今日の楽しみは 
 


プレトは必死で肉塊を振りはらおうとしたが、右脚にぶらさがっているそれは、全く離れそうになかった。


いくら脚を振ってみてもびくともしない。歯が食い込んでいるのだろうか。


「プレト!」


頭上から心配そうな声が聞こえてくる。上に顔を向けると、ルリスはすでに縄梯子を登りきっていた。崖の上からこちらを見おろしている。


「それ、岩壁に叩きつけたらどうかな!」


友人のアドバイスに従うことにした。プレトはサッカーボールを蹴るような動きで右脚を大きく振り、目の前の岩壁に肉塊を叩きつけた。

 

肉塊は耳障りな唸り声を発したが、裾から口を離すことはなく、なんとジャージの方が破れて切り離されてしまった。

 

肉塊はジャージの裾をくわえたまま、地面に放り出された。

 

今がチャンスと、プレトは急いで梯子を登り、息を切らしながら崖の上に手をついた。

 

ルリスがバックパックを掴み、引き上げてくれる。完全に登りきると、プレトは仰向けで大の字に転がり、胸の苦しさに耐えながら呼吸を整えた。

 

その間に、ルリスが縄梯子を回収してくれたので、虹も無事に手元に戻ってきた。友人がこちらの顔を覗き込んで言う。


「とうとうやったね、虹を採取できたね」


柔らかに微笑む彼女は、さながら天使のように見えた。


「やったね……」


プレトもぜえぜえ言いながら呟いた。寝返りをうって、レインキャニオンに目を向けると、未だに危険植物と飛行物体はもつれ合っていた。

 

フロントガラスと思われる部分に、地面から突き出た槍のようなものが、折れた状態で突き刺さっている。シャモジがやったのだろうか。墜落はせずとも、それなりのダメージを受けているようだ。


「特撮の大怪獣バトルみたいになってるね……今のうちにレグルスに戻ろうよ。無事だといいけど……」


ルリスはそう言うと、手を引いて起こしてくれた。不安を抱えながらレグルスに向かったが、出発したときと変わらない姿でそこにあった。

 

ちょうど木や岩に隠れて、敵に見付からずに済んだようだ。


「よかったー」ルリスは胸をなでおろしているようだ。

 

「森の中に移動して、もっと目立たないようにしよっか。もちろん、泥沼から離れたところにね」


二人はレグルスに乗り込むと、敵から発見されにくそうな場所に移動した。

 

そして、霧散しはじめた雲の防護服を窓から外に投げ捨てた。


「訊くタイミングを逃していたんだけどさ、それはなにかな?」


「虹だと思う。縄梯子のそばに落ちていたから、プレトを待っている間に拾ったの」


ルリスのウエストを、虹がぐるりと囲んでいた。子供用の浮き輪を装着しているように見える。ルリスが虹を外し、見せてくれた。小さくて、リング状で、パステルカラーで、とても可愛らしかった。


「ハロとかいうやつかな? 色が薄いから虹として使えるかわからないけれど、一応採取しておこうと思って」


「ハロって珍しい現象だったと思う。すごいじゃん! 持っていけるものは持っていこう。でもなぜウエストにつけてたの」


「手が塞がると梯子を登れないからね。ちょうどいいからお腹に装着したの……わたしも訊きたいんだけど、そのジャージは肉塊にやられたの?」


「そうだよ……」


プレトは溜め息まじりに答えると、脚に視線を落とした。右脚だけ膝小僧が出ている。膝から下が完全に破り取られてしまったのだ。


「そんな漫画みたいな破れ方する?」


ルリスが不思議そうに言った。


「私もそう思う。多分、穿きすぎて寿命だったんだろうね。これ、高校のジャージだからさ」


「え、学校指定の体操服ってこと? ……あ、ほんとだ。後ろのポケットに名前が刺繍してある」


「このジャージは左側も切って、短パンとして使おうかな」


「そうだね……ねえ、虹は食べる?」


ルリスが、座席の後ろに雑に詰められた虹を指して言った。若干、変形している。


「不安だけど、やってみるか……」


チユリさんの情報によると、これでアナフィラキシーショックが治った人がいるのだ。

 

プレトの身体に回った毒もなんとかなるかもしれない。一口だけなら試してみる価値はある。

 

