図書館で何気に手にした「清張日記」(日本放送出版協会・単行本1984年10月・刊)。
 
朝日新聞社・朝日文庫1989年1月・刊、
文藝春秋社・単行本「松本清張全集(65)~清張日記・エッセイより」単行本1996年2月・刊などがある。





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■ 昭和55~57年(1980~82年)に書かれた日記。
一部、昭和28年(1953年)12月~29年(1954年)3月の古い日記の挿入がある(回顧)。


昭和五十六年(1981年)一月一日の日記 
書庫に行って本を整理していると、昭和二十八年暮れから二十九年の「日記」が出てきた。・・・ めくってみる。自分は二十八年から十二月に朝日新聞西部本社広告部(小倉)より東京本社広告部に転勤となった。・・・ ここに「番外」として写してみる。


■ 清張の著作を研究している人、既読しているファン(私もその一人)には嬉しくなるエピソードが書かれている。


■ だが、日記ページの多くを占めているのは、清張の古代史や近代政治史の研究メモ。







【興味を惹いた著作エピソード】



★ 『鬼畜』
・・・『別册文藝春秋』1957年4月号に掲載、1957年12月に筑摩書房から単行本・短編集『詐者の舟板』の1作として1957年12月・刊。


昭和五十七年(1982年)十一月十六日の日記
夕刊は河井信太郎氏の急死を報ず。・・・ 自分の小説「鬼畜」は、河井氏が造船疑獄捜査のあと司法研究所の教官時代に聞きし彼の若きころ(静岡地方検察局沼津支部検事)の経験談なり。・・・ 「鬼畜」の話を河井氏から聞きたるは、昭和三十二年(1957年)三月二十日と、自分の旧き日記にあり。


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★ 『天城越え』
・・・『サンデー毎日』1959年11月特別号に『天城こえ』のタイトルで掲載、光文社から単行本・短編集『黒い画集2』の1作として1959年12月・刊。


昭和二十九年(1954年)二月十五日の日記
今井浜よりバスで天城峠を越える。トンネルの所で、エンジン過熱のためバス故障して立ち往生。少女の車掌はバケツを持ち、山中の一軒家へ水もらいに駆く。バス二時間くらい動かず、ようやくにして修善寺へ向かう。(注)このときを想い出して、のちに小説「天城越え」を書いた。


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★ 『岸田劉生晩景』
・・・『芸術新潮』1965年2月~4月などに掲載、新潮社から単行本・評論集(骨壷の風景・女囚・筆写・鳥羽僧正・北斎・岸田劉生晩景)の1作として1980年2月・刊。


昭和五十五年(1980年)八月十二日の日記
杉並区永福寺に画家中川一政を訪(と)う。『芸術新潮』編集部桜井信夫君と同道。・・・ 岸田劉生に関して語る。その要。・・・ (2)劉生は描写力抜群のため(いわゆる「手の芸術」)、先人画家の作品を見れば、すぐに同じものが描けると考えてこれを描いた。そのため劉生は「習作」または「模倣」に終始し、自己独自の絵画を発見・確立し得なかった。・・・ (5)劉生は大酒はするが、浮気はしなかった。(注。不能者か) 酔狂がはげしく、人を嘲罵し、殴る、蹴る、踏むなどしてよろこぶ加虐癖があった。・・・


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★ 『史観・宰相論』
・・・『文藝春秋』1980年8月~10月に『私観・宰相論3--虚構の二大政党--高橋是清・加藤友三郎・田中義一など』のタイトルで連載、文藝春秋社から単行本1980年12月・刊。


昭和五十五年(1980年)六月二十四日の日記
『文藝春秋』連載の「史観・宰相論」は古代の蘇我馬子、中世の頼朝、近世の家康に枚数(五十八枚)をとりすぎ、維新、明治以降を書くのに時間も枚数も足らず。安藤満編集長に電話して、予定の回数をふやしてもらうことにする。このままでは明治、大正、昭和の戦前戦後の宰相論がカケアシまたは極端な省略になって、均衡を失する。


