームである。
資本主義のスキルアップとは、マネーゲームの世界で特殊能力を研くこと。
資本主義の自己責任原則とは、金融商品取引において損失を被ったとしても、投資家が自らのリスク判断でその取引を行った限りは、その損失を自ら負担する。
実は金融こそ虚構の悪。身体性を離れたシステムは悪を宿す。倒錯性があるマネーゲームである。
資本主義のスキルアップとは、マネーゲームの世界で特殊能力を研くこと。
資本主義の自己責任原則とは、金融商品取引において損失を被ったとしても、投資家が自らのリスク判断でその取引を行った限りは、その損失を自ら負担する。
情報ネットワークや市場経済圏の拡大にともなう猛烈な変化。
格差は広がり、安定した収入、伴侶と家族、健康、老後のたくわえ―。
この既存の幸福像は、いまや瓦礫(がれき)と化した。
格差は広がり、安定した収入、伴侶と家族、健康、老後のたくわえ―。
この既存の幸福像は、いまや瓦礫(がれき)と化した。
神仏はおろか、現代社会の宗教とも言える科学への不信も極まれり。
文明や科学の発展が人間の孤独を加速させる。
文明や科学の発展が人間の孤独を加速させる。
不確実性の時代に生きている。やっぱりどこかに不安がある。
多くの人々が、家族に社会にストレスを感じてしまっている。
小市民(プチブル)---自己肯定もできず、楽観的にもなれず、スピリチュアルな世界にも逃げ込めない。
寄る辺ない私たちの孤立はさらに深まっている。
憂鬱な時代のただ中、自殺者も増加の一途を辿る。
*
かつての自暴自棄な犯罪、例えば連続ピストル射殺事件の永山則夫や小松川事件の李珍宇(イ・チヌ)、金嬉老事件の金嬉老(キム・ヒロ)など---
そこには貧困や言われなき差別を受けている自らの境遇を社会に告発するという意識が明確にあった。
それに対して、川崎市で起きた中1男子殺害事件や、名古屋大学の女子大生による殺人、放火事件、また過激派組織「イスラム国」による日本人殺害事件など---
さまざまな凶悪事件が後を絶たない。
さまざまな凶悪事件が後を絶たない。
現代に起きている犯罪には理解できない部分がある。
政治から切り離された個人が、勝手に自由を享受しようとする。
そんなシニシズムが蔓延し、冷笑主義が広まり、時代が変わる兆しが見えなくなり、苦しさばかりが募る。
その感覚が、世代を超えて共有されている。
そんなシニシズムが蔓延し、冷笑主義が広まり、時代が変わる兆しが見えなくなり、苦しさばかりが募る。
その感覚が、世代を超えて共有されている。
それらの現実は、依然として、或る時代の残像のなかで、人をある鋳型にはめて社会を動かそうとする惰性的な力が強い。
ひとたび「悪」を見出したとき、人々は心の奥底から、ドス黒い感情が湧き出すのを感じるだろう―こいつだけは許せないと。
憎悪のエネルギーの源には、実は「誰かと繋がりたい」という叫び声でもある。
*
その問いを解く鍵は、夏目漱石の100年前の予言にこそある。
こうした苦しみを直視した夏目漱石---登場人物“先生”の長大な遺書を収めた『こころ』。
先生は私に「あなたは真面目ですか」と問いかける。個人がバラバラになっている時代、相手を信じて自分を投げ出すことは非常に難しい。
「真面目ですか」と言う問いかけは、「あなたを信じて良いのか」という先生の魂の叫びだったのだ。
それは、この世に生きる者がみな、誰かに先立たれた存在だからだ。
それは、この世に生きる者がみな、誰かに先立たれた存在だからだ。
「死にゆく人々は、みんな先生」という認識。
*
デフレであっても、経済が低成長でも、欺瞞・偽善が蔓延(はびこ)っていても、
インフレや成長とはしっかりと袂(たもと)を分けて、
惰性から解放された若者の姿を見届けたい。
惰性から解放された若者の姿を見届けたい。
私たちが真の意味で生まれ変わり、新たな「幸せの感情」に浸ることなど、果たして可能なのだろうか?
