今年3月で福島第1原発が事故を起こしてから2年が経過したが未だに事故は完全に収束する目途は立っていない。4月には原子炉冷却で発生した汚染水を貯めていた貯水プールからの水漏れが発覚し大きな問題となった。


4月の時点で原発敷地内に貯まった汚染水は40万トン、25メートルプール530杯分にまで上っており、今後も増え続けるという。


原子炉建屋内には1日400トンもの汚染水が発生し、東電が急造した仮貯水タンクは2.5日で満タンになる計算であり、原発敷地内には無数の貯水タンクが並んでいる。


この貯めた汚染水もどうやって処理するのか目途も立たないし、いずれ急造した貯水タンクは経年劣化するために水漏れトラブルが続発することになるだろう。


さらにメルトダウンした原子炉内の核燃料も取りだす目途が経っていない。放射線量が高く現場に近づけず溶融燃料が今どこにあるのかすら分からない上、燃料取り出しを困難にしている原子炉格納容器の水漏れ個所も特定できていないのだ。


核燃料の取りだしには10年以上掛かると言われ、そのほか建屋の解体など最終的な廃炉を行うのに40年から60年は掛かると言われている。しかも発生した大量の放射性廃棄物や数百万トンに及ぶであろう汚染水をどう処理するのかは別問題であり、それらの処理を含めれば途方もない年月が必要になる。


廃炉作業だけでも40から60年ということは、我々の子供や孫、ひ孫の世代が原発事故の後処理を担わされることになる。つまり負の遺産を後の世代に押し付けるに等しい。


原発推進派はよく車や飛行機の事故を引き合いに出して「車の事故では年間何千人も死んでいるが福島では誰も死んでいない」とか「世の中にリスクがゼロの物は存在しない。原発に反対するなら乗り物には乗れない」などと言う。


確かにそうだ。世の中リスクがゼロの物は存在しない。車や飛行機も事故を起こすし、代替エネルギーの火力や地熱発電も事故が起きる。しかしこれら車や飛行機の事故と原発事故の決定的な違いは、原発は一度事故を起こすと一過性の事故では済まされないということだ。


汚染水への対処や溶融燃料取り出しの難航を見れば、原発事故のリスクの大きさが分かる筈だ。今後40~60年も廃炉に時間を要し、そのコストも天文学的な数値に上る。


車や飛行機の一過性で終わる事故とはそもそも比べる対象ではないのだ。世の中リスクがゼロの物は存在しないからと開き直り原発を推進するのではなく、事故を起こすと長期にわたり影響を及ぼす、よりリスクの高い原発からは手を引くのが国家の最大の危機管理・リスクマネジメントではないだろうか?


それに、一たび事故が起きれば原発を推進してきた者が死んだ後も影響を及ぼすのだ。一体誰が責任を取るのか。


また、福島では多くの人々が原発事故で故郷を追われた。今後も数年から数十年は人が住めないというではないか。


故郷を追われたストレスで多くの人が死んだり病気になったし、それまで築かれてきた地域コミュニティーは崩壊し、地域の伝統文化の継承も困難になった。避難で誰も手入れせず荒れ放題になった神社や先祖代々の墓地などはその象徴だ。


人々の暮らしや営み=地域コミュニティーや伝統文化は一度失われると取り戻すのは難しい。恐らく原発周辺の市町村ではもうこれまでの暮らしを元通りにすることは難しいだろう。


こうした現状や原発事故の特性に目を向ければ、やはり脱原発に大義ありと言わねばなるまい。


特に美しい山川や伝統文化、地域を守る故郷愛に焦点を置けば、保守派こそ脱原発を叫ばなければならないはずだ。


なのに西尾幹二氏など少数を除けば保守派の多くは未だに原発推進派だ。今ここで改めて保守の立場から脱原発の必要性を主張したい。