わたし理論〜みいだあすか1000日コラム〜

わたし理論〜みいだあすか1000日コラム〜

三井田明日香が感じたことを書きます。
続かぬなら、続けてみよう、ホトトギス。
     2015年5月1日より

Amebaでブログを始めよう!
調布FMのラジオにゲストで呼んで頂きました。
放送は6月末予定です。
自分は何ものなのか?を肩書き、とか言った意味で改めて考えさせられますが

私はどーーーーーしようもなく面倒くさい700億円の女です。

どういうことよ?
なんだそれ。

そう思われるかと思いますが、
ここ最近の自分の悩みから書くと、しなきゃいけないのですが
しようとすると動けなかったり、でもこんなはずじゃないのになあーと思って余計に動けなくなっての悪循環、な感じで過ごしているもやもや感が常にあって、何をやりたいのか、何をするために生きているのかしら?というところをぐるぐるする。
それを克服する為には「自己肯定感」を上げる、というところにいきつくのですが
じゃああそれをあげるってどう考えりゃいいのよ???現状こんなんなんですけど、という
いわばくだらないとも人によっては言えそうな慢性的な悩み。
考えなけりゃいいじゃない?という声も聞こえてきそうなのですが、事実、私は考えていて、
自分が産まれてきた使命を早く知りたいし
知らないこの自分が「申し訳ない」ということで頭がいっぱいなのでした。

ラジオでも過去の旅に関して少し触れた部分がありますが
ヒッチハイクだったり、一人旅だったり
「それ大丈夫なの?」と電波少年的な旅に憧れて、外に出たいでたいと思ってきました。

「認められたい」
「いていいと確かめたい」
「必要とされたい」

常に確かめたかったんです。
自分がそこにいていいのか。
いい、とか悪いとかじゃなく、事実「いる」んだよなあ。
存在してるの。
それを当たり前と思い過ぎてる。

そして口でありがとう、って言うことはできるけど
「感謝」が本当に出来ているのか?できていない気がしていて
感謝出来てない自分を認めたくもなく、色んなものに蓋をしてきました。

マザーテレサがお腹が減っていてもパンを分け与えるのは
なぜか、嘘ではないか?
そう思ってインドに行ってみたり。

カンボジアの人達が貧しくても笑っていられるのはなぜか?と
思ってカンボジアに行ってみたり。

こういう今まで選んできたことの中に自分を確かめたいと思ってした行為というのは
沢山あって「鉄砲玉みたい」とか言われた事もありましたが、
私、本当はそんなんじゃないんです。

今までのイメージでどんな風に見られているかわかりませんが
そんなんじゃなかったんです。

どこに価値をおいているのか、とか
どう思っていたか、とか

出来ない自分=悪い事=嫌われる
こう思った自分=悪い事=嫌われる=傷付く という自分が経験で判断して来た理論を持って
判断した行動に移してきたわけです。

色んな人に迷惑をかけて
「ありがとう」と言ってくれたことにも疑心暗鬼になったりして
理屈っぽく、試したくなる、面倒くさい女。

それが私であるということを見ないために
見せないために、嫌われないように頑張ってきた。
そうあることを美徳としてきた自分を否定してるよなあ。

「できません」
って言いたくなくて人に仕事を任せられなかったこととか。

やらなくてはいけないことって勿論あるんですけど
その先に何があると思っているか、いないか、自分が納得出来ているときの方が
確実にエンジンがかかるのです。私の場合は。

それがわからないまま、エンジンをかけてはエンスト
掛けてはエンスト、そしてガソリンスタンドがないと大騒ぎ、を
してきた気がしますが、

実は私鉄砲玉でいたいわけではなかったということに気がついたのです。
ここからどうなっていくかはわかりませんが、
ここまでを自分で整理するためには私は結構な時間と経験を要しました。
私には必要でした。

傷つきたくないから、恐怖を無くす為に頭で考えて、嘘をつく。

自分に嘘をついて生きてきました。
その時は嘘だとか思ってません。
自分を守るためだから、自分を大切にしているから頭で考える。
うむ、理屈っぽい。

無条件できません、って言える環境を選んで外国に行く、とか
普段演じているのに,舞台に出て何が楽しいの?と思って出るのやめたとか
過去に意味をつけるとしたならば一番今の自分に「しっくり」くる。

