いつもお急ぎなのに...
“あの娘の前を、ほんの僅かな時間ただ素通りしているだけなのに
あの娘...
僕があの道を毎日通っていることを知っていてくれていたんだ...“
一時間目の授業は、芳雄のもっとも得意科目とする数学であった。
いつもなら一番前の席で、しっかりと筆記しながら、疑問点などをノートの脇に赤鉛筆で書き込みを入れているのであるが、この日のノートは白紙のままであった。
“良いか、この公式はXのn乗に比例するわけだから...”
右手の中指から親指までの3本の指を真っ白にして、黒板をチョークで叩いている数学の甲斐田先生は、いつものように熱い授業を行っていた。
いつもお急ぎなのに...
彼女の口から発せられたこの短い言葉が、柔らかな風に揺れる風鈴の音のように、芳雄の頭の中を何度も何度も繰り返し揺れていた...
芳雄の通う大原高校定時制では、昼間は働きながら通っている生徒ばかりで、その年齢は皆バラバラで、殆どの生徒が年上ばかりであった。
その中のひとり、クラスメートの梶さんがいつもと違う様子の芳雄に声を掛けた。
「おい、おいっ...」
「芳雄、お前身体の調子でも悪いのか?」
いつも芳雄の横に座って授業を受けている梶さんは、芳雄よりも五つも年上で、昼間は駅前の商店街の八百屋に住込みで働きながらこの大原高校へ通っている同級生で、芳雄にとっては兄貴のような存在の、頼りになる相談相手だった。
「おい芳雄」
「うぅ~」
「どこも悪くないよ」芳雄は気の抜けたコーラのような返事をした。
「さっきからお前、ぼぉ~としているけど何かあったのか?」
「いぃャ・・・」
いつもお急ぎなのに...