携帯する電話だから文字通り携帯電話、なのだが持ちすぎなのだ。
が、依然バッテリーは持たなさすぎなのだ。
もはやこいつ無しには生きて行かれない体になってしまった。
朝起きて寝るまで片時も離れずいる。
初めて出会った時はまだ文字でしかメッセージを伝えられない
今の大きさの3分の1くらいの大きさだった君はあっと言う間に
PHSという幼少期そして反抗期を経て、立派に成長した。
ぺこぺこお辞儀をする従順なガラゲー世代も絶滅寸前でポケットに入らない
カラフルで大きな輩が幅を利かせている。
高校生だった私は1時間後に会う同級生に意味も無く
通学路の公衆電話から156188※※♯(→文字化けではありません)を押して駅に向かう。
純粋すぎた。
いまや、体の一部、いやそれ以上の権力を持った。
いなくなったら自分の一部が、自分の歴史がなくなってしまうくらいの衝撃。
一度データが飛び、私は外界とのつながりを無理矢理たたれてしまったかのような感じになった。そう、あれはあの時と一緒だ。
あの時、とは韓国留学から一時帰国で成田空港に帰ってきたときのこと。
母と叔母が迎えにきてくれていたのだが、飛行機の到着時間が大幅にずれて
入国審査を終えてきたときには誰もいなかった。
私は日本円を持っておらず、母の携帯電話の番号を覚えていなかった。
公衆電話というものは殆どなく、あったにしても小銭すらない。
電話もかけられず、空港内をさまよい歩き、帰ろうにも電車賃もない。
あるのはパスポートのみ。
会えないまま 時間だけが過ぎ、ああ、私は異国に来てしまったと里帰りを後悔すらし始めた。
半泣きになって試しに私は空港のお金を取り扱いそうなところで聞いてみた。
事情を話し、
「電話代かうちに帰るお金を貸してもらえないでしょうか、身分証明書はあります。
もしくは携帯電話を・・・」
しかし答えは「ノー」
最後に国家権力の砦 交番で聞いてみた。
「ノー!」
貸せません。
国家権力の前に私はうちひしがれた。
なんだ!母国に帰ってきたのに!!非国民だってのかーこのやっろおーー
パスポート赤いぞー。うちまで歩いて帰ろうかなーもう!!!でもバスで1時間以上なのに
みたいなことが瞬間的に頭を駆け巡る。
日本の携帯電話も持っていない、小銭もない、電話も貸してもらえない。
異国にひとりぼっちだ。
母をたずねて三千里。
そんな時に向こうから見覚えのある女性2人が歩いてきた。
嬉しさあまって小走りで半泣きの私を見て母が言った。
「なによーそんな色に髪の毛染めてー、汚いー」
確かにちょっとオレンジ色みたいだったけど!茶色だったけど、さあ・・・。
それどころじゃねえよーーおかああーーーさあーーーん
おかっぱ頭が天使に見えた。
この小さい箱を無くしてしまったら
朝 電源が入らなかったら
それくらいの衝撃にも勝るとも劣らない小さい箱の権力。
人間なんてララーラーラララーラーラー
もはや携帯されているのは人間なんじゃないかと思うくらいだ。
携帯電話が無い頃に戻ってみたいともたまに思う。
所有されていない時代に。
さっちゃんの怖い話が小さい頃流行った。
ご存知だろうか。バナナが全部食べられないさっちゃん。
ああ、思い出したら怖くなってきた。
怖い話を聞いてトイレに行けなくなるとか眠れなくなるとかいう人は多いだろう。
小学校の図書室で本を読んでいた。
当時アガサ・クリステイーの推理全集を読み倒して
調子にのっていた私が手を伸ばしたのはUFOのジャンルだった。
夏休みだった。
その本には宇宙人が実際に現れて◯月◯日(時間)何処の誰が連れ去られた、という
データが羅列されていた。
知り合いではないがうちの近くの人もいた。
しかも家の窓に明るい光が現れたかと思うと部屋を覗き込み連れ去る、みたいなエピソードがあった。
それと怖い話で足を出して寝ると足から人を食べる妖怪?お化け?の話が
混じって私は自分の部屋の窓が怖くなった。
窓の下に蒲団を敷いて寝ていて、他の家族と寝室の都合上
私の蒲団の位置は決まっていた。
窓の真下、だ。
外から私の姿がみられたら私は連れ去られるに違いない。
足を出して寝たら足から食べられてしまう。
その予防法として適切なのは
毛布で頭から足先まで隠して小さくなって寝る、だった。
おかけで宇宙人にも妖怪にも食べられなかったが
私は次の日の朝全身あせもお化けとなった。
今はなにもかけずに寝られるようになった。
大人になったな、あたし。
別のパラレルワールドに私を連れ去ってくれるなら
喜んでついていこう。
うちの妹はクリスマスにベランダにサンタクロースがいたのを実際に見たらしい。
「おねえちゃん!サンタクロースは黒人だったよ!!!」
その年に貰ったプレゼントはキテイちゃんのバックと本だったように記憶しているが
黒人だったかどうかは謎のままである。
さっちゃんの話はなにもしなくてすみません。
本気で怖いです・・・
でもバナナは好きです・・・
もうすぐ夏ですね。
ご存知だろうか。バナナが全部食べられないさっちゃん。
ああ、思い出したら怖くなってきた。
怖い話を聞いてトイレに行けなくなるとか眠れなくなるとかいう人は多いだろう。
小学校の図書室で本を読んでいた。
当時アガサ・クリステイーの推理全集を読み倒して
調子にのっていた私が手を伸ばしたのはUFOのジャンルだった。
夏休みだった。
その本には宇宙人が実際に現れて◯月◯日(時間)何処の誰が連れ去られた、という
データが羅列されていた。
知り合いではないがうちの近くの人もいた。
しかも家の窓に明るい光が現れたかと思うと部屋を覗き込み連れ去る、みたいなエピソードがあった。
それと怖い話で足を出して寝ると足から人を食べる妖怪?お化け?の話が
混じって私は自分の部屋の窓が怖くなった。
窓の下に蒲団を敷いて寝ていて、他の家族と寝室の都合上
私の蒲団の位置は決まっていた。
窓の真下、だ。
外から私の姿がみられたら私は連れ去られるに違いない。
足を出して寝たら足から食べられてしまう。
その予防法として適切なのは
毛布で頭から足先まで隠して小さくなって寝る、だった。
おかけで宇宙人にも妖怪にも食べられなかったが
私は次の日の朝全身あせもお化けとなった。
今はなにもかけずに寝られるようになった。
大人になったな、あたし。
別のパラレルワールドに私を連れ去ってくれるなら
喜んでついていこう。
うちの妹はクリスマスにベランダにサンタクロースがいたのを実際に見たらしい。
「おねえちゃん!サンタクロースは黒人だったよ!!!」
その年に貰ったプレゼントはキテイちゃんのバックと本だったように記憶しているが
黒人だったかどうかは謎のままである。
さっちゃんの話はなにもしなくてすみません。
本気で怖いです・・・
でもバナナは好きです・・・
もうすぐ夏ですね。
「く」について何も浮かばない。
久島海、九十九里浜、クラゲ、苦しくったって~~悲しくったって~こおとーの中ではー
平気ーなの~♪みたいなことしか浮かばず、かといって書かないわけにも行かないなと
思っていたら、そうか、暗い、暗闇だな、で思い出したのに
ダイアログ・イン・ザ・ダーク。
皆様行ったことがあるでしょうか?