今から本当にどうなるかわかりません。
マイナスのどうなるかわからない、ではなくて
何をすべきかを少なくともマイナス方向ではなくて
嘘をつかずに動けると思う気がする。

これをまちゃという男と話して得た結果なのですが
この人、めっちゃおもしろい。面白い、いや興味深い、だな。
なんでそう思うかは会ってみたらわかります。


本が万人受けするように書かれているとするならば
この人は個人様にオーダーして書いてくれる作家さんみたいな感じなのです。

人は経験で色んなことを判断しようとするけれど
人を助けられるのもまた経験によるものだと思います。

経験を持って人を助けている人だとも思うし
私も自分の経験を人の役に立てたい、と思うのでした。

今の資質はやり尽くしたところで
人は飽きます。

飽きるまで出し尽くして
感じ尽くして
味わい尽くす。

これに納得するまでに僕は34年かかったよー!と思う日曜日。
まちゃ兄のブログはこちらですよ↓↓↓


http://ameblo.jp/pou-sto/


こんな子ですが周りにいてくださる皆様本当にありがとうございます。
これからですね、がんばらずにがんばります。
そしていつもすみません。ありがとう。



「つ」

都合により、書きたいものがしばらくあるのでちょっとお休みするかもしれません、現在22頁。

都合のいい女ではいたくない。
都合とは自分本位なものだ。

疲れた、と言うのは辞める。
疲れるほど何もしていないと思え。
疲れても愛があれば話は聞いてくれる。
疲れたと逃げるのは愛がないと証明しているようなものだ。

疲れる相手とでも何を共有できるかぶつけていくのが人間だから
それを面白がりたいから僕は演劇をやる。






ちょっとの勇気。
このblogの前のタイトル。
はじめにブログをつくった時のタイトル。

私はまたちょっとの勇気を持てないでいて
自分のアイデンティティは空豆のようなものだということを
忘れつつあり、
自分のすべきことは感情の解放であることとむかえあえずにいる。
ちっぽけなのです。

伊坂幸太郎さんの新作を読んで
小説に自分の想いをぶつけるべく
書き上げようとしてまだ5頁くらい。

ちょっとの勇気を早くださなければ。
エンジンをかけなければ。

もう一度‥‥韓国に行こうかな。
私のアイデンティティとは中間にあるものなのかもしれない。
僕は昏睡状態のように眠ってしまい、カレンダーが捲れるペラペラという音に無意識に焦りを感じているかのようだった。

頬に当たる風が変わってきても、僕はここにいる。
天井を見上げて起きるかどうかを考えてから体を起こそうとするが
重力には逆らえないと素直に体を沈めてみる。

このまま沈んでしまう、と思ったのはクメール王朝の取材で訪れた都市の屋台でビールを飲んでいた時 以来二度目、いや、二度ではないのかもしれないが、その間の記憶はない。

あの時は居心地が良すぎて馴れ合いの渦に沈んでしまうかと思った。
それが怖かった。僕は高みに、もっと高みに行きたかった。
ここで終われない、そう思った。

それから僕はだいぶ歩いてきたけれど、ここに寝ている。
床から少し高いだけのベッドに。

どうして僕は動けないんだろう。

体が沈んでいる。

寝ておきた。
睡眠不足ではない。
寝ておきた。

眠くもない。

ただ、どうして起きたのか。がわからず、ベッドに沈んでいる時間でやり過ごそうとしている。

なにもしないで寝ているだけでは酷く自分が体たらくの役に立たない人間のような気がして、もう弱者は懲り懲りだ、必要とされたい、と焦ると同時に窓の外に子供の声が聞こえる。明るくていい声。

楽しそうに笑っている。

あの頃の僕は親に気に入られようと必死だったのかな。
いい子でいたら側においてもらえると思っていたのかな。

母が病気になり、僕は預けられた。
その寂しさからなのか、僕はただ、どんな風でも愛している、ということを言ってほしかっただけで、一番の弱者に成り下がっても必要としてくれているのか試してきたのかもしれない。

苦しいとか、大変だと言われることを解決してでないと
僕のいる価値はない、と思ってきたのかも知れない。
だから、寝ている自分に罪悪感を持ち、人からの称賛を受けるために
僕は人を殺してきた。そして自分をも殺してきた。