最後まで悩みを手放すことなく、真の強さを掴み取る生き方。
究極の苦しみを経たとき、人は再び新しい価値や人生を掴み取ることができる。
自分の人生の痛みとか、幸せとか、あるいは不幸について、自分なりにしっかり納得できる。
自分に嘘をつかずに、自分自身をしっかり正当化できる。それが教養。
自分の選択に悔いを持たない。自分がそれを選んだ場合には、決して悔いてはならない。
人は独りでは生きていけない---隣人愛。
心の支え、自分を支えるものが必要。
“心友”---自分が内側に秘めていることを話してもいいと思えるような、心の友。
実存哲学が底に流れる人生論---他者と承認しあえない自我はありえない。
希望というものは匿名の人と分かち合うもの。
現代に必要なのは社会における希望。他者との共生、絆の構築。
実存哲学が底に流れる人生論---他者と承認しあえない自我はありえない。
希望というものは匿名の人と分かち合うもの。
現代に必要なのは社会における希望。他者との共生、絆の構築。
これまでとは違う幸福感・価値観を求め、今までとは違う企業・政治へと。
個人も社会も国も、身の丈に合った時代であるべき。
個人も社会も国も、身の丈に合った時代であるべき。
身の丈に合った自分の人生、自分のサイズに合った幸せや生きがいを見出して行こう。それがあなたを豊かにしてくれるのだ。
私たちは、心の実質を太くする生き方・価値観・社会の仕組みを作って行くべき。
人々が生きがいを持って生きられる国に、日本を変えよう。
人々が生きがいを持って生きられる国に、日本を変えよう。
【参考】
姜氏の主張に接するにつけても、
私は、自分の遠き大学生時代(1967年4月~71年3月)に経験した、悩ましきエスプリが甦って来る。
1950~60年代の平和憲法下の高度経済成長、列島改造、核付き沖縄基地
⇒ 歪みの坩堝(るつぼ)、公害垂れ流し
⇒ ベトナム反戦、交通ゼネスト・学園封鎖の70年安保闘争 ⇒ 敗北。。。
■ 実存哲学
⇒ 私のブログ
学生生活におけるエスプリ(2006/12/20)
ベトナム戦争に反対する学生運動、市民参加の「ベトナムに平和を市民連合(べ平連)」活動、安保条約の70年見直しに対する反体制運動、が日増しに戦闘化していた。我々、セクトに属さない学生たちは、"ノンポリ・ラジカル"と揶揄(やゆ)された。文化系サークル、その中で私が属する映画研究会も、既成の自民党体制と日本共産党(代々木)に反対する、いわゆる三派全学連のサポーター的存在となって行った。代々木vs反代々木の二極化から、風雲急を告げて、多極化への一途を辿ることになる。日夜、暇さえあれば議論を闘わす日常生活である。「歴史的存在としての参加(アンガージュ)・投企(プロジェ)」、「造反有理」、をテーマとした理論武装と構築、そして実践・・・。仲間だろうが、先輩だろうが、教授だろうが、論破することに生きがいを持つソサイアティが続いた。私は既に、家庭がそれ程貧困でなくなっており、大学まで進学させてもらえる、いわゆる小市民(プチブル)と言える境遇となっていた。
アルベール・カミュ・・・自分は何故、このような境遇なのか、太陽=「不条理」に反抗して、いかに自分の人生を、そして幸せを見出すか。生き続ける限り、問い続けなければならない。
そうした社会情勢の中で、「人間の実存」・「現象学」に非常な興味を持ち、大学2年の夏休みに、大学の図書館に通い詰めて、西洋哲学史を勉強し、日本の戦後主体性論に陶酔した。
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⇒ 私のブログ
高橋和巳氏の「失明の階層」・「孤立無援の思想」(2010/03/11)
「失明の階層―中間階級論」