平たくいえば光が一筋も入らない暗闇に橋とか階段とかがあり、そこを視覚障害者の方のアテンドで探検するような体験型のイベントで、原宿駅から歩いて行かれる距離にあります。
本当に真っ暗な世界。
暗闇といっても微かに光の方角は判るとか、そんな所は多いけれどここは違う。
脳化学者の茂木さんの著者でとりあげている本があり、興味を持ったのですが
完全に暗闇。
入った瞬間に私たちが普段辺り前に見ている物の輪郭が真っ黒の中に溶ける。
真っ黒というよりも色も何も無くして闇が勝っていく。
飲み込まれて行く感じ。
視覚障害者の方1名に参加者が5名で出発する。
もし仮に道で目が見えない方がいたら、不安だろうな、と思う感じの持ち主が逆転する。
見えていることで持っている当然の自信、これがここにある、
が全部なくなって、自分の感覚に頼るしかなくなる。
健常者、障害者という言葉もあるけれど
その概念もなくなる。
私たちが行った数年前の春の期間は、その中の喫茶店でお茶を飲み
小さな植木鉢に種を植えてお水をあげる回だった。
「視覚」にいかにたよりきっているか。
他の感覚もあるのに。
触覚、嗅覚・・・
パントマイムを習っていた時に先生が言っていた。
「普段しているひとつひとつを感じていなさすぎる」
だから、ここにドアがあります、触ってみて、と言われても
毎日さわっているはずのドアノブの記憶がない。
携帯電話があるから持ってみて、といわれても
中毒患者のごとく頼りにしている携帯電話の感触に自信がもてない。
そのくらい「なんとなく」やり過ごしてしまっているのだ。
あるものを感じる。
考えるではなく、感じる。
この感覚を大切にしたいとキーボードを打ちながら
自分に刻み込んでいる。
この暗闇は一度は体験するべきだと思う。
久島海、九十九里浜、クラゲ、苦しくったって~~悲しくったって~こおとーの中ではー
平気ーなの~♪みたいなことしか浮かばず、かといって書かないわけにも行かないなと
思っていたら、そうか、暗い、暗闇だな、で思い出したのに
ダイアログ・イン・ザ・ダーク。
皆様行ったことがあるでしょうか?
平たくいえば光が一筋も入らない暗闇に橋とか階段とかがあり、そこを視覚障害者の方のアテンドで探検するような体験型のイベントで、原宿駅から歩いて行かれる距離にあります。
本当に真っ暗な世界。
暗闇といっても微かに光の方角は判るとか、そんな所は多いけれどここは違う。
脳化学者の茂木さんの著者でとりあげている本があり、興味を持ったのですが
完全に暗闇。
入った瞬間に私たちが普段辺り前に見ている物の輪郭が真っ黒の中に溶ける。
真っ黒というよりも色も何も無くして闇が勝っていく。
飲み込まれて行く感じ。
視覚障害者の方1名に参加者が5名で出発する。
もし仮に道で目が見えない方がいたら、不安だろうな、と思う感じの持ち主が逆転する。
見えていることで持っている当然の自信、これがここにある、
が全部なくなって、自分の感覚に頼るしかなくなる。
健常者、障害者という言葉もあるけれど
その概念もなくなる。
私たちが行った数年前の春の期間は、その中の喫茶店でお茶を飲み
小さな植木鉢に種を植えてお水をあげる回だった。
「視覚」にいかにたよりきっているか。
他の感覚もあるのに。
触覚、嗅覚・・・
パントマイムを習っていた時に先生が言っていた。
「普段しているひとつひとつを感じていなさすぎる」
だから、ここにドアがあります、触ってみて、と言われても
毎日さわっているはずのドアノブの記憶がない。
携帯電話があるから持ってみて、といわれても
中毒患者のごとく頼りにしている携帯電話の感触に自信がもてない。
そのくらい「なんとなく」やり過ごしてしまっているのだ。
あるものを感じる。
考えるではなく、感じる。
この感覚を大切にしたいとキーボードを打ちながら
自分に刻み込んでいる。
この暗闇は一度は体験するべきだと思う。
今日は「器用貧乏緊急救済企画」(→うわ!「き」が沢山!)についてお送りする予定でしたが、スカイツリー下のゴッドハンド北澤氏と緊急会合がありました関係で予定を変更し、アメトーークに2丁拳銃が出ますのでそちらを見て寝る予定といたします。
予定しておりました「器用貧乏緊急救済企画」は後日お送りいたします。
ご期待ください。
予定しておりました「器用貧乏緊急救済企画」は後日お送りいたします。
ご期待ください。
東京都葛飾区金町。
読み方は「かなまち」
お金の町!イエーイ素敵!!
金融街でもないこの下町のスターバックスに私は朝からお茶をしに行った。
「か」から始まるのに韓国ネタではありません。
その後に韓国語講座もしてきましたが、ブログは今日の午前中の話。
韓国語講座では日本語の筋肉と外国語の筋肉は発する音が違うのだから、使う場所が違うのは当然で、韓国語をネイテイブのように意識して話したら、表情筋は鍛えられて小顔になるだろうという結論に至りました。唐辛子や整形だけでなく、言葉自体が美容法だった!!に関しては
また書くことにいたしましょう。
さてさて、金町のスターバックスに行ったのは天職プロデユーサーの松田隆太さんと
お話をするためでしたのでございます。
隆太さんのブログはこちら↓
http://ameblo.jp/ryuta-matsuda/
出張バーテンダーで人のご縁をつないでるまちゃ兄からの紹介でご縁を頂いたわけです。
「天職」といっても直接的な職業、ということは勿論ですが、それが枝葉だとすると
自分の幹はどこに向かって伸びたいか、まあ、空に向かって、なんだけど、どんな人達が住んでいる国を自分のホームとするかみたいな、自分の行きたい国はどんな人達の集まる世界か、
パスポートのようなキーワードになる言葉、ライフワーク、みたいなことです。
窓際の席でそんな話をしていたら、なにやら視線を感じたわけで
さっきまで透明だった窓が・・・こんな感じに!

窓の向こうでちびっ子達が硝子に落書きをしているではありませんか!!
落書きデーというイベントだったそうで。
ああ!このペン欲しい!!