今自分を責めても仕方がない。
ただ僕が目が覚めた、という事実。
目が覚めた奇蹟が僕に起きた。
その奇蹟を生かせていない、開放できていないことが腹立たしいのだ。

僕があの世界に戻るまで、僕はまた目覚め続ける。

必要とされないことが一番悲しい。
僕はもう悲しく在りたくはない。
誰も殺したくはない。

拭いても取れない血の臭いがついた祖母から貰ったお気に入りのシャツを捨てられない。

僕が高いところへ戻るときまで
僕はまた目覚め続ける。

僕に奇蹟が起き続ける。
そして、君に逢えるということで僕は安心している。
修行者の様に弱者を知りたくて、羽を折って自分がまさに弱者になってしまった。
ミイラ取りがミイラになる、が当てはまるかもしれないね。

平仮名だかカタカナだか価値だか勝ちだか判らないんだけど
僕が大好きな君だから、君が呼んでって言ったその名前は正しいんだと思うよ。
ひとまず「かっち」と呼ぶよ。

まだ見ぬ「かっち」へ

僕は巡礼者のように長い道のりを歩いてきて、先に何があるのかもわからずに
ほとほと疲れてしまって、早く先がみたい、もしくはもう自分自身がいなくなりたいとさえ思ってしまっていたんだ。

僕たちは間違いなく戦友だった。一軍となってあの美しい場所を目指している途中で
僕らは離ればなれになってしまった。
その後、無駄かとも思える位の年月を君を捜してきた。
そして君も僕を捜してくれていたんだってね、本当に本当にありがとう。
もう謝らなくていいから、早く会いに来てよ。

その場所についたら一緒に暮らそうって約束を守れなくてごめん、って
それは仕方がないよ。制定された規則で僕らはお互いのコミュニテイから出ることができなかった。でも遂に君に逢えることがわかった。いてくれるということが判って僕は満足だ。

辛い時にいてくれるだけで、どんなことでも乗り越えられて不安がなくなる、
僕たちはお互いに力を分け与えられる似た者同士の最強コンビなんだ。

再会したら、美味しいものを沢山食べよう。
はじめは距離があっても構わない。
離れていた時間が長いから仕方がないよ。

でも、中学校の友だちみたいにすぐに僕らは仲良くなれるんだろうね。
距離なんか一気に縮まる。戦友以上になる。

言っておくけど、僕は本心でぶつかりたいよ。
時に嫌なことをいうかもしれないけど、ちょっとやそっとじゃ嫌いにはならない。
その時の感情と人格は別だと思うからだ。
君のご飯の食べ方が汚くても、お風呂に入らなくても
習慣と人の人格は違うから嫌いになんかならないし、それを変えてくれなんて言わない。

それを含めて全部が君なんだから。
好きなようにしたらいい。好きなように思ったらいい。
ただ何が好きで、どう思って、どうしたいか、共有する努力、いや
共有することを楽しもう。

何でも思ったことを言っていいよ、って言ってくれてありがとう。
僕も好きなように言わせてもらうよ。それでも僕らはなんのわだかまりもなく
コミュニケーションが不足しているなんてこれっぽっちも思わないし、喧嘩になっても絆が切れてしまうことなんてないはずだ。
そうだよね?少なくとも僕はそう信じている。

実をいうと帰り道も判らなくなっていた。
意地を張って道具も羽根も全部捨てたりなくしちゃったりしたけど、
本当はそんなことしなくてもよかった。
単なる意地、だ。そんなものいらなかった。
そんなこといつから考えるようになったんだろう?
必要なものは持っている。

僕はとても若かったんだ。
聖なる地に辿りつけると信じていた。だって僕は頑張ってきたから。
合っているか間違っているかなんてわからない。がむしゃらにかな、歩いてきたよ。

だけど道は見えなくなって、聖なる地に辿りつくどころか
僕らがいたあの美しい場所がどこなのか、
なぜここにいるのかもわからなくなっちゃっていたんだよ。
僕自身が誰なのかもわからなくなりそうになっていたよ。

愛とは違う宿敵トライヤがやってきて、この地を守るために
ここに残ったはじめの記憶も無くしてしまっていた。
僕自身トライヤにやられて傷ついてしまっていたのかもしれない。
でも君は「がんばったね」って言ってくれるだろ。
よく生きててくれたって言ってくれるだろ。

