今週は、母(享年57)の39回目の命日。

我が家の墓が在る、浄土真宗東本願寺派 「本山東本願寺」 (台東区西浅草1-5-5)。

当寺院には、我々が埼玉から浅草に移って来た、2007年春からお世話になっている。


それまでは、金沢の真宗大谷派の寺院に祖父母・父母が眠っていた。

長男として守り、将来、息子に守って欲しいと願う。

金沢からの移転は、惜別の念に駆られたが、誰も住まなくなった実家の処分に併せて決心した。

真宗大谷派が圧倒する地から浄土真宗東本願寺派への移転だったが、偶々、当時の門徒代表が知人だったこともあって、比較的、円滑に了承頂くことができた。

只、姉弟が在沢であり、故人たちの多くの当地親戚の方々のことを慮(おもんばか)ったつもりで、真宗大谷派の「金沢別院」に分骨することを話し合って決めた。


顧みれば、大谷派(東) ⇒ 大谷派(東) + 東本願寺派(東) の移動図。

ご先祖様も、その間、落ち着かなかったとは思う。

しかも、遺骨は、我々夫婦によってレンタカーで、北陸高速 ⇒ 上信越高速 ⇒ 中央高速 ⇒ 首都高速 のジャスト500kmを揺られたのである。


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在住8年の間にもアレコレ調べては来たのだが、この機会に、「本山東本願寺」の在る「西浅草」について調べを進めた。


何時の日か、都立「江戸東京博物館」 (墨田区横網1-4-1)を訪れた折りに購入した、

「嘉永・慶応 江戸切絵図」ライブラリー(人文社1995年)には、「今戸蓑輪浅草繪圖 [1853年(嘉永6年)]が収録されていて、次のように描かれている。


【江戸幕末期の「東本願寺」】

(別称「浅草本願寺」・「浅草門跡」)
武蔵國豊島郡峡田領(はけたりょう、崖にある田圃、寛永寺領)の新寺町。

当時の子院(末寺)・・・萬證寺・善正寺、徳本寺・澄教寺、願龍寺・西光寺・本光寺・通覚寺、 宗恩寺、崇福寺・大松寺・清光寺、光円寺・末應寺・雲行寺・善龍寺・法蝿寺、円照寺・専称寺・五泉寺・證願寺・教覚寺の22寺院。



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【西浅草の歴史】


1657年(明暦3年)、明暦の大火(振袖火事)により焼失し、武蔵國豊島郡柴崎村の神田明神下から「東本願寺」は、
1679年(延宝7年)、同じ豊島郡峡田領(の浅草の地に移転して来た。
・・・次第に門前町が開け新しい寺町として発展し、「浅草本願寺」・「浅草門跡」・「東門跡」と称されるようになった。東本願寺の前を「門跡前」と言い、前の大通りを「新寺町通り」(現・浅草通り)と言った。入谷田圃の水を集めて流れる「新堀川」(現・合羽橋道具街)とその橋「菊屋橋」。

~1853年(嘉永6年)、一帯は武蔵國豊島郡峡田領の「新寺町」。「大松寺門前」・「清光寺門前」など。

1869年(明治2年)、浅草松清町の誕生。
・・・曹洞宗「大松寺門前」(後に北区西が丘に移転)と浄土宗「清光寺門前」を合併、「松」と「清」を採って「浅草松清町」が誕生した。


1878年(明治11年)、東京府東京市浅草区を設置。

・・・「浅草松清町」「浅草田島町」「浅草柴崎町」(現・西浅草)、「浅草新谷町」(現・西浅草 + 現・千束)。

浅草田島町・・・明暦の大火後に移転して来た浄土宗田島山誓願寺(その後、府中市に移転)の門前町。田島の山号を地名に頂いた。新寺町の北側に在ったので北寺町とも言われた。
浅草芝崎町・・・同様に移転して来た時宗日輪寺・浄土宗天嶽院・天台宗東光院など。これまでの神田明神下・柴崎という地名を引き継いだ。


1947年(昭和22年)、浅草区と下谷区を合併、東京都台東区の誕生。
・・・由来は、「台東」という熟語には「日出る処。衆人が集まって栄える処」という意味があり、「台」には「悦」=上野山=下谷区 +  「東」には「春」=浅草区の意味が込まれている。

1965年(昭和40年)、西浅草一丁目・二丁目・三丁目へと住居表示が変わり現在に至る。


現在の西浅草は、東側に国際通り、西側に合羽橋道具街の新堀通り。浅草広小路は、吾妻橋から真っ直ぐ西に雷門前を通って国際通りまでで、今は雷門通りと呼んでいる。
雷門通りの西端・田原町交番~ファミリーマートのゾーンには、1932年(昭和7年)、森下仁丹が東京進出時に浅草凌雲閣を模した高さ45mの広告塔を建て、以後この「森下仁丹塔」は浅草寺・花やしきなどと共に浅草のシンボルとして控えていたが、老朽化のため1986年(昭和61年)、取り壊されてしまった。


