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2014/7/3(木)に放送されたBS日テレ「木曜スペシャル~探訪 ! 京都巡礼団」の続編が、
5カ月振りに12/4(木)放送され興味深かった。
■印のスポットに私は訪問済みですが、□印のスポットには未だ訪問していません。
7/3(木)19:00~20:54
BS日テレ「木曜スペシャル」#7
「探訪 ! 京都巡礼団 ~結界に守られし都の秘密」
ナビゲーター: 福澤朗
出演者: 博物学者・作家・荒俣宏、俳優・佐野史郎、フリーアナ・近藤サト、文化人類学/民俗学者/国際日本文化研究センター所長・小松和彦、歴史地理学者/京都学園大学教授・佐々木高弘。
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794年の平安時代~1868年の明治維新の1,000余年もの永きに亘り都であった京都は、現在、世界中から年間5千万人もの観光客が訪れる国際観光都市。そんな雅やかな顔を持つ一方で、実は京都は「結界の都市」というもう一つの顔を持っている。京都は「風水の都市」としても有名だが、なぜ、結界を張らなくてはならなかったのか?京都に張り巡らされた結界の痕跡を辿ると、そこには都の人々が恐れた「大いなる力」の存在が浮かび上がって来る。果たして、「大いなる力」とは一体何なのか?その正体に迫る。
番組で今回、巡礼団が京都中を縦横無尽に巡った場所は、実は有名な「パワースポット」でもある。
□ 平安京の模型~京都市生涯学習総合センター/ 視聴覚センター「京都アスニー」( http://web.kyoto-inet.or.jp./org/asny1/top.html 中京区聚楽廻松下町9の2)
朱雀大路と九条通の交差点[現在の千本九条(南区の九条新千本交差点から東へ約100m、京阪国道口交差点から西へ約250m)に位置していた、平安京の「羅生門」(近年、羅城門に表記が統一された)を境にして、「洛中」と「洛外」、すなわち都の内と外が区別された。羅城門を守護する東西の位置には、「東寺」と「西寺」(焼失した1233年以降、水はけも悪く荒廃し再建されず)が置かれた。
□ 「大将軍八神社」~立体星曼荼羅が作る結界ポイント
平安京の北西を守るための結界ポイントが、平安遷都とともに作られた大将軍八神社(http://www.daishogun.or.jp/yurai.html 上京区一条通御前西入ル3西48)。方位を司る大将軍を祀る神社。今回、特別に見せて頂いたのが国の重要文化財にしてされている「立体星曼荼羅」。大小80体の大将軍像で表現する曼荼羅は圧巻。
平安京の造営時に鎮護のため陰陽道により大内裏(御所)の北西(乾=戌亥)方角の天門に星神 「大将軍堂」を建て方位の厄災を除ける社として創建された。当初は大将軍堂と呼ばれたが、江戸期に大将軍社、明治期に大将軍八神社と改称された。
大将軍は陰陽道の方位神であり、特に建築・転居・旅行などにおいて方角の吉凶を司る神。明治の神仏分離令によって祭神は御子八神と暦神の八神が習合、素盞嗚尊(スサノオノミコト)と改められた。
□ 「矢取地蔵寺」(http://everkyoto.web.fc2.com/report1076.html 南区唐橋羅城門町)
東寺から九条通を西へ進むと、かつて朱雀大路の南端にあったという羅城門の跡。そこには、地蔵堂があって「矢取地蔵」と呼ばれる石像が置かれている。
□ 「羅城門」(羅生門)
( https://www.city.kyoto.jp/somu/rekishi/fm/nenpyou/htmlsheet/toshi05.html )
10分の1模型は、下京区東洞院通 七条下ル東塩小路町676-13 メルパルク京都B1に展示⇒非公開。尚、30分の1模型が、中京区三条通高倉 府立京都文化博物館に展示されている。http://everkyoto.web.fc2.com/report204.html
■ 「東寺」~都との入り口を守る空海の寺
平安京遷都の際、都の中に寺院を建てる事が許された数少ない寺、「東寺」(http://www.toji.or.jp/about.shtml 南区九条町1)。ここには、天皇を「大いなる力」から守る結界があった。鬼門(北東)の方角を向く、東寺に唯一ある知られざる五芒星の鬼瓦。日本一高い五重塔には魔物の姿が!なぜ、魔物が寺院を守護するのか?「東寺」では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉で、狐と同一の存在とみなされたことにより祟(たた)り神としての側面も強くなった。「東寺」の弘法大師(空海)と「西寺」の守敏僧都(しゅびんそうず)は、いろいろな術比べをして対立していた。守敏僧都は様々な加持(術)を行ってみせ、淳和天皇が褒めると、仏法を手品のように扱うことを嫌った空海は、物陰で逆の術をかけていたことから術はうまくいかなかった。恥をかかされた守敏僧都は、「羅城門」で空海を待ち伏せし、背後から矢を射かけるとそこに黒衣の僧が現れ、矢はその僧の肩口を貫いた。空海の身代わりとなった黒衣の僧は地蔵菩薩で、地蔵堂の「矢取地蔵」の右肩には矢傷のあとが残っている。
