当地にもお隣から逃げてくる人は、一定数います。やはり旧ソ連時代からの関係がありますので、親戚がいる・娘が嫁いでいる・息子が出稼ぎで などの家族の事情があります。当地語を共有していたため、職探しや生活の再建には適しているだろうと、ドライな判断をする人も少なくありません。また、住んでいた場所からの脱出ルートがこちらしかなく、さらに西を目指すために、少し働いて資金を作りたいという人もいます。
正直、侵略者の国に定住を希望するなどと、正気の沙汰とは思えませんでした。
が、あるボランティア団体の代表者の書いたものを読んで、ああそうか と納得しました。
その方の説明によると、避難民には考える余裕がないのです。ある日突然、10分で用意して避難しろ、と言われた人はまだ良いほうで、多少は衣服や身分証明書の類もそろえて逃げることができました。が、もっと突然、ミサイルで家を失った人、家族が亡くなった人、そんな人たちがとにかく生き延びることのできる場所を探すーというのが、避難民のストーリーです。生命の危険がなく、言葉が通じる場所、侵略とか戦争とかそういうことを考えなければ、親類や知人のいる場所―それが彼らにとっての当地です。
その代表者の方は、「反対だけれどもあからさまに言えない」立場です。避難民支援の活動を始めるまでは、当然当地のことを悪く思われているだろうとの、罪の意識にさいなまされていた一人です。が、実際に避難民と接してみると、当地のプロパガンダが大歓迎しそうな、「解放を待っていた東部住民」から、「どうでもよくなった」人、もっとプラグマティックに考えて、欧州では生活の再建は難しいと判断した人まで、いろいろな人がいることが分かり、主に定住支援に力を入れたボランティア活動を率いることにしたそうです。
「解放を待っていた」人々に対してさえ、当地は非常にシビアで、滞留資格の取得過程は非常に長くかつ複雑、しかも一時支給金も3か月待ちが当然で、滞留資格が取れるまでは正規雇用は不可能という話を聞く限り、解放してもらって何かメリットがあったのかと理解に苦しむのですが…むしろ弾が飛んでこなくて言葉が通じる場所を、一時的な滞在の場に選んだ という現実的選択のほうが、理解しやすいように感じます。
また、やむを得ず当地に避難したものの、基本的には西側行きを希望する人、お隣西部への帰還を望む人もいます。そういう要望があれば、そちらを専門とするボランティアにつなぐのも、その方のボランティア団体の活動に入っています。団体の仕組みは、一人のボランティアが数家族を担当し、生活上の様々な相談に乗ったり、物資や食料を調達し、可能な限り順調に現地の生活になじめるようにしているとのことです。
それまで自分の持ち家で何不自由なく暮らしていた人たちが、ある日突然、食べ物の提供をお願いする立場になる と代表の方が描写されていたことに衝撃を受けました。これが(禁句)の現実で、文字通り生き残ることだけが唯一の課題になるのだと。
ボランティアに来る人たちは、当地の行動への罪の意識を感じる人たちが中心だそうです。ですから「解放を望んでいた」避難者と、相反する主義のボランティア という組み合わせは往々にして生ずるので、代表の方も複雑なようですが、当地の行為から全てを失った人であることは確かで、支援の手は差し伸べられなくてはならない とのお話でした。
現在、この方の団体に所属するボランティアの人数は、200人に近くなっているそうです。こういう事態においては、何かをすることが薬になります。罪を感じながら、当地で沈黙を強いられる人々にとっては、発散の機会となりうるので、ボランティア希望者も多いのでしょう。たとえ相手が、真逆の政治的信条を持っていたとしても。