第二次梅雨のような秋雨前線が活発。ゲリラ的な豪雨・突風・落雷・竜巻だ。
更にこれから台風18号が北上する。
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一昨夜9/6(日)にフジで再放送された、柴田錬三郎・原作のドラマ「御家人斬九郎」のファイナルは面白かった。 私のブログ 「最後の死闘」
登場した「下河原藩」は一体、実在の何藩がモデルになったのだろうか? と興味が湧いて、調べてみた。
その結果、推論としては、三河国の小藩でゴタゴタ続きだった、「挙母(ころも)藩内藤家」ではなかったか? に行き着いた。
それが証拠に、江戸家老の名前も、山崎努さん扮する内藤兼友。
*
■ 挙母藩
藩主が内藤家の時代は、江戸幕末期1749年~明治初期1871年。
領地は、三河国加茂郡(現・豊田市)を中心として、
三河国設楽郡、遠江国榛原郡・周智郡、美作国久米北条郡のそれぞれ一部が含まれる。
藩主が内藤家の時代は、江戸幕末期1749年~明治初期1871年。
領地は、三河国加茂郡(現・豊田市)を中心として、
三河国設楽郡、遠江国榛原郡・周智郡、美作国久米北条郡のそれぞれ一部が含まれる。
1749年、上野国安中藩より領地替え。以後、明治維新までの約120年間に亘り、挙母1万石 + 遠江国・美作国1万石 = 2万石の大名。城郭は挙母城⇒1785年に七州城へ移転。
(挙母藩七州城---出典「日本名城事典」)
幕末期の挙母藩内藤家は、譜代大名ながら、洪水・飢饉・地震に見舞われ、かつ世継ぎ騒動・政争に塗れた問題多き小藩だった。
歴代の藩主は、相次ぎ近江彦根藩井伊家からの養子縁組となって、さながら従藩となっていた。
1836年(天保7年)、飢饉に苦しむ農民の「加茂一揆」が発生。1万人以上の大農民一揆に発展した。
(挙母藩七州城---出典「日本名城事典」)
幕末期の挙母藩内藤家は、譜代大名ながら、洪水・飢饉・地震に見舞われ、かつ世継ぎ騒動・政争に塗れた問題多き小藩だった。
歴代の藩主は、相次ぎ近江彦根藩井伊家からの養子縁組となって、さながら従藩となっていた。
1836年(天保7年)、飢饉に苦しむ農民の「加茂一揆」が発生。1万人以上の大農民一揆に発展した。
第5代藩主・内藤政優(まさひろ)は、鉄砲隊を組織し矢作川堤防で農民を撃退、一揆を鎮圧した。
この東海地方有数の一揆が翌1837年(天保8年)の「大塩平八郎の乱」にも影響を与えた。
この東海地方有数の一揆が翌1837年(天保8年)の「大塩平八郎の乱」にも影響を与えた。
1851年(嘉永4年)、近江彦根藩井伊家から養子となった(井伊直弼の兄に当たる)藩主・政優が死去。
世継ぎが無く、再び井伊家の政文が養子となり第6代藩主となる。
1854年(安政元年)、「挙母地震」が起こる。
1854年(安政元年)、「挙母地震」が起こる。
1858年(安政5年)、政文が死去。その嫡男・文成が僅か4歳で第7代藩主となる。
1859年(安政6年)、英国式銃陣法が採りいれられ習練が行われる。
1867年(慶応3年)、藩内にも、「ええじゃないか運動」が起きる。
1859年(安政6年)、英国式銃陣法が採りいれられ習練が行われる。
1867年(慶応3年)、藩内にも、「ええじゃないか運動」が起きる。
1868年(慶応4年)、新政府軍に対して恭順を示す。駿府城警衛のため小隊を派遣する。京都御所へ参内し勤王の意を表する。
1869年(明治2年)、藩主・内藤文成が挙母藩知事就任。
1870~71年(明治3~4年)、「廃藩置県」により挙母藩廃止⇒挙母県⇒額田県。文成が子爵。
1872年(明治5年)、愛知県に編入。
◇
一方、「御家人斬九郎」に登場した松重豊さん扮する、
近江彦根藩主・井伊直弼の腹心で挙母藩内藤家を翻弄(ほんろう)した長野主膳は、歴史上の実在人物である。
彼は史実も、幕府大老職という最高位に上り詰めた井伊直弼のブレーンとなった国学者だが、
寧ろ直弼を操り、ロシア・ロマノフ王朝のラスプーチンのような策謀家だったと悪名高い。
1869年(明治2年)、藩主・内藤文成が挙母藩知事就任。
1870~71年(明治3~4年)、「廃藩置県」により挙母藩廃止⇒挙母県⇒額田県。文成が子爵。
1872年(明治5年)、愛知県に編入。