その時に話していたことは
「意味があることでないとやってはいけないのか?」
という意味付けについての
話をしていて、自分の「やりたい」よりもそれをする事に
「意味があるかないか」というブレーキを自分でかけてきたことに気がついたりしたのでした。
これをやったら仕事になるのか?とか
これはプラスになるのか?とか。
ちびっこは夢中で絵を描いていて、意味なんて考えてないです。
ミッキーちゃん!とかうさぎちゃんー!とかはあるかもしれないけど。
書きたいから書いている、瞬間。
それが、大事。
それがないと動けないから。
馬鹿じゃないの?と人が言おうが、自分がどう思うか。
どんな人がいる国に住みたいか?
誰と一緒にいたいか
湧いた感情をいいとか悪いとかジャッジしないで受け入れる器。
これを小さい神様は自然とやってきているのに、ランドセルを背負い、要らない物を背負い
大きな神様は不自由を感じられる程に自分が自由であることをいつしか忘れてしまうのです。
私は姪っ子の写真をよくフェイスブックにも挙げていますが、彼女と遊んでいると
本気で遊んでいるかどうか、子供には嘘はつけないと思わされます。
子供のように感情と向き合うことが出来なくなっている自分が癒されたりもします。
自分の瞬間の感情に向き合ったまま、大人になって欲しいと思うのですが
そのために私に何ができるか、どんな作品を作ればいいのか、とか思ったりもします。
19歳でサッカー選手をきっかけに韓国にいくことにした時
私は言葉も出来なければ、辛い物が大嫌いでキムチがまずいと思っていました。
でもあの時行動出来たのは、若さ、というのもあるけれど
「行く」「行きたい」って決めたから。決めちゃったんです。
当時は留学といえばアメリカで、韓国に何しにいくの??30年前の日本じゃねえか?とも言われました。韓流ブームも来ておらず、アジアよりも英語圏、でしたが同じ人であり、何より
私はパワープレーな感じが大好きで、住んだ事もないあんたに何がわかる??といった反発も手伝って、住んでみて考えよう、と思ったのでした。
自分を幸せにする覚悟。
自分と向き合って全部の自分の感情を一度受け入れる覚悟。
意味とお金は後からついてくる。
日々の葛藤でどこをホームで何をすべきか、
迷った時に大切にするかけらを見たような気がしたのでした。
それは自分が持っています。
ただ見ないフリをしているのです。その方が楽だったりもするから。
理由をつけてやらない方が楽だから。
やってみたいと思っていることを隆太さんに話してみたら
「いいじゃない~~!!」
何人かに言って「???」が飛んでいたのですが、近日中に実行に移すことを
決意したのでありました。
葛藤は覚悟で乗り越えられる。
パスポートを取りに行くか行かないかは自分次第。
取ったパスポートで旅行にいくか行かないかも自分次第。
まだまだ進化の途中でありますが
私の行きたい国へのパスポートはもう手の中にあって
すぐに入国許可が出ると信じることから始めます。
好きなものは好きと言います。
今日はそんなことを思った一日でした。
立夏。
いい風が吹いてました。
読み方は「かなまち」
お金の町!イエーイ素敵!!
金融街でもないこの下町のスターバックスに私は朝からお茶をしに行った。
「か」から始まるのに韓国ネタではありません。
その後に韓国語講座もしてきましたが、ブログは今日の午前中の話。
韓国語講座では日本語の筋肉と外国語の筋肉は発する音が違うのだから、使う場所が違うのは当然で、韓国語をネイテイブのように意識して話したら、表情筋は鍛えられて小顔になるだろうという結論に至りました。唐辛子や整形だけでなく、言葉自体が美容法だった!!に関しては
また書くことにいたしましょう。
さてさて、金町のスターバックスに行ったのは天職プロデユーサーの松田隆太さんと
お話をするためでしたのでございます。
隆太さんのブログはこちら↓
http://ameblo.jp/ryuta-matsuda/
出張バーテンダーで人のご縁をつないでるまちゃ兄からの紹介でご縁を頂いたわけです。
「天職」といっても直接的な職業、ということは勿論ですが、それが枝葉だとすると
自分の幹はどこに向かって伸びたいか、まあ、空に向かって、なんだけど、どんな人達が住んでいる国を自分のホームとするかみたいな、自分の行きたい国はどんな人達の集まる世界か、
パスポートのようなキーワードになる言葉、ライフワーク、みたいなことです。
窓際の席でそんな話をしていたら、なにやら視線を感じたわけで
さっきまで透明だった窓が・・・こんな感じに!

窓の向こうでちびっ子達が硝子に落書きをしているではありませんか!!
落書きデーというイベントだったそうで。
ああ!このペン欲しい!!
その時に話していたことは
「意味があることでないとやってはいけないのか?」
という意味付けについての
話をしていて、自分の「やりたい」よりもそれをする事に
「意味があるかないか」というブレーキを自分でかけてきたことに気がついたりしたのでした。
これをやったら仕事になるのか?とか
これはプラスになるのか?とか。
ちびっこは夢中で絵を描いていて、意味なんて考えてないです。
ミッキーちゃん!とかうさぎちゃんー!とかはあるかもしれないけど。
書きたいから書いている、瞬間。
それが、大事。
それがないと動けないから。
馬鹿じゃないの?と人が言おうが、自分がどう思うか。
どんな人がいる国に住みたいか?
誰と一緒にいたいか
湧いた感情をいいとか悪いとかジャッジしないで受け入れる器。
これを小さい神様は自然とやってきているのに、ランドセルを背負い、要らない物を背負い
大きな神様は不自由を感じられる程に自分が自由であることをいつしか忘れてしまうのです。
私は姪っ子の写真をよくフェイスブックにも挙げていますが、彼女と遊んでいると
本気で遊んでいるかどうか、子供には嘘はつけないと思わされます。
子供のように感情と向き合うことが出来なくなっている自分が癒されたりもします。
自分の瞬間の感情に向き合ったまま、大人になって欲しいと思うのですが
そのために私に何ができるか、どんな作品を作ればいいのか、とか思ったりもします。
19歳でサッカー選手をきっかけに韓国にいくことにした時
私は言葉も出来なければ、辛い物が大嫌いでキムチがまずいと思っていました。
でもあの時行動出来たのは、若さ、というのもあるけれど
「行く」「行きたい」って決めたから。決めちゃったんです。
当時は留学といえばアメリカで、韓国に何しにいくの??30年前の日本じゃねえか?とも言われました。韓流ブームも来ておらず、アジアよりも英語圏、でしたが同じ人であり、何より
私はパワープレーな感じが大好きで、住んだ事もないあんたに何がわかる??といった反発も手伝って、住んでみて考えよう、と思ったのでした。
自分を幸せにする覚悟。
自分と向き合って全部の自分の感情を一度受け入れる覚悟。
意味とお金は後からついてくる。
日々の葛藤でどこをホームで何をすべきか、
迷った時に大切にするかけらを見たような気がしたのでした。
それは自分が持っています。
ただ見ないフリをしているのです。その方が楽だったりもするから。
理由をつけてやらない方が楽だから。
やってみたいと思っていることを隆太さんに話してみたら
「いいじゃない~~!!」
何人かに言って「???」が飛んでいたのですが、近日中に実行に移すことを
決意したのでありました。
葛藤は覚悟で乗り越えられる。
パスポートを取りに行くか行かないかは自分次第。
取ったパスポートで旅行にいくか行かないかも自分次第。
まだまだ進化の途中でありますが
私の行きたい国へのパスポートはもう手の中にあって
すぐに入国許可が出ると信じることから始めます。
好きなものは好きと言います。
今日はそんなことを思った一日でした。
立夏。
いい風が吹いてました。
子供の日。韓国では「オリニナル」
中日は負けたけど、阪神の岩田選手が1型糖尿病の研究費の為に1勝10万円ずつ提供している
とのことで、ならば仕方がない。だって子供の日だもの!いいことしたね、ドラゴンス!
