「歴史秘話ヒストリア」

「友がいれば、越えていける!~伊藤博文と井上馨の大冒険~」



NHK-G  1/7(水) 22:00~22:45


【キャスター】渡邊あゆみ
【主な出演】大久保ともゆき、吉村秀人



幕末・長州藩の明治の世を切り開いた名(迷?)コンビ、
初代内閣総理大臣・伊藤博文と初代外務大臣・井上馨(かおる)。
 
大河ドラマ『花燃ゆ』の舞台、幕末の長州に生まれた2人の青春時代は波乱万丈。

伊藤と井上は後に終生の友となるが、実は身分も性格もまるで正反対だった。
身分の低い農民出身だがしっかり者の伊藤。
毛利家に戦国期から仕え藩主の小姓(秘書・警護)を務めるエリート武士の家柄だが、突飛な行動で周囲を振り回す変わり者の井上。


伊藤17歳の時、松下村塾に入る。身分にとらわれず議論を闘わせる先進的な教育方針をとっていた。
人懐(なつ)っこく気が利く伊藤は、高杉晋作らに可愛がられ、一目おかれるようになるとともに、
外国船を打ち祓えという攘夷思想を志すようになった。
1859年、伊藤は江戸に向かい、江戸で攘夷を実行しようとする長州藩の若者たちの溜まり場である品川宿・土蔵相模で、6歳年上でリーダー的存在だった井上聞多(後に馨)と知り合う。
井上は、やりたいことは即実行タイプ。


▽伊藤博文と井上馨のビックリ大冒険


そんな2人を結び付けたのは、品川に建設中のイギリス公使館焼き打ちというトンデモナイ事件だった。
自分が隠していた分の火薬を忘れるという大失態の井上に対し、
柵があることを見越して事前に鋸(のこぎり)を用意していた伊藤。


幕府から追われる身となると井上は突拍子もなく、
イギリスに行き海軍力と貿易力を学び外国を追い払うことができると言い出し、
即、横浜のイギリス商人に密航仲介を頼みに行く。
渡航費一人千両(現5千万円)と巨額。
藩のイギリスから軍艦を買う役目を持っていた伊藤を渡航を誘うと、伊藤は御用金1万両(現5億円)を流用することを思い付く。
事後に、伊藤は藩の上層部に宛てた手紙で、"生きた器械"に投資したとの御理解を乞うた。

▽トイレで育んだ友情!? 


1863年5月、2人は、3人の仲間(遠藤謹助・井上勝・山尾庸三)とともに(後に"長州ファイブ"と呼ばれた)、前代未聞の密航を実行。生涯の友情を育む旅となった。
横浜⇒アジアの玄関口・上海港で、外国の軍艦・武装化した商船群を目の当たりにし、脅威を実感する。
ペガサス(天馬)号で渡航目的を問われ、Navy(海軍)をNavigation(航海術)と間違えて答えたため、
帆を張ったりデッキを掃除したりの水夫の下働きは過酷を極め、マラッカ海峡~インド洋上で伊藤が体調を崩す(重度の下痢症)。甲板から荒れた海に頻繁に用便する時は、井上が危険から守り続けた友情。


1863年9月、辿り着いたロンドンは、日本とは余りに次元の違う近代都市だった。
想像を絶する異次元の西洋文明--高層建築、蒸気機関車・地下鉄網、工場群。
"攘夷"なぞ到底不可能と悟る。
英語・大学(海軍よりも分析化学・土木工学・地質鉱物学・数理物理学などに魅了された)。
 
  
半年後、イギリスで充実した生活を送る5人の元に、下関で砲撃されたイギリスなど欧米4カ国が長州藩へ報復攻撃の最終協議に入ったとの英字新聞。
後の3人に託し、伊藤と井上は、藩を救うため急遽帰国・潜入、1864年6月。
十朋亭(じっぽうてい)に滞在し藩に開国論を進言。


▽ 長州を救え! 2人だけの闘い


イギリス公使館に駆け込み、藩を説得するので攻撃を待ってほしい直談判。ところが藩は攻撃一色と知るオールコック公使は首を刎(は)ねられると見ていた。
売国奴と罵られ四面楚歌の2人。
1864年8月、英仏蘭米4カ国連合艦隊に下関が攻撃され1時間で敗北、大きな代償。
更に勝手な長州藩を幕府軍が討伐に向かう。
藩の守旧派が急進派を次々と粛清、井上は瀕死の重傷、井上に言われ生き残るため伊藤は身を隠す。
松下村塾(萩)の高杉晋作らが功山寺に決起、伊藤は金策に奔走。1865年、守旧派(下関)との決戦に勝利。
長州藩は倒幕へと突き進む。


初代内閣総理大臣・伊藤博文・・・大日本帝国憲法、
初代外務大臣・井上馨・・・鹿鳴館・幕末の不平等条約改正、
造幤の父・遠藤謹助、鉄道の父・井上勝、工学の父・山尾庸三。


1909年10月、伊藤が満州で暗殺される。

井上が国葬で弔辞を読む。
「君と出会ってから五十年、体は違えど心は常に一緒だった。君との友情を私は永遠に誇りに思う。」

前出の十朋亭に、井上が寄せた文。
「伊藤と二人イギリスから帰り、開国の進言をした。今思えば、なんとおもしろかったことだろうか。」



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【参考 伊藤博文暗殺の経緯】 Wikipediaより抜粋しました。


1905年11月、第二次日韓協約により韓国統監府が設置されると伊藤博文が初代統監に就任し、日本は実質的な朝鮮統治権を掌握した。
伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎ら陸軍軍閥としばしば対立した。
しかし統監として日本の政策への韓国国民の恨みを買うことになり、朝鮮人・安重根による暗殺に繋がった。


近年、発見された当時の伊藤メモには「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、伊藤は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを持っていたことを裏付ける。


1909年10月、ロシア蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、韓国の民族運動家・安重根によって射殺された。
この時伊藤は、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたと言われる。


暗殺に関しては、安重根単独説の他にも、暗殺時に伊藤の着用していたコートに残る弾痕から発砲位置を算出した結果、併合強硬派による謀殺説もある。
伊藤に随行した室田義文首席随行員がおよそ30年後に話した舞台の真相によると、彼の肉に埋まっていた弾丸が安重根のブローニング7連発拳銃用のものではなくフランス騎馬隊カービン銃用であり、また弾丸があけた穴の向きが下向きであることがおかしく、安重根からならば上向きになるはずであり、彼への命中弾は駅の上の食堂あたりからではなかろうか、ということであった。


享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。
埋葬は東京都品川区西大井六丁目の伊藤家墓所。
霊廟として、山口県熊毛郡大和町束荷(現光市束荷)の伊藤公記念公園内に伊藤神社があったが、1959年に近隣の束荷神社境内に遷座した。記念公園には生家(復元)や銅像、伊藤公記念館、伊藤公資料館などがあり、桜に混じって韓国国花ムクゲが植えられている。