すべての学生たちは、学園から社会にむけて一歩をふみだす際に、すでに一つの躓(つまず)きをよぎなくされる。自分が学んできた進歩の観念を検証すべき場がどこにもないことを痛切に思い知らされ、次に理念か生活かのどちらかが決定的に間違っているのだという不幸な疑問にとりつかれる。しばらくの間は、自由であった学園への回顧と理念への執着によって、現実を侮蔑し、やがて生きていくために、強行軍をする兵士たちが、不必要な一切の重荷をすて、最後には愛人の写真をも棄てるように、さまざまな知識や思想、そして進歩の観念をもすてさるのである。中間階層が単に中間階層であること自体にはなんの意味もない。庶民自身、自分が庶民であるといわれることに何の意味もみとめていないように─。その現状を無条件に肯定することは、誤謬であるよりもむしろ侮辱である。それゆえに、緻密に考察することなく何ものかになろうとあせるのも、この階層のおちいりがちな欠点であるけれども、あせるあまりに思弁を放棄するのでないかぎり、いま中間層がおちいっている状態には、哲学的な意味がある。指導者をもたないゆえに、やみくもに英雄主義にあこがれるのでないかぎり、指導者をもっていないことはむしろ有利な条件である。無規定な憂愁とばか騒ぎに自己喪失してしまうのでなければ、たとえ迫られたものにもせよ、この階層がもっている自己否定性は思いがけない思想をうみだす一つの可能性たりうる。天国からも地獄からも拒まれ続けなければならない中間階級は、その自己否定性(失明の状態)ゆえに期待を寄せうる存在である。天国はなくていい。地獄もまた虚妄に過ぎない。地獄の門前にいて、その門より拒まれてあること、それは地獄でも天国でもない場所に人間の世界を作るための絶好の条件であろう。
「孤立無援の思想」

世界を席巻した学生の叛乱、文化大革命――激動と混迷の1960年代後半の若者たちの夢と痛みを共有しつつ、誠実に生きた知識人高橋和巳の代表的評論を収めた本書は、豊かな日本の怠惰な日常をも撃ちつづける。深い洞察力と該博の知識に立ち停滞状況の根源を衝く!
どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。だが人の夢や志は、誰に見がわりしてもらうわけにもいかない。
他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。さて歩まねばならぬ。限りある生の時間のうちに生き、一回性という動かしえない制限をもつ個別者は、無限の順応体として自分を訓練する必要はない。たった一つか二つの役割を自ら裏切ることなき態度の上に果すことができれば、おそらくはそれで十分なのであり、役割が終わったと思えば、静かに退場してゆけばいいのである。みずからの役割の終わった時の退場の覚悟をもっておれば、パワー・バランスの論理とその濁流にみずからを見失う悲惨はなくてすませるのである。一見弱肉強食を説くかにみえる進化論は、貴重な一つの事実をわれわれに教えている。 かつて猿の種族に、おそろしくひ弱な奇形児が生まれた。それはきびしい自然に適応できずに淘汰された。つぎつぎと生まれつぎつぎと死んだ。しかしそのひ弱な奇形児が一つの集団をなしたとき、自分たちのひ弱さを頭脳と相互扶助によっておぎない、かくて人類が生まれたのであることを。強き猿は猿にとどまり、非暴力なる奇形児は人間となった。そしてこのことは現在の反省なき強者がやがてたどるであろう運命をも暗示している。 ところで、その青年に対して自然の美に心を奪われるよりは政治問題について考慮すべきだと薦めうる確固たる論理が本当にあるのだろうか。 これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。それゆえに、政治的思考というものの基礎には、つねに<情勢論>というものが位置することになる。一般に、行動者は極端に単純化された観念に献身するものだが、その信奉する観念が単一純粋である故に、彼には全く世界が見えていないと速断するのは短慮である。なるほど机の前に坐って、じっと世界を見廻し、観念をもてあそんでいる者には、世界はより複雑にみえる。しかしその場合、彼に見えている世界は、単なる客観的対象に過ぎない。