そして阪神!嗚呼、スポーツ、素晴らしきかな。
しかし、今日はオリニナルについては書かない。
お、お、お、大きな口の~木の実ナナ~しか浮かばないぞ。
ヤバい。
頭の中に流れる歌を変えようとして
♪落としものは何ですか~見つけにくい物ですか~
鞄の中も机の中も探したけれど見つからないのに~~まで唄ってみて、おい!探し物じゃね?
ということで「お」から始まる歌のコーナーは終了した。
今日のテーマはオランダです。
オランダで浮かぶのはチューリップと風車が一般的な気がするが、私が興味を持った理由は3つある。ひとつめはサッカーワールドカップのオランダ代表「ロッベン」
見た当時私は30歳になっていて完全に年上だと思っていたら28歳だった。
年下ーーーーー!!!!?キレッキレに右サイドから走る髪がなびかない逆三角形の筋肉。
他のメンバーもいいが、ロッベン、そしてオレンジと黒の組み合わせもなんてお洒落なんだ!と
私はそれ以降ワールドカップで密かにオランダを応援している。
スペインとの決勝で破れ、早朝4時に一人泣いたことを思い出す。
ふたつめは「教育」
だらだらと時間だけを過ごしてお給料をもらえればいいや~みたいな感覚に不安を覚える。
何かしないといけないような気になって、効率にかなりシフトしていた時がある。今は大分その呪縛は解けたがその頃に読んだ本で、リヒテルズ直子さんの「残業ゼロ 授業料ゼロで豊かな国 オランダ」であった。残業をすることで総生産はあがらない。個性を大事にして、受けたい授業を受けさせて各々の個性を生かす。子供達が国を背負っていくのだから。
小学4年生の頃、宿題で書いた読書感想文を先生に提出した。それが返されてみると評価がついている。Aに花丸、Aに丸、ただのAからBに丸、B、Cという評価に別れてそれぞれ作者に返されていく。そこで私は思った。
「思ったことを書いてなぜ人に評価されなくてはいけないのか?」
感想なんてものはどう思おうと自由だ。人にそう考えて下さい、と言われて思うものではない。
先生に評価の基準は何ですか?と聞いたが、明確な回答は得られず、消化不良のままだった。
漢字の間違いとか、書いてないなら判るが、自分の思いを評価されるというのはいかがなものか。私は文章を書くのが好きだったし、幸い学生時代の国語は得意だったから、批判もされなかったし傷はついていない。文章の上手か下手かよりも、今思えば大人が思って欲しいように思うことを表現するのが上手かった、ということなのかもしれない。
傷よりも怖い。小さい時は親の都合に関係なく食べたいと泣き、お菓子を食べては笑い、眠くなったら寝るカメハメハ大王のような自由さがあったはずなのだ。それをいつから失くしてしまうのだろう。合わせるということを覚えて自分との溝が深まる。なんて怖い。
極端な言い方かもしれないが、やりたくないことはやらなくてもいい、と思う。
自分との溝が深まっていることに気が付かないまま過ごしていくと、やりたいことが何なのかが見えなくなっていく。社会生活を破綻させるとか人を不快にさせることを推進しているわけではなく、自分の本質でどう思うか、本当の自分を見失ってしまうことほど怖いことはないと思う。
話が少しずれたが、それぞれが読み書きの最低限の能力の仕方を学ぶという教育を受けられて、自分で選択できる、選択することで自分に向き合うことを早い段階から提供することが大事なんではなかろうか。決めて与えるのではなく、選択肢をあげる、が理想だと思う。
シリアの国境に難民の子供たちのために日本が経済援助をして建てた桜小学校をテレビで見た。「読み書きが出来なかったら働くことは難しい。そのためにも学校を作って教育をすることはテロリストの予防にもなる」というのは確かにそうだと思った。
ビジネスだけでなく、教育もwin-winでなければならないんだと思う。そのためには人間ひとりひとりの芽をつまないことである。そういった意味でとても興味深い。
みっつめは「合法ドラッグ」合法で喫茶店で吸える国が教育先進国であることが凄い。
コインの裏表には問題はあるだろうが、両立しているところが興味深い。裏と表、明と暗、両方あってこそ、バランスが取れているのではないかしら、と思ってしまう。
まさかサッカー選手は吸ってないんだろうなと思うが、一度そんな所の風に吹かれてみたいと思う。どんな風であの風車は回っているのだろうか。自分のバランスもあんなふうにしっかり建って回り続けたい。
中日は負けたけど、阪神の岩田選手が1型糖尿病の研究費の為に1勝10万円ずつ提供している
とのことで、ならば仕方がない。だって子供の日だもの!いいことしたね、ドラゴンス!
そして阪神!嗚呼、スポーツ、素晴らしきかな。
しかし、今日はオリニナルについては書かない。
お、お、お、大きな口の~木の実ナナ~しか浮かばないぞ。
ヤバい。
頭の中に流れる歌を変えようとして
♪落としものは何ですか~見つけにくい物ですか~
鞄の中も机の中も探したけれど見つからないのに~~まで唄ってみて、おい!探し物じゃね?