昭和五十五年九月二十二日の日記
「史観・宰相論」第五回を九十五枚まで進む。近衛文麿のところで枚数をとる。・・・ 近衛を知るには、やはり「原田日記」が一等資料なり。原田の自己顕示欲がかなりあるも、類書の追随をゆるさず。


昭和五十五年九月三十日の日記
文藝春秋出版部藤井康栄来宅。「史観・宰相論」の手入れゲラを渡す。・・・ 国会開設を機に、それまでの自由民権運動家が国権主義者に早変わりする点とを話し合う。


昭和五十六年(1981年)一月五日の日記
他の府県は主藩の城下町の名前がそのまま県名となっているのに、明治四年の廃藩置県(このときは大小藩ともに県名となった)の翌年に現在の府県名と改まった。戊辰戦争で官軍に抵抗した主要藩には、その城下町名を県名とさせなかった。・・・ たんに「朝敵」への「懲罰」のみならず、徳川譜代大名の所領地まで薩長新政府に憎まれて同様措置。たぶん大久保利通・木戸孝允それに岩倉具視あたりの意図に出たものであろう。・・・ 天皇の神権化をだれが主となって推進したのかはよくわからない。その権威化される前は、維新後間もないことでもあり、君臣の間はあたかも友人の如きであったという(側近・山岡鉄舟の回顧談など)。天皇の神権的絶対化は岩倉具視が国内統制のために考え、道徳的には元田永孚などが行い、「富国強兵」的には山県有朋などが補強したと思われる。それでもまだ明治天皇と伊藤博文との間には、「友だち」の親密さが遺っていた。


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★ 『十万分の一の偶然』
・・・『週刊文春』1980年3月~81年2月に連載、文藝春秋社から単行本1981年7月・刊。


昭和五十五年(1980年)二月十五日の日記
栃木県鹿沼へ行く。『週刊文春』の連載小説「十万分の一の偶然」の取材のため。大麻(カンナピス)の許可栽培は栃木県が最も多く、鹿沼の西北部にあたる下・上久我、上南磨、草久、板荷と、西南部にあたる粟野、西方の諸村落にある。
 

昭和五十五年三月十六日の日記
連載小説「十万分の一の偶然」の取材に電車で藤沢へ行く。市内を見て駅に戻り、出札口に「急行券を下さい」というと、駅員は「急行は無い!」と反身になっていう。その横柄な態度を注意すると ・・・ 。


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★ 『彩り河』
・・・『週刊文春』1981年5月~83年3月に連載、文藝春秋社から単行本1983年7月・刊。


昭和五十六年(1981年)四月十日の日記
首都高速道路の料金所に勤務せる人々はほとんどが年配者。「第二の人生」と見ゆ。・・・ 中には会社役員たりし人もあるべし。が、ここに入れば前歴は問題でなし、新しい者はみな「新米」なり。当人が前歴にこだわるはただの感傷のみ。感傷を捨てざれば、「第二の人生」も勤め難き場所とならむ。(注)この偶見はのちに拙作『彩り河』で使った。


昭和五十六年四月二十七日の日記
「霧プロ」で会合のあと、銀座の松竹セントラル映画劇場へ行く。二階の特別観覧席に座る。米映画「ブルース・ブラザース」を上映中。ロック音楽とカー・チェースの組み合わせ。喧騒場内を揺るがし、全館これディスコ化。・・・二階に人なし。この間、従業員はだれも上がって来ない。・・・ この映写状況の中で、もし傷害犯人の襲撃をうけたときはどうなるか、と慄然となる。ロックミュージックとカー追跡の騒音の中では、いかなる物音も助けの叫びも悲鳴も、階下には聞こえまい。(この経験からヒントを得て、拙作『彩り河』の一場面にした)