「謎解き! 江戸のススメ」 #145 「長谷川平蔵の真実~鬼平の素顔」

BS-TBS 1/26(月)22:00~22:54放送


【スタッフ】
 

監修: 竹内誠(東京学芸大学名誉教授)


構成: 鈴木留美
演出: 飯島秀治、AD: 山村彩美
総合P: 佐藤由香、P/総合D: 木村吉孝、AP: 原田莉帆
製作著作: BS-TBS、nexus


案内人: 片岡鶴太郎(マルチタレント・画家)、草野満代(フリーアナ)、堀口茉純(ますみ、タレント)
ナレーション: 鈴木順





【あらすじ】


小説やドラマでお馴染みの池波正太郎によって描かれた
「鬼平犯科帳」の主人公、"鬼平"こと長谷川平蔵。


★ 私の関連ブログ  火盗改メ 『長谷川平蔵』のこと(2008/03/20)

①火付盗賊改
②"本所の銕(てつ)"
③食通
④情け深い
⑤裏社会に精通



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「火付盗賊改」という幕府の武装した部隊を率いて、悪党どもを一網打尽にした"江戸のヒーロー"。
特別警察のような要職を務めていた実在の人物。
解決した犯罪は8年間で200件以上。
極悪非道な大盗賊たちを捕える意外な方法があった!?


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長谷川平蔵。1746年(延享3年)、江戸で生まれる。幼名: 銕三郎(てつさぶろう)、本名: 宣以(のぶため)。

長谷川家は家禄400石(年収4,000万円)の旗本。三河時代から家康に仕えた格式ある家柄。
父・宣雄(のぶお、通称: 平蔵)は、京都町奉行まで出世した優秀な官僚。1773年(安永2年)、在職中に55歳で死去。

■ "本所の銕(てつ)"。

宣以は、本所辺りで無頼の生活、地元の悪党どもを縮み上がらせ、幼名から"本所の銕"と呼ばれていた。
実際は、遊里や賭場に通い父が貯えた金を散財し、放蕩(ほうとう)の限りを尽くして来た。
しかし、裏社会に接した経験が後の活躍に繋がっている。

28歳で家督相続、小普請組(こぶしんぐみ、無役の旗本)に配属。
1774年(安永3年、29歳)、書院番(将軍の近衛兵集団の一つというエリート職)に配属。心を入れ替えたか政務に励んだ。
1775年(安永4年、30歳)、進物番(将軍への献上品などの運搬職)。
1784年(天明4年、39歳)、御徒頭(おかちがしら、将軍が外出する際に先駆けを務めるリーダー職)。
1786年(天明6年、41歳)、御先手弓頭 [おさってゆみがしら、戦の先鋒を務める弓・鉄砲隊約30人の指揮官で武官の最高位。1,500石(1億5,000万円)]。


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着実な出世街道を歩む。当時は「天明の大飢饉」(1782~88年)で深刻な米不足に陥っていた江戸では、
1787年(天明7年)、「天明の打ちこわし」が頻発していた。平蔵は暴徒たちを見事に鎮圧し、手柄を鼻に掛ける自信家!? だったため、幕閣からは煙たがられた。意外だ。
しかし庶民からは江戸の治安を守ってくれ頼りになる人物として信頼を得るようになる。

老中・松平定信は、そんな平蔵人気を利用し、改革に対する庶民の支持を得ようとした。幕閣の反対を押し切って、
1787年(天明7年、42歳)9月~翌年4月、平蔵を火付盗賊改定員2名(通年職1、冬季臨時職1)。その臨時職に抜擢した。

■ 「火付盗賊改」という役職。

御先手弓頭が兼任する加役の一つ。江戸の放火犯や凶悪な盗賊を取り締まる。
できた切っ掛けは、1657年(明暦3年)1月に起こった「明暦の大火」。
火災後、江戸の町に盗賊団が入り込んで治安が悪化したため、1665年(寛文5年) に「盗賊改」という名で設置されたのが始まり。
1718年(享保3年) に「火付改」と統合されて「火付盗賊改」が誕生。当時の定員は1名で、「御先手頭」を勤める者の中からの兼任。


1788年(天明8年)10月、通年職に就任。「火付盗賊改」が「御先手頭」の兼任から独立したのは、長谷川平蔵が亡くなって60年以上過ぎた1862年(文久2年)のこと。
町奉行は非武装の文官に対し、手に負えない凶悪犯罪を扱う武装した軍隊。与力10騎・同心30人の部下。
自宅が役場の"役宅"、自ら裁判⇒老中決裁⇒自ら判決。

①管轄
・・・特定されず広範囲に自由裁量。町奉行(江戸町人地域)・寺社奉行(寺社地域)・代官(江戸近郊地域)と競合しないよう、現行犯逮捕に限った。
②その筋(老中・側用人などの幕閣)からのお達しによる特命事案。
③激務
・・・「火付盗賊改」の仕事は大変な激務で、正月や五節句を除いて殆ど年中無休。明六つ (午前6時) 頃には起床し、役宅にて調書に目を通すなどの執務、朝四つ (午前10時) 頃には江戸城に出向いて城内執務、昼八つ (午後2時) 頃、役宅へ戻って夜10時頃まで執務。
それに加えて火事が発生すれば、昼夜を問わず放火犯探索のために出勤し、盗賊逮捕を行っていた。