□ 「上御霊神社」~桓武天皇が恐れた早良親王の怨霊
怨霊として様々な災いをもたらしたことで有名な早良親王(750?~785)。そのすさまじい怨霊パワーを恐れた人々は、早良親王に神様になってもらうため、「上御霊神社」(http://www.kyoto-jinjacho.or.jp/shrine/02/004/ 上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495)へ祀ることにした。
早良親王の怨霊パワーをどれほど天皇家が恐れていたのかがわかるエピソードがある。明治時代以前、皇室では子供が生まれるたびに勅使を上御霊神社へ参拝させ、子供の無事を祈願したと言う。桓武天皇の時代、各地で疫病が流行するのは御霊の祟(たた)りであるとして、貞観5年(863年)、平安京の神泉苑で御霊会が催され、崇道天皇(早良親王)・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らを慰霊した。後年、火雷神(菅原道真か?)と吉備大臣(吉備真備)が追加され「八所御霊」と称される。
□ 「白峯神宮」(上京区今出川通り堀川飛鳥井町261)
□ 「安井金比羅宮」 ~縁切りにまつわる神社と史上最強の怨霊・崇徳天皇
「安井金比羅宮」(http://www.yasui-konpiragu.or.jp/about/ 東山区下弁天町70)は「悪縁切り」で名高い神社。神社に祀られている崇徳天皇は、天皇家を呪いながらこの世を去った「史上最強の怨霊」として知られている。天皇家と縁を切ろうとした崇徳天皇にあやかる形で、安井金比羅は「縁切り」の神社としても有名で、日本全国から縁切りを求める人々で賑わっている。ここの絵馬を見ると、そこに書かれた願い事は、縁切りにまつわる人間の強い念が渦巻くものばかり。
■ 「清水寺」(東山区清水1-294)
■ 「地主神社」(東山区清水1-317)
■ 「晴明神社」(上京区堀川通一条上ル806)
■ 「京都御所」(上京区京都御苑内)
□ 「赤山禅院」(左京区修学院開根坊町)
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□ 「比叡山延暦寺」~都を守る最後の砦
平安京の鬼門(北東=丑寅)にある「比叡山延暦寺」(http://www.hieizan.or.jp/about/ 滋賀県大津市坂本本町4220)。ここは京都を守る最強の結界ポイントと言われている。中でも、京都の鬼門にして比叡山の鬼門にも位置する場所には、延暦寺の第18代天台座主、元三大師のお墓、「元三大師御廟」がある。ここは比叡山の僧侶たちが魔所と恐れる場所と言われており、出演者たちは足を運んで、その結界ポイントの秘密に迫る。「比叡山東塔」、「比叡山横川」。
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12/4(木)19:00~20:54
BS日テレ「木曜スペシャル」#18
「探訪 ! 京都巡礼団2 ~朝廷 vs 武家 権力者が信じた秘密の力」
博物学者・作家・荒俣宏、俳優・佐野史郎、フリーアナ・近藤サト、歴史地理学者/京都学園大学教授・佐々木高弘。
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794年、桓武天皇(在位: 781~806年、天智天皇の血統)によって造営された平安京[794~(1180福原京)~1868年]。ここは「風水」を取り入れ、様々な寺社を配置した結界都市だった。
しかし平安末期、その結界は破られる。朝廷=天皇親政or貴族=藤原氏が国を治める時代は終焉(0~1159年)、武家(平氏政権1159~85年)の世となった。以来、京の都は、朝廷と武家による「闇の戦い」の舞台と化した。武力を持たない朝廷は如何にして武家に対抗したのか。権威に劣る武家は如何にして朝廷の力を封じ込めようとしたのか。両者は様々な「秘密の力」を使って権力を手にしようとした。京都に隠された「秘密の力」の正体に迫る。決して歴史の表舞台に出てくることのない、京都のもう一つの顔とは…。
中国での「風水」理論の完成は宋代~明代であるが、完成以前の飛鳥・奈良時代に日本に伝わった理論が独自の発展を遂げ、陰陽道や家相として発展した。平城京・平安京の立地は「風水」に則っているとされ、四神の方角が固定化されているなど日本独自の理論となっていた。大地における気の流れを重視し、龍脈からの気の流れが阻害されておらず、運ばれて来た気が溜まり場になっているような土地に都市や住宅を建造しなければならないとする。そうすることによってその地方や一家に優秀な人材が輩出され冨にも恵まれ、土地がよければ子孫は繁栄し悪ければ没落すると考えられている。
■ 「伏見稲荷大社」 ~平清盛が頼った秘密の力
「天下取り」の野望に取りつかれた英雄の多くは、稲荷を信仰していたと言われている。現在全国に約3万社もある稲荷神社の総本宮が、「伏見稲荷大社」(http://inari.jp/about/ 伏見区深草薮之内町68)。そこには平清盛が頼ったとされる、現世利益を圧倒的なパワーで叶える「禁断の神」が祀られていた。果たしてその正体とは?