むしろ世界は、行動することによって現実(リアル)となる。現実の実在感は、単一の観念を信奉する者の試行錯誤の中にしか浮かび上がらないのである。日々泥土の内に死んでゆく兵士の死骸のみを非政治的にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望を噛みしめる。少なくとも二つの体制が対立しているゆえに戦われるという戦争の相とは別に、二つの体制が自己自身を保存するために、直接火の粉のふりかからぬ場所とその人民を犠牲にしている今一つの恐ろしい政治の相があきらかになるからである。
すべての学生たちは、学園から社会にむけて一歩をふみだす際に、すでに一つの躓(つまず)きをよぎなくされる。自分が学んできた進歩の観念を検証すべき場がどこにもないことを痛切に思い知らされ、次に理念か生活かのどちらかが決定的に間違っているのだという不幸な疑問にとりつかれる。しばらくの間は、自由であった学園への回顧と理念への執着によって、現実を侮蔑し、やがて生きていくために、強行軍をする兵士たちが、不必要な一切の重荷をすて、最後には愛人の写真をも棄てるように、さまざまな知識や思想、そして進歩の観念をもすてさるのである。中間階層が単に中間階層であること自体にはなんの意味もない。庶民自身、自分が庶民であるといわれることに何の意味もみとめていないように─。その現状を無条件に肯定することは、誤謬であるよりもむしろ侮辱である。それゆえに、緻密に考察することなく何ものかになろうとあせるのも、この階層のおちいりがちな欠点であるけれども、あせるあまりに思弁を放棄するのでないかぎり、いま中間層がおちいっている状態には、哲学的な意味がある。指導者をもたないゆえに、やみくもに英雄主義にあこがれるのでないかぎり、指導者をもっていないことはむしろ有利な条件である。無規定な憂愁とばか騒ぎに自己喪失してしまうのでなければ、たとえ迫られたものにもせよ、この階層がもっている自己否定性は思いがけない思想をうみだす一つの可能性たりうる。天国からも地獄からも拒まれ続けなければならない中間階級は、その自己否定性(失明の状態)ゆえに期待を寄せうる存在である。天国はなくていい。地獄もまた虚妄に過ぎない。地獄の門前にいて、その門より拒まれてあること、それは地獄でも天国でもない場所に人間の世界を作るための絶好の条件であろう。
「孤立無援の思想」
世界を席巻した学生の叛乱、文化大革命――激動と混迷の1960年代後半の若者たちの夢と痛みを共有しつつ、誠実に生きた知識人高橋和巳の代表的評論を収めた本書は、豊かな日本の怠惰な日常をも撃ちつづける。深い洞察力と該博の知識に立ち停滞状況の根源を衝く!
どんなに意地をはっても、人はたった独りでは生きてゆけない。だが人の夢や志は、誰に見がわりしてもらうわけにもいかない。
他者とともに営む生活と孤立無援の思惟との交差の仕方、定め方、それが思想というものの原点である。さて歩まねばならぬ。限りある生の時間のうちに生き、一回性という動かしえない制限をもつ個別者は、無限の順応体として自分を訓練する必要はない。たった一つか二つの役割を自ら裏切ることなき態度の上に果すことができれば、おそらくはそれで十分なのであり、役割が終わったと思えば、静かに退場してゆけばいいのである。みずからの役割の終わった時の退場の覚悟をもっておれば、パワー・バランスの論理とその濁流にみずからを見失う悲惨はなくてすませるのである。一見弱肉強食を説くかにみえる進化論は、貴重な一つの事実をわれわれに教えている。 かつて猿の種族に、おそろしくひ弱な奇形児が生まれた。それはきびしい自然に適応できずに淘汰された。つぎつぎと生まれつぎつぎと死んだ。しかしそのひ弱な奇形児が一つの集団をなしたとき、自分たちのひ弱さを頭脳と相互扶助によっておぎない、かくて人類が生まれたのであることを。強き猿は猿にとどまり、非暴力なる奇形児は人間となった。