ということで「お」から始まる歌のコーナーは終了した。
今日のテーマはオランダです。
オランダで浮かぶのはチューリップと風車が一般的な気がするが、私が興味を持った理由は3つある。ひとつめはサッカーワールドカップのオランダ代表「ロッベン」
見た当時私は30歳になっていて完全に年上だと思っていたら28歳だった。
年下ーーーーー!!!!?キレッキレに右サイドから走る髪がなびかない逆三角形の筋肉。
他のメンバーもいいが、ロッベン、そしてオレンジと黒の組み合わせもなんてお洒落なんだ!と
私はそれ以降ワールドカップで密かにオランダを応援している。
スペインとの決勝で破れ、早朝4時に一人泣いたことを思い出す。
ふたつめは「教育」
だらだらと時間だけを過ごしてお給料をもらえればいいや~みたいな感覚に不安を覚える。
何かしないといけないような気になって、効率にかなりシフトしていた時がある。今は大分その呪縛は解けたがその頃に読んだ本で、リヒテルズ直子さんの「残業ゼロ 授業料ゼロで豊かな国 オランダ」であった。残業をすることで総生産はあがらない。個性を大事にして、受けたい授業を受けさせて各々の個性を生かす。子供達が国を背負っていくのだから。
小学4年生の頃、宿題で書いた読書感想文を先生に提出した。それが返されてみると評価がついている。Aに花丸、Aに丸、ただのAからBに丸、B、Cという評価に別れてそれぞれ作者に返されていく。そこで私は思った。
「思ったことを書いてなぜ人に評価されなくてはいけないのか?」
感想なんてものはどう思おうと自由だ。人にそう考えて下さい、と言われて思うものではない。
先生に評価の基準は何ですか?と聞いたが、明確な回答は得られず、消化不良のままだった。
漢字の間違いとか、書いてないなら判るが、自分の思いを評価されるというのはいかがなものか。私は文章を書くのが好きだったし、幸い学生時代の国語は得意だったから、批判もされなかったし傷はついていない。文章の上手か下手かよりも、今思えば大人が思って欲しいように思うことを表現するのが上手かった、ということなのかもしれない。
傷よりも怖い。小さい時は親の都合に関係なく食べたいと泣き、お菓子を食べては笑い、眠くなったら寝るカメハメハ大王のような自由さがあったはずなのだ。それをいつから失くしてしまうのだろう。合わせるということを覚えて自分との溝が深まる。なんて怖い。
極端な言い方かもしれないが、やりたくないことはやらなくてもいい、と思う。
自分との溝が深まっていることに気が付かないまま過ごしていくと、やりたいことが何なのかが見えなくなっていく。社会生活を破綻させるとか人を不快にさせることを推進しているわけではなく、自分の本質でどう思うか、本当の自分を見失ってしまうことほど怖いことはないと思う。
話が少しずれたが、それぞれが読み書きの最低限の能力の仕方を学ぶという教育を受けられて、自分で選択できる、選択することで自分に向き合うことを早い段階から提供することが大事なんではなかろうか。決めて与えるのではなく、選択肢をあげる、が理想だと思う。
シリアの国境に難民の子供たちのために日本が経済援助をして建てた桜小学校をテレビで見た。「読み書きが出来なかったら働くことは難しい。そのためにも学校を作って教育をすることはテロリストの予防にもなる」というのは確かにそうだと思った。
ビジネスだけでなく、教育もwin-winでなければならないんだと思う。そのためには人間ひとりひとりの芽をつまないことである。そういった意味でとても興味深い。
みっつめは「合法ドラッグ」合法で喫茶店で吸える国が教育先進国であることが凄い。
コインの裏表には問題はあるだろうが、両立しているところが興味深い。裏と表、明と暗、両方あってこそ、バランスが取れているのではないかしら、と思ってしまう。
まさかサッカー選手は吸ってないんだろうなと思うが、一度そんな所の風に吹かれてみたいと思う。どんな風であの風車は回っているのだろうか。自分のバランスもあんなふうにしっかり建って回り続けたい。
「え」
「エ」は韓国語で「애」(他にも書き方はあるが明るい方のエの発音)
韓国語は子音(左)+母音(右)で構成されているが母音のㅐとカタカナのエ、
横にすると同じではないか!
それを書こうと思った訳ではなく、「え」なので
エクセルシオールカフェでエルビスプレスリーとかエマニエル夫人の絵でも書こうと思ったが
今日の経路にエクセルシオールカフェは無く、駅に着いてしまったので
大人しく家で書いている次第である。
一応劇団に所属しているのだから、演劇について書けよと言われそうなものだが
書きません。昨日の「う」でウルフルズを迷わず選んだが、この50音から50日間は書くという縛りのお陰で、うどんだけを讃岐に食べに行くツアー3日間についてのことはしばらく書けないのかー
と一人早くも後悔しそうになっているがまあ良い。
今日は「え」なのだ。
スピードワゴンの小沢さんの名言ではないが、人に出会うのは本当にキセキなのだと思う。
会った瞬間にこの人と付き合う!とビビビと来る経験は私にはないが、アンテナが立った!
「キターーーー!」と思ったことが過去に何度かある。それについて語るというわけではなく
この思考に至ったには「え」から始まる言葉を考えていて、浮かんだ言葉がエキゾチックジャパンだったからである。そう、郷ひろみだ。郷ひろみといえば松田聖子だ。だからビビビ。
エキゾチックとは異国情緒あふれるという意味らしいが、エキゾチック物質という言葉があり、
突然違った要素を持って変異した物質ということを表すらしい。
異国情緒あふれる変異した物質@ジャパンってなんだ?と思いながら郷さんの歌の歌詞を調べてみた。国鉄の最後のキャンペーンがエキゾチック・ジャパンだったのか、ふむふむ。
人口1億2千万人の瞳の数であることはわかった。
歌詞の中に抱きしめて男も女もハーフも、なんてあるんだなあ。知らなかった。
レイザービームのイメージが強すぎて記憶に全くございません、だし、ヒットした当時聞いていた訳ではないけれど、日本に住んでいる人達、いや観光客招致というか国鉄のキャンペーンなのだから日本列島に訪れた皆様国籍関係なく、みんな目がギラギラしている、日本の楽しさに魅せられてエキゾチックジャパ~ン!!って突然変異するくらい素晴らしいぜー!!ジャケットもそりゃあ脱いじゃうぜ!ってな意味なんではないかしら、とこの「え」について考える意味のあるようなないような時間を過ごしている。
嗚呼、今日は谷繁が4打数4安打、しかも3ランだなんて。
素敵だなあ。そろそろスポーツニュースを見たいのでえについて考える時間はすっぱりと終わりにする。笑っていいとも!みたいに「ええええ~~~っ」て冷やかしでもいいから思いっきり言われたいぜ。
明日もエキゾチックジャパンでありますように。
「エ」は韓国語で「애」(他にも書き方はあるが明るい方のエの発音)
韓国語は子音(左)+母音(右)で構成されているが母音のㅐとカタカナのエ、
横にすると同じではないか!
それを書こうと思った訳ではなく、「え」なので
エクセルシオールカフェでエルビスプレスリーとかエマニエル夫人の絵でも書こうと思ったが
今日の経路にエクセルシオールカフェは無く、駅に着いてしまったので
大人しく家で書いている次第である。
一応劇団に所属しているのだから、演劇について書けよと言われそうなものだが
書きません。昨日の「う」でウルフルズを迷わず選んだが、この50音から50日間は書くという縛りのお陰で、うどんだけを讃岐に食べに行くツアー3日間についてのことはしばらく書けないのかー
と一人早くも後悔しそうになっているがまあ良い。
今日は「え」なのだ。
スピードワゴンの小沢さんの名言ではないが、人に出会うのは本当にキセキなのだと思う。
会った瞬間にこの人と付き合う!とビビビと来る経験は私にはないが、アンテナが立った!
