よく日本は閉鎖的な国だという主張をする者がいる。曰く、閉鎖的で内向きな日本はこのままだとグローバル化の流れから取り残されるというのだという。


そういう主張をする者は多くが新自由主義者である。そういう新自由主義者はグローバリズム迎合を成長戦略と言い換えて国民を騙し、様々な国柄破壊政策を行おうとする。


その格好の例が、社内公用語を英語にしたり、大学での授業を英語で行おうとする流れに象徴される「英語公用化」だ。安倍内閣も小学校での英語教育を正式化する方向で進んでいる。


しかし、こうしたグローバリズムへの迎合のために英語に偏重するのは国民を苦しめることになると警告しておく。


実は明治時代にも英語公用化に関する論争があり、結果として国民のためにならないとして英語公用化が見送られたことがあるのだ。


明治維新により近代化が進む中で、薩摩藩閥の政治家である森有礼は学校や政治、社会制度の運用を英語で行うべきと主張した。西洋の文明を吸収し近代化を進めるためにも必要だとの見地からだ。


それに対し、土佐藩出身の馬場辰猪は英語公用化に反対した。その理由は大きく分けて以下のようなものだ


①日本人になじみの無い英語を習得するのは多大な労力がかかる。若者は英語学習のために多くの時間を費やす必要があるため、他の仕事や勉強がおろそかになってしまう。


②英語の学習には多くの金が費やされるため富裕層に有利だ。そのため教育に金を掛ける余裕のない一般庶民は英語を習得できず、格差が広がる。


③英語公用化がもたらす格差に寄って一般庶民は社会参加が難しくなり、富裕層しか政治や社会に参画できなくなる。


このような馬場の反論は非常に説得力があり、明治維新から100年以上経った今でも通じる反論だ。


実際、自分の体験からしても中高そして大学で英語を履修したが、多少の文章読解は出来ても、英語で会話を行うレベルには到底及ばなかった。英語をペラペラに喋れる日本人はやはり英会話専門学校や海外留学、または高い教材を買うなどしている。


日本語と英語は言語体系が全く異なるから、通常の学校の授業程度ではカタカナで書いた英語程度の語学力しか身に付かない。


ということは馬場が言うように、やはり英才教育を行える富裕層が有利になる。


もしこのまま英語公用化が推し進められれば、英語を使いこなせる者しか就職できずに雇用形態を壊す自体が発生するだろう。


当然、英語公用化はグローバル化と密接に関係しているから、英語の話せない日本人に替わって、移民と言う形で多くの外国人に日本人の雇用や市場を奪われることになる。


産業競争力会議が提唱する経済特区構想や、外国人経営者や技術者が3年日本に滞在したら永住権を付与する構想などが実現すれば一層日本人は「英語上手な一部の日本人」と外国人、グローバル資本に雇用や生活を奪われ肩身の狭い思いをする事になるだろう。


日本はグローバル資本にいいように牛耳られ、社会制度も政治も彼らに有利なように改悪されてゆくことになる。


英語公用化はそういう日本を造る為の橋頭保となるのである。


馬場辰猪は英語公用化反対の論陣を張る中で次のように言っている「すでに我々の掌中にあり、それゆえ我々すべてが知っているものを豊かで完全なものにすべく務める方が、それを捨て去り大きな危険を冒して全く異質の見知らぬものを採用するよりも望ましい」。


つまり馬場は日本国民が等しく話せる日本語を充実させるべきで、日本語を軽視し英語に偏重するのは危険だと警告しているのだ。


英語公用化を進めようとする者は、馬場のこの警告に素直に耳を傾けてはどうか。