そしてこのことは現在の反省なき強者がやがてたどるであろう運命をも暗示している。 ところで、その青年に対して自然の美に心を奪われるよりは政治問題について考慮すべきだと薦めうる確固たる論理が本当にあるのだろうか。 これも拒絶し、あれも拒絶し、そのあげくのはてに徒手空拳、孤立無援の自己自身が残るだけにせよ、私はその孤立無援の立場を固執する。それゆえに、政治的思考というものの基礎には、つねに<情勢論>というものが位置することになる。一般に、行動者は極端に単純化された観念に献身するものだが、その信奉する観念が単一純粋である故に、彼には全く世界が見えていないと速断するのは短慮である。なるほど机の前に坐って、じっと世界を見廻し、観念をもてあそんでいる者には、世界はより複雑にみえる。しかしその場合、彼に見えている世界は、単なる客観的対象に過ぎない。むしろ世界は、行動することによって現実(リアル)となる。現実の実在感は、単一の観念を信奉する者の試行錯誤の中にしか浮かび上がらないのである。日々泥土の内に死んでゆく兵士の死骸のみを非政治的にひたすら凝視すること、そしてみずからの無力感と絶望を噛みしめる。少なくとも二つの体制が対立しているゆえに戦われるという戦争の相とは別に、二つの体制が自己自身を保存するために、直接火の粉のふりかからぬ場所とその人民を犠牲にしている今一つの恐ろしい政治の相があきらかになるからである。
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⇒ 関連番組
NHK-E 「ケンブリッジ白熱教室」(2014年10月)
ケンブリッジ大学フランス学部講師のアンディ・マーティン博士の講義。
「カミュ vs サルトル論争」
カミュの言う「不条理」とは、私の人間性を脅かすもの、世界に対峙する時に現われる不合理性のことであり、そのような「不条理」な運命に目を背けず見つめ続ける態度が「反抗」だと言い表し、それが生を価値あるものにする。「不条理」の体験は、個人的な苦悩に終わるが、他者に対する圧迫を見ることからも起こりうる「反抗」は、個人を超えるものであり、そこから人々の間で「連帯」が生まれる。「不条理」という感情は、人間の内面にあるものと世界にあるもの---両者の共存・共生を結ぶ唯一の「絆」である。革命を含め、あらゆる政治的暴力を批判し忌避しようとするカミュの姿勢。無垢への郷愁である「反抗」から起こった筈のプロレタリア革命が、必然的に自由を縛る恐怖政治と全体主義へと変貌して行くのだ。盟友サルトルとの間で論争 <カミュ=サルトル論争> を引き起こし、第二次世界大戦後の文壇において、その立場を孤立させて行く原因ともなった。
コミュニストでもあるサルトルとボーヴォワールは、カミュの思想は文学的な曖昧さと見なす。サルトルは、一方で革命や党派性の限界を示しながら、カミュを諌める。
人間は自分で選択した訳でもないのに、気付いた時には既に状況に拘束されている。常に自分が外から拘束されているとみなすべきではない。自由な「対自」(意識を持つ存在、対象化する)としての人間は、不確実なものに自己を賭ける(自己変革する)ことができる。ヘーゲルの弁証法を適用。つまり、自己が状況に主体的に関わる。現況から自己を解放し、新たな状況に自ら拘束するアンガージュマン<engagement>。アンガージュマン(社会参加)の実践を通して、歴史的状況への認識を深めよう。
70年安保・沖縄闘争に直面し、キャンパスで踠(もが)く我々ノンポリ(心情はラジカル)。主体性論争、"連帯を求めて孤立を恐れず"。サルトル(政治参加)がカミュ(個々の文芸表現)を凌駕して行く。
しかしながら、その後のソ連=東欧圏<スターリニズム>も 中国<毛沢東文化革命=造反有理>も、永続的革命とは程遠い官僚支配・個人崇拝・粛清に汚染されてしまう。未解決テーマ。
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