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【本山東本願寺の歴史】


1591年(天正19年)or1603年(慶長8年)、12世教如上人は、徳川家康より土地を拝領して江戸・湯島(神田淡路町の西福寺前)に、江戸における京都本願寺の礎となる録所(教務所・出張所)・・・を開く。

1602年(慶長7年)、京都本願寺の分裂。
・・・烏丸の本願寺(真宗本廟)を「東本願寺」、堀川の本願寺を「西本願寺」と呼ぶようになった。

1609年(慶長14年)、慶長の大地震・津波。光端寺が神田筋違橋外(通称・神田明神下)に移転する。

1617年(元和3年)、江戸においても東西の分裂。

1621年(元和7年)、西本願寺が「江戸浅草御堂」(後の築地本願寺)を建立。
・・・真宗教団の強大さを恐れた家康が分裂を画策したと言われる。

1651年(慶安4年)、教如上人は、東本願寺の拠点となる「江戸御坊光瑞寺」を建立する。

1657年(明暦3年)、明暦の大火(振袖火事)により焼失。

その後、幕府から「築地か浅草か好きな方を選べ」と下達。

1679年(延宝7年)、江戸の東本願寺は「浅草本願寺」、西本願寺は「築地本願寺」にそれぞれ再配置される。

葛飾北斎・作: 冨嶽三十六景4.《東都浅草本願寺》1830~32年(天保元~3年)頃
・・・裏門(東側)より展望。


1868年(慶応4年)、神仏習合を廃して「神仏分離令」を発し、結果として「廃仏毀釈」運動が勃発する。

1871年(明治4年)、「寺社領上知令」により境内を除き寺や神社の領地を国が接収される。

1876年(明治9年)、「廃仏毀釈」は、仏教界、特に浄土真宗からの猛然たる反対運動の声が上がる。
・・・明治政府はその顛末(てんまつ)をウヤムヤにして行く。

1889年(明治22年)、大日本帝国憲法が発布され「信教の自由」が明文化される。
・・・だが、政府は、神道は一宗教ではなく国家の祭祀であり臣民に義務があるとして優遇する。

1923年(大正12年)、関東大震災が勃発。大規模火災で「東本願寺」も焼失する。

1934~36年(昭和9~11年)、本堂再建が始まる。
・・・コンクリート杭を480本打ち込むなど、強固・堅牢な基礎が造成され上棟式が行われる。

1945年(昭和20年)、東京大空襲により被災し本堂内部は全焼したが、外郭は鉄筋コンクリートのため残る。

1965年(昭和40年)、浅草本願寺の名称を「東京本願寺」に変更する認証が下り、1966年(昭和41年)、大谷光暢法主の長男・大谷光紹師が住職に就任する。
1970年(昭和45年)、「教団連合」の憲章が発効する。

1981年(昭和56年)、真宗大谷派が宗教法人へ移行、大谷派との包括関係が廃止される。
1988年(昭和63年)、東京本願寺は「東本願寺派」を結成する。
2001年(平成13年)、東京本願寺を「東本願寺派本山東本願寺」に改称し現在に至る。

表門の南西側より展望。


現在、「本山東本願寺」を中心として、西浅草1丁目の旧・東本願寺敷地には、次の寺院が配置されている。

浄土真宗東本願寺派 善龍寺 西浅草1-9-2
真宗大谷派 円照寺 西浅草1-9-3
真宗大谷派 敬覚寺 西浅草1-8-2
真宗大谷派 専勝寺 西浅草1-8-4
浄土真宗東本願寺派 緑泉寺 西浅草1-8-5
真宗大谷派 光円寺 西浅草1-7-11
真宗大谷派 運行寺 西浅草1-7-12
浄土宗 清光寺 西浅草1-7-19
・・・浄土宗の芝・増上寺の末寺で、1665年(寛文5年)に水戸光圀が駿河国から当地に移した。
真宗大谷派 等光寺 西浅草1-6-1
真宗大谷派 西光寺 西浅草1-6-2
真宗大谷派 通覚寺 西浅草1-6-6
真宗大谷派 宗恩寺 西浅草1-6-7
真宗大谷派 来応寺 西浅草1-6-12
浄土真宗東本願寺派 真福寺 西浅草1-6-13
浄土真宗東本願寺派 本山東本願寺 西浅草1-5-5
浄土真宗東本願寺派 善照寺 西浅草1-4-15
浄土真宗東本願寺派 満照寺 西浅草1-4-16
真宗大谷派 長敬寺 西浅草1-2-7
真宗大谷派 願龍寺 西浅草1-2-16