私達、設計士の中には、デザインのためなら他の事を、平気で犠牲にする設計士さんもいます。
特に住宅雑誌などに、自ら「設計例」を投稿して、必死に売り込みをしている人には、
この手の人が実に多い・・・。
普通の在来工法の木造住宅(SE工法は別)なのに、
「だだっ広いLDK」
「南面全面開口部」
「巨大な吹き抜け」
大きな地震が来たら、イチコロだぞ・・・・と、思うようなデザインを平気な顔して行う。
木造住宅の場合、地震力のような水平力に抵抗するのは、壁(耐力壁)なのです。
あんなに壁を少なくしてどうする!?・・・・と、ひたすら心配になります。
現在、木造住宅は、建築確認の時、構造審査が簡素化されています。
ですから、構造に関しては、ほとんど設計者任せ・・・の感が強い。
そこに付け込んで、とにかく目立つ斬新なデザイン(現実は構造的に危なっかしいデザイン)を、
やりたい放題の状態です・・・・姉歯君の教訓は、残念ながらいかされていません。
私・・・・一度でいいから、こういう一種の「デザインオタク」の設計士と議論したいと思ってます。
彼らの構造に関する知識・・・とことんいい加減ですから5分で論破する自信ありますけど、
なかなかそんな機会がない・・・・ま・・・・私が、もともとオタク嫌いなので、こういう人達との
お付き合い・・・あまりないから仕方ありませんが・・・・。
しかし、それでも昔・・・・この手の「デザインオタク」系の設計士が、あるところで、
地震ついて、お客様から質問をされていたところを目撃したことがある。
この時、このオタクさんは、すました顔で、こう答えたのでした。
「地震のような、いつ来るかわからないものを気にするより・・・・・・。」
そう答えて、後は、・・・・「この空間がどうの」「光と風がうんたらかんたら」・・・と、得意のうんちくが、
ひたすら始まったのであった・・・・やれやれ。
この一言でわかるように、彼らにとっては、地震なんてものは、どうでもいいものらしい。
それよりも目立つ家をつくりたい・・・・自分の満足できる作品(なんか偉そう・・・)をつくりたい。
そして、それによって有名になりたい。
これしか頭の中には無いようです。
実は、デザインと構造強度は、ほとんど両立するのが不可能です。
まず第一に、構造強度を確保した上で、制限をうけた範囲内でデザインを工夫する・・・。
それが正攻法の設計のはずです。
感動的な新聞記事(↓)がありました・・・・産経新聞の記事です。
死者ゼロの岩手・普代村を守ったのは… 2人の「ヒーロー」
過去の津波で多数の犠牲者を出した岩手県普代村は東日本大震災では死者ゼロ、
行方不明者1人にとどまった。
被害を食い止めたのは高さ15・5メートルもの水門と防潮堤。
昭和40~50年代、当時の村長が反対の声を押し切り、建設にこぎつけたものだ。
ただ、今回は水門脇ゲートの自動開閉装置が故障し、
1人の消防士が水門へ向かい、手動でゲートを閉めた。
危機を見越した過去の政治的英断、そして地震直後の献身的な行動が村を守った。
■もう少し低かったら…
久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)は
「水門の高さがもう少し低かったら、村にはすごい被害が出ただろう。
もちろん私の命もなかった」と振り返る。
3月11日の地震直後、自動開閉装置の故障を知った立臼さんは、
村を流れる普代川の河口から約600メートル上流にある水門に向かって消防車を走らせた。
故障したゲートを閉めるには水門上部の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。
津波の危機感はあったが、「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。
機械室に駆け上がって手動スイッチに切り替えると鉄製ゲートが動き、ほっと一息ついた。
消防車に乗って避難しようとしたとき、背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いた。
普代川を逆流してきた津波が黒い塊になって防潮林をなぎ倒し、水門に押し寄せてくる音だった。
アクセルを踏み込み、かろうじて難を逃れた。
津波は高さ20メートルを超えていた。
水門に激突して乗り越えたが勢いはそがれた。
水門から普代川上流にさかのぼってほどなく止まり、近くの小学校や集落には浸水被害はなかった。
立臼さんは「高い水門をつくってくれた和村さんのおかげ」と話した。
■名物村長の“遺言”
和村さんとは、昭和22年から10期40年にわたり普代村の村長を務めた
故・和村幸得さんのことだ。
昭和8年の三陸大津波を経験し、防災対策に力を入れた村長だった。
村では明治29年の大津波で302人、昭和8年の大津波でも137人の犠牲者を出した
歴史があり、和村さんは「悲劇を繰り返してはならない」と防潮堤と水門の建設計画を進めた。
昭和43年、漁港と集落の間に防潮堤を、59年には普代川に水門を完成させた。
2つの工事の総工費は約36億円。
人口約3千人の村には巨額の出費で、建設前には「高さを抑えよう」という意見もあった。
だが、和村さんは15・5メートルという高さにこだわった。
普代村住民課長の三船雄三さんは
「明治の大津波の高さが15メートルだったと村で言い伝えられていた。
高さ15メートルの波がくれば、根こそぎやられるという危機感があったのだろう」と話す。
和村さんは反対する県や村議を粘り強く説得し、建設にこぎつけた。
村長退任時のあいさつで職員に対し
「確信を持って始めた仕事は反対があっても説得してやり遂げてください」
と語ったという和村さん。
三船さんは「当時の判断が村民の命を守ってくれた、とみんな感謝している」と話している。
二人のヒーロー・・・・青色にしときました。
一人で水門へ向かった消防士さんもヒーローですが、反対を押し切って
防潮堤を建設した村長さんもヒーローです。
私は、この村長さんを見習いたい・・・・。
「その家に住む家族の皆さんの命を預かるのは設計士。」
こういう自覚があれば、デザイナー住宅なんて・・・・とてもつくれるはずありません。
もしかして、東電の社長さんみたいに、
「天災ですから免責です。」
と、お考え・・・・・なんですかね?・・・・・・だとしたらとんでもない輩です。