その人は確か、赤色を食べたと言っていた。それなら私も……


手を伸ばし、赤色を触った。ゆるいクリームチーズのようだが、やたらと粘度が高い。ぐりんとねじり、飴玉サイズをちぎり取った。


「不安でしかない……」


プレトはつまんだ虹を凝視して言った。


「前に食べた人は大丈夫だったんでしょ? 雲を食べる人が、虹に怖気づくのはおかしいと思うけど」


「そうかな……」


「そうだよ! はい、あーん!」


「ぐあっ」


口内に入れられた虹を咀嚼した。無味無臭で、グニグニしている。不思議だ。実態を持った虚無を噛んでいるようだ。そして飲みくだす。


「……」


「……変化は?」


「んー、特にない。時間が経てば、何か起こるかもね」


レグルスの中でとりとめのない話をしながら、効果が現れるのを待った。30分ほど経ったとき、突然、鼻水が出てきた。慌ててティッシュで鼻をかんだが、後から後から出てくる。


「なんだこれ……」


鼻水というより、もはや水だった。とめどなく流れ出てくる。プレトはバックパックからタオルを取り出した。ティッシュでどうにかできる量ではないからだ。タオルで鼻をおさえた。


「好転反応とかいうやつかな……」


ルリスが心配そうに言った。


「脱水になりそう」


「水、持ってくるね」


ルリスが給水タンクからコップに水をついで渡してくれたが、今にもあふれそうになっている。そうだ、ルリスはなみなみに入れるクセがあるんだった。プレトはなんとか受け取ることに成功したが、飲む前に少しこぼしてしまった。


「これじゃあ、おもらししたみたいじゃん……」


「夏だからすぐに乾くよ」


鼻をおさえたままなんとか水を飲んだが、あまりにも止まらないので不安になってきた。タオルも2枚目に突入した。


「顔全体がかゆい……顔を洗いたい」


「水に余裕があるから、洗おう!」


ルリスはレグルスから降り、給水タンクを取り出した。プレトもあとを追う。友人はそれを、森の中にある手ごろな高さの岩に置いた。

 

プレトは注水レバーをひねると注水口の下に頭を入れ、流れ出る水をかぶった。

 

部活終わりの男子生徒みたいだと思った。ガシガシと容赦なく顔面をこする。すると、周りを警戒していたルリスが言った。


「あ、あの飛行物体が飛んでいったよ。ふらふらしてるから、シャモジちゃんが健闘したのかな」


敵の数は不明だが、大きな脅威が去ったと分かり、プレトは胸を撫でおろした。


「これで、いつでも出発できるね」と、ルリスは言った。

 

「ちょっと思ったんだけど、シャモジちゃんって雲には反応しないのに、わたしたちが森に入ったときは攻撃してきたよね? あのときレグルスは雲に包まれていたけど、どうしてかな」


「べんびばぼぼぼぶ」


「え?」


プレトは口に水が入らないようにしながら、同じことをくり返した。


「電気だと思う」


「電気……」


「無機物であるケーゲルにも飛行物体にも反応していたから、そうかなって思った。レグルスを包んでいた雲には電気を含ませていたからね。どうしてあの植物が電気に反応するのかは謎だけど」


「なるほど! じゃあ、帰りは普通の雲で包めば、奴らに襲われずに済むかもね! あ……プレト、鼻水とまったみたい」


「あれ、ほんとだ。もう痒くない」


「体調はどう?」


「今日は元々マシだったから、はっきりとした変化は分からないなあ」


ルリスが神妙な面持ちでこちらをじろじろと観察している。プレトの腕をつかんだり、むき出しになっている膝小僧をつついたりしていたが、やがて嬉しそうな声をあげた。


「すごい! 首の後ろの、サラミみたいになっていたところ、ほとんど元通りになってるよ!」


「え、うそ」


ルリスが患部を写真に撮り、プレトは半信半疑でそれを確認した。


「ほんとだ! 人間の皮膚に戻っている!」


思わずすっとんきょうな声を出していた。もう元には戻らないだろうとショックを受けていたのに、虹を食べて治ってしまった。

 

これなら、発熱や頭痛といった症状も改善しているかもしれない。


「よかったね、ほんとに、よかったね」


ルリスが目に涙を浮かべて言った。優しい彼女は、ずっと心配してくれていたのだ。


「私が助かるように、ルリスが祈ってくれたおかげだよ」


「だったら嬉しいな……じゃあ、頑張って帰ろうね」


目元をぬぐう友人を見て、プレトはふと思い出した。数日前に幻の中で、少女に言われたあの言葉を……


『泉の源に行くには、流れに逆らって泳がないといけないの。人生はゆるい登り坂だからね』


泉の源とは、このことだったのかな。プレトにはなんとなく、『泉』が『命』を指しているように思えた。

 

(第55話につづく)

 

作者は 

こんなひと