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高倉健さんが逝った。1931年2月16日~2014年11月10日(満83歳)。
偶々、昨日18(火)に渋谷の美術鑑賞から浅草に帰り、
近所の浄土真宗のお寺さん掲示板に、いつものように東本願寺・真宗会館の首都圏広報誌「サンガ」132号(2014年11月号)が掲載されていて、
俳優の小林稔侍(ねんじ、1941年2月7日~)さんの写真が目に入った。
表紙インタビュー http://shinshu-kaikan.jp/bd/files/132.pdf の冒頭を読むと----
「中学校のころから高倉健のファンだった。親には大学入試に行くと嘘をつき、東映ニューフェイスの試験を受けた。・・・」と書いてあった。
帰宅して、テレビニュースの高倉健さんの訃報を知って驚いた。
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==時事通信11/18配信==
モントリオール世界映画祭で高倉健さんが最優秀男優賞を受賞した映画「鉄道員(ぽっぽや)」(1999年)で共演した俳優の小林稔侍さんは18日、「ショックのあまり言葉が出ない」とのコメントを所属事務所を通して出した。
改めて、小林稔侍さんの経歴をチェックしてみた。 以下、敬称略。
中学生の頃からファンの高倉健は、東映に入って以後大部屋時代からの恩人であり、何度も小遣いをもらったり、小林が家を建てた時や結婚する際に保証人になってもらった。
高倉に対する思い入れは強く、小林は長男に「恩を一生忘れないこととありがとうの思いを込めて」、高倉と同じ「健」と名付けたり、「健さんのためなら腎臓を一つ提供しても構わない」と思っている程。
今朝のニッポン放送でも、パーソナリティの高嶋秀武(1942年4月17日~)さんも、明治大学の先輩・高倉健の大ファンで、やはり長男に「健」と名付けたと話していた。
小林は、1960~70年代、高倉健ら主演の東映アクション・仁侠映画、アクション・刑事ドラマなどに出演。
1978年、映画『冬の華』は忘れられない一本と述べており、「台詞が一言もない小林稔侍が抜群だ」と掲載された1978年5月24日付スポーツニッポンの映画評を宝物にしている。
高倉健に対する恩義もあって「端役でなく、ちゃんとした役で健さんと共演し、恩返しがしたい」との思いを持ち続けていた。
1999年、映画『鉄道員(ぽっぽや)』で、その願いが叶うこととなった。日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を受賞。
『鉄道員』の中で高倉と小林が抱き締め合うシーンがあり、或る映画評論家が講演会で「あれはホモじゃなきゃできない」と発言したのが元で、女性週刊誌に「高倉健と小林稔侍はホモ」と大見出しにされて掲載されたこともあった。
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【高倉健さんの作品---私の思い出】
健さんは、1931年2月16日、福岡県中間市の旧海軍軍人⇒炭鉱夫取り纏め役の父と、教員の母との間に誕生。
県立東筑高校商業科、高校時代にESS(エッサッサ、English Speaking Society)部を創設している。貿易商を目指して明治大学商学部商学科を卒業。
私が観た映画
1963~65年、宮本武蔵シリーズ(佐々木小次郎)。
1964~71年、日本侠客伝シリーズ(主演)。
1965~72年、昭和残侠伝シリーズ(主演)。
1965~72年、網走番外地シリーズ(主演・橘真一)。
1973~74年、山口組三代目シリーズ(主演・田岡一雄)。
我々団塊世代もまた、高校・(浪人)・大学時代(1963~71年)を通じて、
左手で学生運動(ゲバルト棒)やグループサウンズ(エレキギター)、
右手で893(七首・日本刀・拳銃)に心酔するところがあった。
主題歌・網走番外地や唐獅子牡丹※ もまた絶大な人気だった。
不条理に耐え続け、遂には復讐を果たす "アウトロー" 的存在の高倉健(や安藤昇)が演じる主人公は、熱狂的な支持を受けた。映画を観終えると主人公に自分を投影させて、ヤッタロカ!に燃えていた。このように何時の世も若者のメディアに対する感情移入には危険が孕んでいる。
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1976年、君よ憤怒の河を渉れ(主演)。
1977年、八甲田山 (主演・ 徳島大尉)。
1977年、幸福の黄色いハンカチ (主演・島勇作)。
1978年、野性の証明 (主演)。
1980年、動乱(主演)。
1983年、居酒屋兆治(主演・兆治)。
1989年、ブラック・レイン。
1994年、四十七人の刺客(主演・大石内蔵助)。
1999年、鉄道員(主演・佐藤乙松)
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