「キターーーー!」と思ったことが過去に何度かある。それについて語るというわけではなく
この思考に至ったには「え」から始まる言葉を考えていて、浮かんだ言葉がエキゾチックジャパンだったからである。そう、郷ひろみだ。郷ひろみといえば松田聖子だ。だからビビビ。
エキゾチックとは異国情緒あふれるという意味らしいが、エキゾチック物質という言葉があり、
突然違った要素を持って変異した物質ということを表すらしい。
異国情緒あふれる変異した物質@ジャパンってなんだ?と思いながら郷さんの歌の歌詞を調べてみた。国鉄の最後のキャンペーンがエキゾチック・ジャパンだったのか、ふむふむ。
人口1億2千万人の瞳の数であることはわかった。
歌詞の中に抱きしめて男も女もハーフも、なんてあるんだなあ。知らなかった。
レイザービームのイメージが強すぎて記憶に全くございません、だし、ヒットした当時聞いていた訳ではないけれど、日本に住んでいる人達、いや観光客招致というか国鉄のキャンペーンなのだから日本列島に訪れた皆様国籍関係なく、みんな目がギラギラしている、日本の楽しさに魅せられてエキゾチックジャパ~ン!!って突然変異するくらい素晴らしいぜー!!ジャケットもそりゃあ脱いじゃうぜ!ってな意味なんではないかしら、とこの「え」について考える意味のあるようなないような時間を過ごしている。
嗚呼、今日は谷繁が4打数4安打、しかも3ランだなんて。
素敵だなあ。そろそろスポーツニュースを見たいのでえについて考える時間はすっぱりと終わりにする。笑っていいとも!みたいに「ええええ~~~っ」て冷やかしでもいいから思いっきり言われたいぜ。
明日もエキゾチックジャパンでありますように。
三日め→「う」
う、ならばこれしかない。
これを避けて私を語れまい。
ウルフルズ。
「ガッツだぜ!」のヒットの前にレコード屋さんで「さんさんさん」のプロモーションビデオを見てなんだこれ?と思った。
面白い。
ビジュアル系でないし、かっこいいのかも分からない。でも気になるしかっこいい。何が好きか今思えば飾らないところ。捻ればいいのにって姑息な手段で嘘をつかない感じがたまらなく人間くさくて大好きだ。
四人に出会った頃は高校生活がしんどくて、いい子を演じるのに必死な私。学校の愚痴を部活が終わって遅くに帰宅して親にマシンガンの如く放つ自分が許せない。私立の高い学費を払って愚痴を聞かせる子供を産んで、家の親はかわいそうだと思っていたけど、言わずにはいられなかった。そんな中でそのままでいいと言ってくれているような気がして、本当に出会えて良かったと思うバンドなのだ。
勝手な思い込みだがたくさん助けて貰った。
韓国に留学するときに、韓国語を勉強しにいくから日本の歌はいらないと思ったが、ウルフルズのCDだけは持っていった。
20代前半をたくさん助けてくれたバンド。
好きすぎて去年間近で会えた時はもう何も言えなかった。
好きすぎると人間てこうも弱いんだと思った。
もしも一緒にお酒が飲めたなら、そんなことにはならない成長を遂げたい。
鏡は先に笑わない。
私の大好きな言葉だが、まず笑わないと回りは笑えない。
ギターのケイスケさんが笑った顔が大好きで、笑顔は人を幸せにする、その為に笑う、は、自分が苦しくても笑う、は世界を救うと思う。
それに加えてギターを弾く腕の血管が素敵すぎる。
私は腕の血管と上腕筋が激しく好きなのだけど、もうね、セクシーなのだ。ギターを構える腰の角度と腕の角度と浮き出た血管のバランスがセクシーすぎる。その上ナイスカッティング。
そして一番目立つトータスの歌やセンスも大好きなのだけど
陰で支えるリーダーはウルフルケイスケ、なのだ。
リーダーでありながら謙虚、子供のような強引さを兼ね備えてしまっている私からしたら、あー!と感心させられることしきりなのです。
謙虚でありながら存在感がある、ああいう人に私はなりたい。
プロモーションビデオのくだらなさも最高なのだ。
まわりにいるスタッフのセンスの良さも伺える。いちいち解説したい気もするが、見てもらった方が早いので上映希望の方は最寄の三井田までメッセージをください。
アホアホパワー
このスローガンはメールアドレスに無断借用しているくらい大好きで
人生は基本、ネタ集めだと思っている。
いや、スタンプカードかオリエンテーリングか。
「回るべき」ポイントに運ばれてスタンプを集める。
集まったー!と自己満足して消える。
彼等は私のオリエンテーリングのヒントをくれる。
スタンプ集めの最中に素敵なヒントをくれる。
まいどハッピー。
結局生きているのだから、どの瞬間もハッピーだと思えているのが
やっと見つけた「いい女」なんだと思う。
活動休止を経て、活動再開。
私もそろそろ本気で生きて楽しもうと思う。
う、ならばこれしかない。
これを避けて私を語れまい。
ウルフルズ。
「ガッツだぜ!」のヒットの前にレコード屋さんで「さんさんさん」のプロモーションビデオを見てなんだこれ?と思った。
面白い。
ビジュアル系でないし、かっこいいのかも分からない。でも気になるしかっこいい。何が好きか今思えば飾らないところ。捻ればいいのにって姑息な手段で嘘をつかない感じがたまらなく人間くさくて大好きだ。
四人に出会った頃は高校生活がしんどくて、いい子を演じるのに必死な私。学校の愚痴を部活が終わって遅くに帰宅して親にマシンガンの如く放つ自分が許せない。私立の高い学費を払って愚痴を聞かせる子供を産んで、家の親はかわいそうだと思っていたけど、言わずにはいられなかった。そんな中でそのままでいいと言ってくれているような気がして、本当に出会えて良かったと思うバンドなのだ。
勝手な思い込みだがたくさん助けて貰った。
韓国に留学するときに、韓国語を勉強しにいくから日本の歌はいらないと思ったが、ウルフルズのCDだけは持っていった。
20代前半をたくさん助けてくれたバンド。
好きすぎて去年間近で会えた時はもう何も言えなかった。
好きすぎると人間てこうも弱いんだと思った。
もしも一緒にお酒が飲めたなら、そんなことにはならない成長を遂げたい。
鏡は先に笑わない。
私の大好きな言葉だが、まず笑わないと回りは笑えない。