和銅年間(708~715年)に、朝鮮・新羅から帰化した秦氏が稲荷神を祀った。平安中期以降になると、紀州の熊野詣が盛んとなり、その往き帰りには必ず稲荷社に参詣するのが習わしとなって、その際には稲荷社の杉の小枝=“しるしの杉”を頂いて身体のどこかにつけることが一般化していた。また、平家の勢いが頂上にさしかかろうとする平治元年(1159年)、平清盛が熊野参詣の途中、京からの早馬が追いつき前日に三条殿へ夜討があり御所が焼亡したのは平家を討とうとする企みに相違ないと、清盛は急ぎ京へと引き返そうとするが、火急の際でも先ず稲荷社に参り、杉の枝を折って鎧の袖に差して六波羅へと向かった程。
□ 「興雲庵」(東山区小松町599)
建仁寺塔頭「興雲庵」は、建仁寺境内の北西にあり、陀枳尼尊天(だきにそんてん、俗にいう豊川稲荷)が祀っているので祇園のお稲荷さんのお寺として有名。花柳界のお詣りが多い。
■ 「六波羅蜜寺」~平家の本拠地
平清盛は、かつて「京都の魔界」と恐れられた場所・六波羅に本拠地を構えた。その平家一門の屋敷があった場所が「六波羅蜜寺」( http://www.rokuhara.or.jp/history/ 東山区五条通大和大路上ル東)。宝物館には、誰もが教科書でみたことがある、重要文化財の空也上人像と平清盛像がある。平清盛の姿を残すものは、世界でこの一体のみ。
□ 「六道珍皇寺」~生と死の狭間
「六道珍皇寺」(http://www.rokudou.jp/legend/ 東山区大和大路通四条下ル4丁目小松町595)は、平清盛が荼毘に付されたと言われている場所。清盛が地獄行きを逃れるために頼った秘密の力の正体が、ここにあった。このお寺を拠点に活躍していたのが、清盛の時代よりも約300年前に生きた貴族、小野篁(たかむら、802~853)。実は小野篁は、この世とあの世を自由に行き来した「冥界の役人」だったと伝わっている。もしかすると、清盛は篁に救いを求めていたのでは? そして、小野篁が冥界に行くために使ったと言われる「冥土通いの井戸」。
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後醍醐天皇(在位: 南朝1318~39年)の都落ちと共に南北朝時代(1336~92年)に突入。後醍醐天皇が向かったのは、奈良県の吉野。なぜ山深いこの地を選んだのか?巡礼団は、後醍醐天皇の秘密の力の正体を知るべく、京都を飛び出し、世界遺産の地・吉野へ。吉野という土地は、伊勢の北畠氏に近く河内の楠木氏にも近い。更に高野山・東大寺・熊野三山など神社や寺院の勢力。軍用金、僧兵・修験者などの人員を調達できる。
□ 「金峯山寺」~吉野の中心・修験道の総本山
実は吉野は、修験道・密教の聖地ともいえる場所。だからこそ、後醍醐天皇が足利尊氏を倒す呪術を自ら行うに相応しいとされ、南朝を開いた。「金峯山寺」(http://www.kinpusen.or.jp/ 奈良県吉野郡吉野町吉野山)は吉野の中心、修験道の総本山。世界遺産に登録されている本堂・蔵王堂は、東大寺大仏殿に次ぐ木造大建築で、圧巻の佇まいを見せる。その蔵王堂の中にあるのが、足利尊氏を倒すために後醍醐天皇が頼った「秘密の力」、金剛蔵王権現。怒りの形相で悪を倒す姿は頼もしい限り。
□ 「吉水神社」(奈良県吉野郡吉野町吉野山579)
□ 「如意輪寺」~後醍醐天皇の秘密の力と執念
尊氏を倒すべく更なる強力な願をかけるため、後醍醐天皇が通っていた場所があった。南朝の勅願寺である「如意輪寺」(http://www.nyoirinji.com/ 奈良県吉野郡吉野町吉野山1024)。宝物館には、後醍醐天皇が使っていたとされる金剛蔵王権現像が残っていた。さらに、後醍醐天皇が駆使した「秘密の力」を示すものが…。吉野に来て3年、後醍醐天皇は再び京都の土を踏むことなく、失意のうちに52歳でこの世を去る。その亡骸は如意輪寺の裏手の山に、葬られた。そのお墓は、天皇家の墓陵としては唯一北向きに作られている。その理由とは…?京都に戻ることができなかった後醍醐天皇の執念がそこにはあった。
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■ 「天龍寺」(右京区嵯峨天竜寺芒ノ馬場町68)