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一方、「御家人斬九郎」に登場した松重豊さん扮する、
近江彦根藩主・井伊直弼の腹心で挙母藩内藤家を翻弄(ほんろう)した長野主膳は、歴史上の実在人物である。
彼は史実も、幕府大老職という最高位に上り詰めた井伊直弼のブレーンとなった国学者だが、
寧ろ直弼を操り、ロシア・ロマノフ王朝のラスプーチンのような策謀家だったと悪名高い。
■ 長野主膳
1815年(文化12年)~1862年(文久2年)、享年48。
1815年(文化12年)~1862年(文久2年)、享年48。
伊勢国飯高郡滝村の生まれ。
1841年(天保12年)、紀州新宮の領主・滝野次郎左衛門の妹で6歳年上の瀧女(滝、多紀とも)と恋愛結婚。
その後、ハネムーンのように京都・近江・美濃・伊勢・尾張・三河など各地を遊歴し、国史や和歌などを教授した。
その行程の中で、1842年(天保13年)に彦根の井伊直弼を訪ね、直弼の方が主膳に傾倒し弟子となったと言う。
1841年(天保12年)、紀州新宮の領主・滝野次郎左衛門の妹で6歳年上の瀧女(滝、多紀とも)と恋愛結婚。
その後、ハネムーンのように京都・近江・美濃・伊勢・尾張・三河など各地を遊歴し、国史や和歌などを教授した。
その行程の中で、1842年(天保13年)に彦根の井伊直弼を訪ね、直弼の方が主膳に傾倒し弟子となったと言う。
この後は、井伊家と懇意な京都御所の関白九条家とのパイプを作り、妻・瀧女は今城家に仕えることによって、夫婦ともに孝明天皇にまで接近するに至った。
1850年(嘉永3年)、直弼が、兄・直亮の死を受け第15代彦根藩主となる。
主膳は、直弼に招聘され藩校・弘道館国学方(開国論)に取り立てられたばかりか、藩政改革に協力できる程に信任は厚くなった。
1858年(安政5年)、一橋派と南紀派による将軍後継争いが起こると、
直弼の命で主膳は、京都に赴いて公家への裏工作を行い、
遂に南紀派推薦の徳川慶福擁立⇒第14代将軍・徳川家茂の天皇宣下(就任)に貢献した。
その功績によって直弼は、幕府大老に栄進したのであった。
更に、直弼による「安政の大獄」では、朝廷内部の密偵に当たっていた主膳が、水戸藩の謀略をキャッチしたと、一橋派や尊王攘夷派の処罰を進言した。
「安政の大獄」のみならず、その前後の天皇勅許無しの開国条約、和宮降嫁運動など直弼の急進的政策は悉(ことごと)く参謀・主膳の進言によるものだとされる。
(長野主膳像---出典「歴史倶楽部」)
主膳は、直弼に招聘され藩校・弘道館国学方(開国論)に取り立てられたばかりか、藩政改革に協力できる程に信任は厚くなった。
1858年(安政5年)、一橋派と南紀派による将軍後継争いが起こると、
直弼の命で主膳は、京都に赴いて公家への裏工作を行い、
遂に南紀派推薦の徳川慶福擁立⇒第14代将軍・徳川家茂の天皇宣下(就任)に貢献した。
その功績によって直弼は、幕府大老に栄進したのであった。
更に、直弼による「安政の大獄」では、朝廷内部の密偵に当たっていた主膳が、水戸藩の謀略をキャッチしたと、一橋派や尊王攘夷派の処罰を進言した。
「安政の大獄」のみならず、その前後の天皇勅許無しの開国条約、和宮降嫁運動など直弼の急進的政策は悉(ことごと)く参謀・主膳の進言によるものだとされる。
(長野主膳像---出典「歴史倶楽部」)
1860年(安政7年)、直弼が「桜田門外の変」で暗殺された。
直弼の跡を継いだ第16代藩主・直憲に疎まれ、国家老・岡本半介(尊王攘夷派)に嫉まれる。
1862年(文久2年)、越前藩主⇒政事総裁職の松平春嶽らによる「文久の改革」で井伊家が問罪される。
主膳は、直憲と半介によって斬首の刑に処された。
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直弼の跡を継いだ第16代藩主・直憲に疎まれ、国家老・岡本半介(尊王攘夷派)に嫉まれる。
1862年(文久2年)、越前藩主⇒政事総裁職の松平春嶽らによる「文久の改革」で井伊家が問罪される。
主膳は、直憲と半介によって斬首の刑に処された。
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