ギターのケイスケさんが笑った顔が大好きで、笑顔は人を幸せにする、その為に笑う、は、自分が苦しくても笑う、は世界を救うと思う。
それに加えてギターを弾く腕の血管が素敵すぎる。
私は腕の血管と上腕筋が激しく好きなのだけど、もうね、セクシーなのだ。ギターを構える腰の角度と腕の角度と浮き出た血管のバランスがセクシーすぎる。その上ナイスカッティング。
そして一番目立つトータスの歌やセンスも大好きなのだけど
陰で支えるリーダーはウルフルケイスケ、なのだ。
リーダーでありながら謙虚、子供のような強引さを兼ね備えてしまっている私からしたら、あー!と感心させられることしきりなのです。
謙虚でありながら存在感がある、ああいう人に私はなりたい。
プロモーションビデオのくだらなさも最高なのだ。
まわりにいるスタッフのセンスの良さも伺える。いちいち解説したい気もするが、見てもらった方が早いので上映希望の方は最寄の三井田までメッセージをください。
アホアホパワー
このスローガンはメールアドレスに無断借用しているくらい大好きで
人生は基本、ネタ集めだと思っている。
いや、スタンプカードかオリエンテーリングか。
「回るべき」ポイントに運ばれてスタンプを集める。
集まったー!と自己満足して消える。
彼等は私のオリエンテーリングのヒントをくれる。
スタンプ集めの最中に素敵なヒントをくれる。
まいどハッピー。
結局生きているのだから、どの瞬間もハッピーだと思えているのが
やっと見つけた「いい女」なんだと思う。
活動休止を経て、活動再開。
私もそろそろ本気で生きて楽しもうと思う。
二日め「い」
いからはじまるならば、もう決まりだ。
いとうせいこう。
いとうせいこうになりたい。いや、なってみたい、が正しい。
伊集院光になりたいとラジオを聞いて思ったことがあったが、小さいときから痩せていた経験もなく、女子は45キロ以下よね!みたいな風潮の頃に死んでも言えないとちょっとの自尊心が私を止めたものである。
落語家か講談か、ジャンルを問わずに芸人になるか真剣に考えてT師匠に入門を相談していた頃のことである。いや、落語は最高だよ。寝る前に聞いて下げまで行かれたことが片手で余るくらいしかない。鉄板の睡眠薬だし、なんか落ち着く。と、噺がずれているが、言葉で想像に委ねる、お客さんを、人間の想像力を信じている、これがいい。生身の人間が出ているだけで他は見ている人の感じ方による。
「じいさんを演ったらやっぱり男が上手くて、婆さんをやっても男のが上手いから俺は女は取らない」というのは前述の師匠の言葉だが、私はこれにひどく納得して入門はしなかった。婆さん、もうね、青島幸男か桑原和男かくらいのもんだ。ああはなれない。
だからと言っていとうせいこうにはなれる!みたいな失礼なことが言いたいのではなくて、どう繋がるかというと「想像ラジオ」はめちゃめちゃ面白かった。ゴドーとか、したコメとかなんかもうついてくるのが新しすぎず古すぎず、そしていろんなことをしておられる。でもはっきり何してる人、ではないのに絶対に自分の人生を楽しんでおられる。いや、自分の喜ばせ方を知っておられる、そんな気がするのだ。自分の中にある才能の芽を余さず水をあげている感じ。ひとつのプランターにチューリップとヒヤシンスを植えて喧嘩をしていない上に仙人掌や食中植物までが揃い、しかも元気に虫を食べている!スーパープランターだよ!そして鳥までさえずりに来たよ!みたいなことなのである。
そうだ、きっとそうだ。一度ぜひ、いや、必ずお会いしたい。
浅草を散歩するたびにどこかにいとうさんいないかしらん?と根拠のない淡い期待を抱いてしまう。
今日もあたたかいなあ、だて眼鏡で、そうだ、散歩にいこう。
と書いてみたものの、そんな時間はない現実と空想の間で揺れるゴールデンウイーク、皆様素敵な連休をおすごしください。
以上、いとうせいこうになりたい。
誰かお知り合いいらしたら繋げてください。おねがいします!
いからはじまるならば、もう決まりだ。
いとうせいこう。
いとうせいこうになりたい。いや、なってみたい、が正しい。
伊集院光になりたいとラジオを聞いて思ったことがあったが、小さいときから痩せていた経験もなく、女子は45キロ以下よね!みたいな風潮の頃に死んでも言えないとちょっとの自尊心が私を止めたものである。
落語家か講談か、ジャンルを問わずに芸人になるか真剣に考えてT師匠に入門を相談していた頃のことである。いや、落語は最高だよ。寝る前に聞いて下げまで行かれたことが片手で余るくらいしかない。鉄板の睡眠薬だし、なんか落ち着く。と、噺がずれているが、言葉で想像に委ねる、お客さんを、人間の想像力を信じている、これがいい。生身の人間が出ているだけで他は見ている人の感じ方による。
「じいさんを演ったらやっぱり男が上手くて、婆さんをやっても男のが上手いから俺は女は取らない」というのは前述の師匠の言葉だが、私はこれにひどく納得して入門はしなかった。婆さん、もうね、青島幸男か桑原和男かくらいのもんだ。ああはなれない。
だからと言っていとうせいこうにはなれる!みたいな失礼なことが言いたいのではなくて、どう繋がるかというと「想像ラジオ」はめちゃめちゃ面白かった。ゴドーとか、したコメとかなんかもうついてくるのが新しすぎず古すぎず、そしていろんなことをしておられる。でもはっきり何してる人、ではないのに絶対に自分の人生を楽しんでおられる。いや、自分の喜ばせ方を知っておられる、そんな気がするのだ。自分の中にある才能の芽を余さず水をあげている感じ。ひとつのプランターにチューリップとヒヤシンスを植えて喧嘩をしていない上に仙人掌や食中植物までが揃い、しかも元気に虫を食べている!スーパープランターだよ!そして鳥までさえずりに来たよ!みたいなことなのである。
そうだ、きっとそうだ。一度ぜひ、いや、必ずお会いしたい。
浅草を散歩するたびにどこかにいとうさんいないかしらん?と根拠のない淡い期待を抱いてしまう。
今日もあたたかいなあ、だて眼鏡で、そうだ、散歩にいこう。
と書いてみたものの、そんな時間はない現実と空想の間で揺れるゴールデンウイーク、皆様素敵な連休をおすごしください。
以上、いとうせいこうになりたい。
誰かお知り合いいらしたら繋げてください。おねがいします!