足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。尊氏は1338年に征夷大将軍となり、後醍醐天皇が吉野で崩御したのはその翌年の1339年である。尊氏は、後醍醐天皇の始めた建武の新政に反発して天皇に反旗をひるがえした人物であり、対する天皇は尊氏追討の命を出している。いわば「かたき」である後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。
■ 「等持院」(北区等持院北町63)
臨済宗天龍寺派萬年山。足利氏の菩提寺であり足利尊氏の墓所としても知られる。
■ 「相国寺」(上京区今出川通烏丸東入)
開基(創立者)は足利義満。足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、五山文学の中心地。画僧の周文や雪舟は「相国寺」の出身である。また、「鹿苑寺(金閣寺)」、「慈照寺(銀閣寺)」は、「相国寺」の塔頭である。
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■ 「豊国神社」~秀吉が選んだ最後の道
豊臣秀吉は自分の天下が不動のものとなると、遂に朝廷を乗り越えるべく様々なことを実行に移す。そして、秀吉が余命わずかとなった時に選んだ最後の道とは…?「豊国神社」(http://www.apsara.ne.jp/houkoku/yuisho.htm 東山区大和大路正面茶屋町)は、秀吉を祭神として祀る神社。秀吉らしい豪華絢爛な唐門は、国宝三唐門の一つ。そしてそこには、秀吉の最後の野望が読み取れるあるものがあった。秀吉が発願した盧舎那仏(東山大仏)は、東大寺の大仏より大きく(6丈3尺(約19m)、東大寺大仏殿を鎮護する八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るように遺言した。朝廷から秀吉自身の望みとは相違して「豊国乃大明神の神号が与えられた。兵威を異域に振るう武の神。八幡神は皇祖神であるから勅許が下りなかったとする説、吉田神道による仏教の下に神道が置かれることを懸念したとする説。
■ 「方広寺」 (http://www.kyoto-wel.com/mailmag/ms0304/mm.htm 東山区正面通大和大路東入茶屋町527-2)
太閤・豊臣秀吉が造立し伝教大師作・豊太閤護持の大黒尊天を祀る。天正14年(1586年)東大寺にならって大仏造立を決定し文禄4年(1595年)にはほぼ大仏殿が完成していた。約19mあったという木製大仏。慶長元年(1596年)伏見大地震のため大仏は倒壊した。梵鐘を製作した三条釜座鋳物師、名越(名護屋)三昌らによって1612年に製作された。豊臣秀頼は慶長4年(1599年)、木食応其に命じて大仏(銅造)の復興を図るが、慶長7年(1602年)流し込んだ銅が漏れ出たため火災が起き、造営中の大仏と秀吉が全国六十六州の巨木を集めて建立した大仏殿は烏有に帰した。慶長13年(1608年)より再建が開始され、慶長19年(1614年)には梵鐘が完成し、徳川家康の承認を得て、開眼供養の日を待つばかりとなった。ところが家康は開眼供養の延期を命じる。梵鐘の銘文のうち「国家安康」「君臣豊楽」の句が徳川家康の家と康を分断し豊臣を君主とし、家康及び徳川家を冒瀆するものと看做され、大坂の役による豊臣家滅亡を招いたとされる(方広寺鐘銘事件)。大仏自体は大坂の陣の後も残されたが、寛文2年(1662年)の地震で大破。大仏は寛文7年(1667年)に木造で再興され、壊れた銅造の大仏のほうは寛永通宝の原料とされた。この大仏も寛政10年(1798年)落雷による火災で焼失。以後は同様の規模のものは再建されなかった。
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■ 「圓光寺」(下京区梅小路西中町67)
慶長6年(1601年)、徳川家康は国内教学の発展を図るため、下野足利学校第九代学頭・三要元佶(閑室)禅師を招き、伏見に「圓光寺」を建立し学校とした。圓光寺学校が開かれると、僧俗を問わず入学を許した。また孔子家語・貞観政要など多くの書籍を刊行し、これらの書物は伏見版または圓光寺版と称された。当寺には、出版に使用された木活字が現存しており、我国出版文化史上特筆すべき寺院。
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そんなに祟りが恐いのなら、権力闘争で殺し合いをしなければよいものを。
自然災害や疫病は別として。