君に逢うまでにたくさんの人の力を借りて、支えられて今ここにいる。
その分を返せる以上に幸せになろう。

地図をなくした時に君に逢えるということが判って僕は本当に嬉しいよ。
希望の光がやっと見えたんだ。
これしかまだ言えないけど、早く逢いに来てほしい。
僕はどこかまで行く必要があるのかな?
それなら待ち合わせ場所を教えてほしい。

あのみどり色の石は今も大切にしているよ。
これだけ待って頑張ってきたんだ。
逢える時までもう少し、僕は希望を捨てずに待っているからね。

そして、何より君にもう少しで逢えるということがわかって僕はとてもホッとしている。


ショッキング、だ。
ショッキング。
というか仏門に入ろうかしら。

想像は出来ていたのかもしれない。

が、ショックなことには変わりがない。

とか思っていて思い浮かんだ「瀬戸内寂聴」を検索して名言や生い立ちに関してを読んでいる。

仏門に入るくらいの気持ちだ。
暑さも手伝って今までで一番短く切った髪の毛を剃髪しようかしらとか思う。
もうすぐ長かった春休みは終わりだ。

まさに。

쓰su 츠 tsuと「す」と「つ」の区別は難しい。
極端に言えば「増田」さんと「松田」さんの韓国語表記が同じになる場合がある。
これは言語間の変換がぴったりできるわけではないから仕方がない。
この音が近い、よりもこの音で発音してほしい、みたいなことによる所も多い。

스 수 は両方ともsuだけど 私は普段自分の名前「あすか」を発音する時の
「す」は스の方がしっくり来るので수ではなく敢えて스と書いているが수 と表記されてくることもある。ふうん、そう聞こえるのね、くらい。

そもそも、なんで「す」をtsu 音でいうとす、と読み 「す」って何だ??
名前=人の呼び名、みたいな概念の括りを表すものは誰がつけはじめたんだろうか。

真ん中の◯はなんだ?
よく習字では丸くならないように、三角といったりめがねといったりしていたが
三角形に書かなくとも丸く書いても「す」だよなあーみたいな
細かいことは気にしなくても意味は通じるよなあーみたいなことを思ってみたりする。
なんでこの形で「す」と読み、そもそも「す」とは何だ??
町を歩いてこんなことを思っていると、本当はそのものの名前は別にあって
人間が勝手に呼んでいるっていう可能性もあるんだろうなと思う。

本当ってなんだ?
全部がとりあえず作られた虚構の世界な気がしてくる。

「ある」ということはあるけど、いや、もしかしたらないのかもしれないな。
あるように見えているだけなのかもしれない。

本当は人間も形があるように、それを当たり前に思っているのだけど
地球外生物が突然やってきて、私たちをみたらただの光に、とか黄色のアメーバみたいに見えるなんてこともあるのかもしれないと、台風が去った後の空を見て
当たり前だと思う事はとても怖い事なんだろうと思う。

こう見えている、なんての、本当は何にもないのかもしれない。
それでも今日の空は晴れているようにみえる。
この人はいい人そうにみえる、そんなことなのかもしれない。
全部が繋がっていて本当は区別なんて何もないのを
無理矢理区別をつけようと見せて、いや、見せられているだけなのかもしれない。

まやかしであり、まやかしでない。
左肩になんか取り憑いてんじゃないかっていうくらいに急に痛くなった。

「し」
正直に書くと、私は自分の事を肯定できていない。

自分の存在が迷惑になっているんじゃないか、と思う事がある。
あたしみたいなもんが、そんなこと言っていいのか?と思う事もある。
これやりたい!とか、こうして!!!みたいなこと。
実はお願いをするのが本当に苦手だ。
すごく勇気がいる。

昔あった「根拠のない自信」はどこへ行った?
自分の選択した行動がどこかへ旅立たせたのかもしれない。

命は素晴らしい、みたいなことを言うけれど
自分の命が素晴らしいのかどうかがわからない。

いや、命は素晴らしいんだ。私の問題である。

関わる人がみんな幸せでいてくれたらいい、と思ってきたことが
自分の意見を言わないことが大人、だと思って
自分の決定権を無くしている気がして

もう少し自分の感じた事 素直に、常識、とかじゃなくて
やりたいようにしてみようと思って、やってみた結果の判断が
自分を肯定出来なくさせたのかもしれない。
私の感謝の不足が自分を肯定できないでいるのかもしれない。