④給与・・・御先手頭1,500石(1.5億円) + 火付盗賊改100人扶持(ぶち、0.2億円)=1.7億円。1773年0.4億⇒15年間⇒1788年1.7億のかなりの出世。


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(「鬼平犯科帳~山吹屋お勝」より)
 

■ 大捕り物の実績200件・・・「御仕置例類集」(国立国会図書館・蔵)。

中でも、
1789年(寛政元年)3月、関東~東北の広域で凶悪な強盗・殺人を繰り返した、真刀(しんとう)徳次郎一味(手下800人?)を一網打尽に獄門。
1791年(寛政3年)、江戸の大店~武家屋敷に押し込み強盗・強姦・殺人を繰り返した、大松五郎を異例のスピード判決で獄門(恥辱の女性、汚名の武士に配慮)。

■ なぜ難事件を次々と解決できたか?


(「鬼平犯科帳」より、長谷川平蔵の密偵たち)
 

◎情報武装。裏社会とのパイプ。平蔵曰く「この仕事は生まれつき得意だ」=天性。


・巡察の際は着流し、施しなど演出がうまかった?
・家紋入りの提灯を予め配しておいて、有事の際は逸早く平蔵がやって来たと思わせ、火事場泥棒を未然防止した。
・岡っ引き(ヤクザ・前科者)の使い方が上手。
・芋づる式。拷問はしない代わりに犯罪者心理を動かして(仲間意識を引き出して)白状させる。
・町方は自身番に犯人を勾留する費用も自己負担であるため、平蔵が役宅に移送させるとともに茶・煙草で労った。
・「賞罰正しく慈悲心深く頓智の捌(さば)き多し」の評判・・・凶悪犯には容赦なく改心余地ありには軽減する、貧しいならば勾留の日銭、供養塔の数々。罪人にまで人気。

(「鬼平犯科帳~兇賊」より)
 

⇒"江戸のヒーロー"となって行った。


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■ 食通

グルメの池波正太郎が描いた、ほんの一例
・目黒の筍
・素麺
・「五鉄」の軍鶏のモツ鍋
・天麩羅蕎麦
・鯛の肝の煮付け


・長谷川家の朝食の定番は、葱(ネギ)と煎(い)り玉子入りの白粥(おかゆ・しらかゆ)。
・一本うどん・・・深川・海福寺門前の茶店「豊島屋」の名物に代表されるように、
天明当時の江戸には、外食産業が物凄く流行った、一方で、「豆腐百珍」などの料理レシピ本が登場した。



実際は、記録は殆ど無い。作家が描き上げた理想像。



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■ 平蔵最大の功績は、「人足寄場」の設立。

「天明の大飢饉」による無宿人⇒盗みなどの悪事⇒治安は悪化の一途。
松平定信が幕閣に妙案がないか?とご下問したところ、唯一平蔵が提案した。

無宿人を更生させた驚くべき秘策とは?
人足として働かせる評定所「人足寄場」(職業訓練所)を江戸市中に建設する。人足たちの出所後は、基本的には出身地へ帰ることを奨励されており、帰れない場合は他の大名領へ移住ということも適用されていた。また江戸の住まいを希望する人には、住居と職も与えられ、社会復帰対策がされていた。


 

1790年(寛政2年)佃の離れ小島・石川島16,000坪に建設し運用開始。
1792年(寛政4年) 、定信は平蔵を「人足寄場取扱」を兼務させる。
社会復帰への画期的な方策
・手に職・・・大工・なわ細工・紙すき・裁縫・・。
・ランク付け・・・上達に応じてハッピの水玉模様が減って、無地になると出所。
・利益の2/3は都度支給、1/3は出所時に支給。
・心の教育・・・心学(実践道徳学)者・中沢道二を招いて、辛抱・努力などの罪を繰り返さない道徳心を教える。
 
 


とはいえ倹約令下の定信は少額予算に止まったため、平蔵は荒技に出て自らの公金(3,000両)で相場を張り500両利益=初年度予算を捻出した。
1792年(寛政4年)、任を終えると、町奉行の管轄となり、軽犯罪者も収容するようになった。
尚、人足寄場は1870年(明治3年) まで運営され、平蔵が目指した社会復帰を目的とする精神は、⇒石川島監獄署⇒巣鴨監獄⇒府中刑務所と受け継がれて行った。


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「今では、長谷川が町奉行のようで、町奉行は大凹みだ」。
功績と人気はあるものの、旗本のトップ・町奉行に成れなかった。
その理由は、「町奉行は、目付(旗本の行動調査・報告)や遠国(おんごく)奉行職を勤めていない者には命じられない」というが、全くの言い訳。出る杭は打たれる。

ついつい泣き言を言っていたという平蔵。「俺も力が抜け果てた。これではもう酒ばかりを呑んで死ぬだろう」と。ワカルワカル。

なぜ出世の夢が実現できなかったのか?
定信は名門・田安家の御曹司⇒白河藩へ養子。本来なら第11代将軍候補だと公言していた自信家。
認めてはいても、自分の中に在る賤しい面が合わせ鏡のように自己嫌悪に陥ったか。
もし定信ではなく前任の田沼意次が続いていたとしたら、長谷川を登用してしまうタイプ。
以上、竹内先生の見方。


★ 裏社会と通じ過ぎているとして、上層部が強く警戒したのではないか。