「英雄たちの選択 

~尼将軍北条政子の決断 時代を動かした名演説」



NHK-BSプレミアム 再放送12/5(金)20:00~21:00, 本放送6/19(木)20:00~21:00

【司会】磯田道史(歴史学者・静岡文化芸術大学文化政策学部教授)、渡邊佐和子(NHKアナ)

【出演】竹宮惠子(漫画家)、深澤真紀(コラムニスト、タクト・プランニング代表)、中野信子(脳科学者・認知科学者)、島田久仁彦(紛争調停官・交渉プロフェッショナル・国際ビジネス戦略アドバイザー)。

【語り】松重豊(俳優)




*


★ 北条政子

保元2年~嘉禄元年(1157~1225年)。伊豆国の豪族・在庁官人、北条時政の長女。


源頼朝は、河内源氏の源義朝の三男として生まれ。
父・源義朝が平治の乱(1160年)で敗れ伊豆の流人となっていた。


平氏の流れをくむ時政は源頼朝の監視役であったが、大番役のため在京中の間に、
娘・政子は頼朝と恋仲になってしまう。


治承元年(1177年)、頼朝と政子の関係を知った時政は平氏一門への聞こえを恐れ、政子を伊豆の国の目代・山木兼隆と結婚させようとした。山木兼隆もまた元は流人だったが、平氏の一族であり、平氏政権の成立とともに目代となり伊豆での平氏の代官となっていた。


屋敷を抜け出した政子は山を越え頼朝の元へ走った。その過酷な山越えの道のり…標高差700m、距離20km。雨の夜、その山道を一気に駆け抜けた。二人は韮山(現・伊豆の国市)~熱海の伊豆山権現(伊豆山神社)に匿われた。政子が21歳のとき。伊豆山は僧兵の力が強く目代の山木も手を出せなかった。


政子は、自ら源氏の御曹司の胸に飛び込むことによって、国政の檜舞台に上ることになった。
しかし、その勇気ある選択と行動こそ、その後の苦渋に満ち満ちた彼女の人生へと突き進ませることになった。


*


頼朝は北条時政・義時とともに安房の国に逃れて再び挙兵、東国の武士たちは続々と頼朝の元に参じ、数万騎の大軍に膨れ上がり、源氏ゆかりの地である鎌倉に入り居を定めた。


頼朝は富士川の戦いで勝利、関東を制圧した。弟たちを代官として源義仲や平氏を倒し、戦功のあった末弟・源義経を追放の後、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦で奥州藤原氏を滅ぼして全国を平定した。
東国の主となり鎌倉殿と呼ばれ、政子は御台所と呼ばれるようになった。
1192年、征夷大将軍に任じられ鎌倉幕府を開いた源頼朝。
子は頼家・実朝・大姫・三幡。

1195年、政子は頼朝と共に上洛し、大姫の後鳥羽天皇への入内を協議した矢先に大姫は重い病の床に就き、1197年、20歳の若さで死去した。
それではと、頼朝は次女の三幡を入内させようと図るが、朝廷の実力者である土御門通親に阻まれる。親鎌倉派の関白・九条兼実が失脚し、朝廷政治での頼朝の形勢が悪化し三幡の入内も困難な情勢になったために、
頼朝は再度の上洛を計画するが、1199年に落馬が元で急死した。


*


長子の頼家が家督を継ぎ、政子は出家して尼御台と呼ばれる。次女の三幡が重病に陥った。三幡は僅か14歳で死去した。


若い頼家による独裁に御家人たちの反発が起き、1200年に頼家の専制を抑制すべく大江広元・梶原景時・比企能員・北条時政・北条義時ら重臣十三人による合議制が定められた。
頼家が安達景盛の愛妾を奪う不祥事が起きた。景盛が怨んでいると知らされた頼家は兵を発して討とうとする。政子は調停のため景盛の邸に入り、頼家を強く諌めた。


頼家と老臣との対立は続き、頼家が重用していた梶原景時が失脚した(梶原景時の変)。頼家は遊興にふけり、ことに蹴鞠を好んだ。訴訟での失政が続き、御家人の不満が高まっていた。
更に頼家は乳母の夫の比企能員を重用し、比企氏の台頭は北条氏にとって脅威であった。

1203年、頼家が病の床につき危篤に陥った。政子と時政は一幡と実朝で日本を分割することを決める。これを不満に思う能員は病床の頼家に北条氏の専断を訴えた。頼家もこれを知って怒り、北条氏討伐を命じた。


政子と時政は能員を謀殺。政子の名で兵を起こして比企氏を滅ぼしてしまった。一幡も比企氏とともに死んだ(比企能員の変)。
頼家は危篤から回復し、比企氏の滅亡と一幡の死を知って激怒し、時政討伐を命じるが、頼家は政子の命で出家させられて将軍職を奪われ、伊豆の修善寺に幽閉され暗殺されている。