覚悟ってやつを持ち続けるためには
自分を肯定出来ていることが大切だ。
自分を安心させられていることが大切だ。

誰に頼むでもない、自分の中の答えはシンプルにあるはずなのに
自分で見つけられるはずなのに
自分で難しくして迷子にする。

さんざん考えあぐねて言ってみて迷惑、
みたいなどうしようもなく面倒くさい。

どうしようもないくらいシンプルでいいのに。
何をそんなに怖がって避けているんだ、あたし。

スポーツマンシップにのっとりなさいよ。
自分のことを自分で幸せにする覚悟を決めなさいよ。

どっちを選んでも自分だから正解
って自分のことをもっと信じてあげなさいよ。
過去の選択、全部赦してあげなさいよ。
むしろ感謝しなさいよ。

言葉が出来なかったけど「行きたい」って思い切っていってた私はどこへ行ったのよ?
そのために頑張ってバイトしてた私は何処へ行ったのよ?

誰よりも自分が好きだって言いなさいよ。
そしていつもまず笑いなさいよ。

うじうじ言ってるの面倒くさいよ。


今日は自分にいい聞かせる言葉。






先日読んだ本の中で「存在給」たるものがあると書いてありました。

人は生まれながらにして、存在する価値があり
何もしなくても貰える給料があるのだということが書いてありました。
何もしない状態で自分がどれだけお金をもらえるか?
何にもしないでもらえるわけない=自己肯定が低いと、いうこと。

かの名言「生きてるだけで丸儲け」と心底思えているかどうか?

何が自分に出来るんだろう?
自分の価値ってなんだろう?
人に自分が提供できるものってなんだろう??
人のために使えるものってなんだろう?
役にたてる人間なのか?

存在しているだけで給料がもらえる位の価値
産まれた時からもっていて、今現在ももっているもの。


そんなことを考えていて 試したい事が出来ました。

月に100万円欲しい。
月に100万円貰える自分。
月に100万円稼げている自分、とすると
31日で割れば33333・・・・・円ということになります。

1日に35000円。
自分が持っている財産。

死ぬまで存在して持っている時間は自分の財産です。
どう使うか。

私が提供出来るもの。
自分が必ず持っているもの。

以上のことから時間、である、と。

私の時間 1日を35000円で提供する。
果たしてこれにお金を出してくれる人はいるのか?
危なくないのか?

賛否もありそうですが、私の1日を35000円で提供します。

法に触れること、いやらしいことはしません。
これ以外で私ができること

その方の為に自分の時間を使います。

何に対して「ありがとう」と言ってもらえるのか。
何をしたら人が喜んでくれるのか
自分を喜ばすことができるのか
何を自分が必要としているのか
私の何を人は必要としてくれるのか

自分のこれからを決めるためにも
自分を見つめ直す原点回帰がしたいです。

なので、

一番私が持っている、財産である

私の「時間」を売ります。

もし買いたい方がいらっしゃいましたら
売って欲しい1日、その日にしてほしいことを
ご明記の上、メッセージかメールをいただければ幸いです。
(aap.ask@gmail.com)
折り返し返信させていただきます。

日程は本日以降~今年の大晦日までの間でご指定ください。



私たちの小学校給食はコスゲパン(確かリスのマーク)だったことを急に思い出したので
書いてみた。内容がないこと請け合いであるが、まあ日曜日だしいつものことなのでまあいい。

社会科見学で帰りにコッペパンをもらって、ああ、パン工場っていいな
と思った。小学生にはなんだか楽しそうだと思った。

パン工場で一日中スポンジについた紙をはがすアルバイトをした。
ジャムおじさんはいなかった。
久しぶりの社会見学気分で腱鞘炎すれすれで良き体力作りになったと喜んでみた。

アルバイトをしたのはコスゲではない。
ちなみに拘置所がある小菅ではない。

流れてくる流れてくるパン。

頼むから流れてこないでくれーーという心の叫びも空しく
流れていくパンに流される。

パンしか見えない。

そんな10時間があってもいいではないか。

工場で作られたパンをみると思い出す。
意外と私は単純作業が嫌いではない。

あ、ほんとにどうでもよい内容だ、来週からまた頑張ります。
あ、ちょっとコスゲパン食べたいな。