一日目。
はじめの50日は50音、順番に書きます。
本日初日「あ」
あったかいんだからあ~
淡谷のり子
あすか
あかり(→妹の名前)
愛と誠(→ガム子!!)、あの~~すば~らしいあーいーをーもう一度~~~♪
・・・みたいな単語が思い浮かぶのですが
今日は「愛と恋って違うんだ?」
7年くらい前にとある劇団にちょっとだけ入っていて、その公演での私の台詞。
オムニバスでコンテンポラリーダンスみたいなところもあって、なにがなんだかよくわからず、
稽古場で演出が灰皿を片手に怒鳴り散らしていたのが記憶の8割。
本当にえらいところに来ちまったぜ!とはこの事で、国内にいてもこんなに身の危険を感じるなんて!とあの稽古場は完全に日本の安全神話が崩壊していた。
内容はもうすでにあんまり覚えていないけど、はじめにマネキンとして運ばれて出て来て
次に何故か天使みたいな格好で↑上の台詞を言う。
その後の短編は売れない夫婦漫才師の奥さんの役で、おもろない旦那に切れまくるもやっぱり
旦那が好き!みたいなことだった。
稽古が終わった後の公演で終電まで私たちは毎日漫才を練習した。
といっても誰が教えてくれるわけではないから芸人さんに憧れる大学生、くらいに見えていたかは定かではないが笑わせるのって辛いね、みたいなことを言って苦笑いしていた記憶はある。
その苦痛でしかない伝説の公演(知り合いでは2名だけが目撃しているが)が終わり、その集団はなくなっていた。このトラウマで私は表に出たいということをこの後、去年まで封印することになる。
「あ」から始まる言葉を考えた末、劇団の思い出が出て来て、この台詞。
「愛」と「恋」は違うと思う。ではどう違うのか、簡単に言えば私は愛には執着がなくて
恋には執着がある、の気がする。
恋だったら、四六時中その人が何をしているか、小さなことが気になって仕方がない。
愛だと、親子愛のように、離れていても、無事で入ればいい、みたいな分け方なのではないかと思うのだが、恋と愛がくっついたのが恋愛ってやつだ。こいつはかなり手強い。
フラカンの歌詞ではないがまさにしたの心が人間を変にもさせる。
こいつの一撃で再起不能寸前まで行く破壊力たるや、
もはや亀田兄弟のパンチ力どころではないよ。
全盛期のアーツだってかなわないくらい、ミルコクロコップくらいの破壊力?(イメージ映像)
頭ではわかっていても、その人のことばかり考えてしまったり、生産性がないどころか自分をマイナスの渦へと引き込みかねないということが判っていても、恋が強い時は突っ走り、愛が強いと落ち着いていられる気がする。どんな状況になってもそれでもいいの!その人のことが私は好きだから!よりもその人が大切だから!に覚悟が決められた時を愛と呼ぶと私は勝手に思っているのだけど。
韓国に1999年に初めていって、3ヶ月のつもりが6年半いることになり、
親は「何をいっても聞かないから、好きなようにさせるしかない」と言い、諦めていた。
きっと諦めてきたのだろうが、今よりも韓国国内で販売している日本の食品は種類も少なく
高かったので日本食を送ってくれたり、それに入っている手紙。
元気でいてくれたらいい、と産まれたときから思っていてくれているのは
すごいことなんだなあーと「愛」という単語を聞くといつもそんな風に思っていた。
その温かさも超ド級ならば、衝撃も超ド級なのだ、愛は。
恋程度ならどっちに転んでもかすり傷なのだよ。
去年私は実家に一旦戻った。
色々理由もあったが、親が元気なうちに一緒にいるのも悪くないし、そんなに長くないしと
勝手に思っていたが、先日の両親のショッキングな一言。
「うち売ってお父さんと二人で暮らすことも考えてるから、
あんたは自分のこれから考えなさいよ」
そうかあ。親の愛、ですなあ。
私は親の愛情を受けて、獅子の谷へともう一度出陣をしようとしている。
愛とは偉大である。
はじめの50日は50音、順番に書きます。
本日初日「あ」
あったかいんだからあ~
淡谷のり子
あすか
あかり(→妹の名前)
愛と誠(→ガム子!!)、あの~~すば~らしいあーいーをーもう一度~~~♪
・・・みたいな単語が思い浮かぶのですが
今日は「愛と恋って違うんだ?」
7年くらい前にとある劇団にちょっとだけ入っていて、その公演での私の台詞。
オムニバスでコンテンポラリーダンスみたいなところもあって、なにがなんだかよくわからず、
稽古場で演出が灰皿を片手に怒鳴り散らしていたのが記憶の8割。
本当にえらいところに来ちまったぜ!とはこの事で、国内にいてもこんなに身の危険を感じるなんて!とあの稽古場は完全に日本の安全神話が崩壊していた。
内容はもうすでにあんまり覚えていないけど、はじめにマネキンとして運ばれて出て来て
次に何故か天使みたいな格好で↑上の台詞を言う。
その後の短編は売れない夫婦漫才師の奥さんの役で、おもろない旦那に切れまくるもやっぱり
旦那が好き!みたいなことだった。
稽古が終わった後の公演で終電まで私たちは毎日漫才を練習した。
といっても誰が教えてくれるわけではないから芸人さんに憧れる大学生、くらいに見えていたかは定かではないが笑わせるのって辛いね、みたいなことを言って苦笑いしていた記憶はある。
その苦痛でしかない伝説の公演(知り合いでは2名だけが目撃しているが)が終わり、その集団はなくなっていた。このトラウマで私は表に出たいということをこの後、去年まで封印することになる。
「あ」から始まる言葉を考えた末、劇団の思い出が出て来て、この台詞。
「愛」と「恋」は違うと思う。ではどう違うのか、簡単に言えば私は愛には執着がなくて
恋には執着がある、の気がする。
恋だったら、四六時中その人が何をしているか、小さなことが気になって仕方がない。
愛だと、親子愛のように、離れていても、無事で入ればいい、みたいな分け方なのではないかと思うのだが、恋と愛がくっついたのが恋愛ってやつだ。こいつはかなり手強い。
フラカンの歌詞ではないがまさにしたの心が人間を変にもさせる。
こいつの一撃で再起不能寸前まで行く破壊力たるや、
もはや亀田兄弟のパンチ力どころではないよ。
全盛期のアーツだってかなわないくらい、ミルコクロコップくらいの破壊力?(イメージ映像)
頭ではわかっていても、その人のことばかり考えてしまったり、生産性がないどころか自分をマイナスの渦へと引き込みかねないということが判っていても、恋が強い時は突っ走り、愛が強いと落ち着いていられる気がする。どんな状況になってもそれでもいいの!その人のことが私は好きだから!よりもその人が大切だから!に覚悟が決められた時を愛と呼ぶと私は勝手に思っているのだけど。
韓国に1999年に初めていって、3ヶ月のつもりが6年半いることになり、
親は「何をいっても聞かないから、好きなようにさせるしかない」と言い、諦めていた。
きっと諦めてきたのだろうが、今よりも韓国国内で販売している日本の食品は種類も少なく
高かったので日本食を送ってくれたり、それに入っている手紙。
元気でいてくれたらいい、と産まれたときから思っていてくれているのは
すごいことなんだなあーと「愛」という単語を聞くといつもそんな風に思っていた。
その温かさも超ド級ならば、衝撃も超ド級なのだ、愛は。
恋程度ならどっちに転んでもかすり傷なのだよ。
去年私は実家に一旦戻った。
色々理由もあったが、親が元気なうちに一緒にいるのも悪くないし、そんなに長くないしと
勝手に思っていたが、先日の両親のショッキングな一言。
「うち売ってお父さんと二人で暮らすことも考えてるから、
あんたは自分のこれから考えなさいよ」
そうかあ。親の愛、ですなあ。
私は親の愛情を受けて、獅子の谷へともう一度出陣をしようとしている。
愛とは偉大である。