代って将軍宣下を受けたのは実朝で、父の時政が初代執権に就任、政権を独占しようと図る。
時政の邸にいた実朝を急ぎ連れ戻した政子と義時はこの陰謀を阻止して、時政を出家させて伊豆へ追放した。代って義時が執権となった(牧氏事件)。


実朝は朝廷を重んじて公家政権との融和を図った。後鳥羽上皇もこれに期待して実朝を優遇、公家政権との過度の融和は御家人たちの利益と対立し、不満が募っていた。
政子は後難を断つために頼家の子たちを仏門に入れた。その中に鶴岡八幡宮別当となった公暁もいる。


1218年、実朝の官位の昇進は更に進んで右大臣に上った。義時や大江広元は実朝が朝廷に取り込まれて御家人たちから遊離することを恐れ諫言したが、実朝は従わない。
1219年、右大臣拝賀の式のために鶴岡八幡宮に入った実朝は甥の公暁に暗殺された。


*



▽尼将軍北条政子登場!


実朝の葬儀が終わると、政子は鎌倉殿としての任務を代行する形で使者を京へ送り、後鳥羽上皇の皇子を将軍に迎えることを願った。上皇は「そのようなことをすれば日本を二分することになる」とこれを拒否した。
上皇は使者を鎌倉へ送り、皇子東下の条件として上皇の愛妾の荘園の地頭の罷免を提示した。義時はこれを幕府の根幹を揺るがすと拒否。
弟の時房に兵を与えて上洛させ、重ねて皇子の東下を交渉させるが、上皇はこれを拒否した。


義時は皇族将軍を諦めて摂関家から三寅(藤原頼経)を迎えることにした。
時房は三寅を連れて鎌倉へ帰還した。三寅はまだ2歳の幼児であり、政子が後見して将軍の代行をすることになり、「尼将軍」と呼ばれるようになる。
傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。


*


▽絶対絶命!朝廷との戦い


承久3年(1221年)、皇権の回復を望む後鳥羽上皇と幕府との対立は深まり、遂に上皇は京都守護・伊賀光季を攻め殺して挙兵に踏み切った((承久の乱)。上皇は義時追討の院宣を諸国の守護と地頭に下す。武士たちの朝廷への畏れは依然として大きく、上皇挙兵の報を聞いて鎌倉の御家人たちは動揺した。


源氏3代の将軍が絶え、鎌倉幕府が動揺しているところに朝廷の後鳥羽上皇が出した、執権北条義時追討の宣旨。


*


▽名スピーチに武士奮起


政子は、亡き夫・源頼朝の開いた鎌倉幕府存亡の危機に直面した。
妻や母としての立場に揺れ動きながらも、自らを育んだ東国と御家人たちを守るために決断する。


政子の究極の決断を探る。


去就に迷う有力御家人たちを、歴史に残る名演説でまとめあげる。
「亡き頼朝公のご恩を忘れるな!」揺れる関東武士団は、この演説に奮い立ち、結束した。この後、約650年にわたる武士の時代を切り開くことになった名スピーチだった。
「最期の詞(ことば)」として
「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い、逆臣の讒言により不義の綸旨が下された。秀康、胤義(上皇の近臣)を討って、三代将軍(実朝)の遺跡を全うせよ。ただし、院に参じたい者は直ちに申し出て参じるがよい」
と、政子自身が鎌倉の武士を前に演説を行った。

 


軍議が開かれ箱根・足柄で迎撃しようとする防御策が強かったが、大江広元は出撃して京へ進軍する積極策を強く求め、政子の裁断で出撃と決まり、御家人に動員令が下る。またも消極策が持ち上がるが、三善康信が重ねて出撃を説き、政子がこれを支持して幕府軍は出撃した。幕府軍は19万騎の大軍に膨れ上がる。


即座に大軍を上洛させ圧勝。ピンチを救った。団結を実現させ、朝廷に対する幕府の優位を決定的なものにした北条政子。

後鳥羽上皇は院宣の効果を絶対視して幕府軍の出撃を予想しておらず狼狽する。京方は幕府の大軍の前に各地で敗退して、幕府軍は京を占領。後鳥羽上皇は義時追討の院宣を取り下げて事実上降伏し、隠岐島へ流された。


*


▽歴史を変えた実力女子


島田久仁彦

物語的に説くことで、頼朝の恩などを思い出させる。恩を返さないと気が済まなくなる。
その時の状況がイメージしやすいし、ストーリーラインが流れるように語られ、最後に命令でなく個々に選択を迫っている。


中野信子

承久の変における政子の演説は、武士たちに決めさせたことがポイント。
一貫性の原理。自分で決めさせる。こうやりなさいと命じるのでなく、貴方たち各々が決めなさいと言って判断を委ねる。
人は自分で選択してしまったことにズーッと縛られて行く。自分で決めた判断というものは、呪縛となって逃れられなくなる。

思い込みフリーによる実力行使は、社会的通念を超える。女は男ほど社会的上下関係なものに左右されない。自由度の高い政子は最強だった。


深澤真紀

政子が磐石にした武家政権が、結果として女性の活躍しにくい日本にしたのだ。