今日の楽しみは 
 


いよいよ虹に刃を入れたプレトを、ルリスが携帯電話で撮影していた。

 

こちらに近付いてきた肉塊をシャモジが相手しているため、現時点で危険はなさそうだ。


「今ここで虹を食べてみる? 早く治したいよね?」と、ルリス。


「いや、今は体調は安定しているし、食べた後どうなるか分からないから……レグルスに戻ってからにするよ」


「……そうだね、そうしたほうがいいね。採取する虹は少しでいいんだっけ」


「うん。でも、これまでのことを考えると、どんなトラブルがあるか分からないから、レグルスに積めるだけ積めばいいかなと思ってる……とはいえ、あんまりスペースはないけど」


「小さく切ってもいいなら、細かくして隙間に詰めこめばいいよ」


「だね」


話しながらノコギリを動かしていた。虹を切る感触は、クリームチーズを包丁で切るそれと似ている。赤色から緑色にかけては、非力なプレトにも簡単に切れたが、青色から刃の進みが遅くなった。


「え……固い」


プレトはそう呟くと、一度刃を抜き、バックパックから新たにロープを取り出した。


「なにしてるの?」


「今のうちに、ロープでくくっておこうかなと思ってさ。切り離ししだい、すぐにレグルスに戻れるようにしておこうと思って」


「なるほどね……くくり終わったかな? 今度はわたしが切るね」


ルリスと交代し、友人を撮影する側にまわる。

 

プレトよりノコギリの扱いがうまく、手早く青色を切り終え、藍色にさしかかった。

 

順調そうに見えたが、「かったーい!」と言うと、虹にノコギリを残したまま手を放した。刃は、一番下の紫色をかすめている。


「え? 虹ってこんなに固いの? 色によって固さに違いがありすぎない?」


ルリスは困惑したように言った。


「下の色のほうが、全体を支えるために固くなっているみたいだね。それに、小さい虹のほうが密度が高いから、より固いらしい」


「そうなんだ……あと少しだから、頑張ったらどうにかなるかな」


交代しながらノコギリを動かすと、紫色の半分まで切ることに成功した。


「よおし、あと少しだね」


「この調子なら、今日中に採取が完了するぞ」


プレトが希望を持って呟き、身体を伸ばすために上体を反らせると、何かが視界に入った……気がした。

 

空間に違和感を感じる。空中をじっと見ていると、何かがあることが分かった。


「ルリス、あれ、何か分かる?」


そう言いながら、新たに現れたものに対して携帯電話のカメラを向けた。


「んー? ……どこ?」


「あそこ。すごく見えにくいけど」


プレトは指をさしなが言った。


「あー、あれか……ぜんっぜんわかんない。なんだろう」


それは、明らかに大きな人工物だった。空中に浮いたまま、ゆっくりと近付いてきている。

 

全体が景色に溶けこんでいるが、一度気付くと目で追えるようになった。どういう技術なのだろう。いわゆる“光学迷彩”などと言われるものだろうか。表面がてらてらしていて、どことなく、ケーゲルやレグルスのボディに似ていると思った。

 

それは二人の頭上数メートルに、浮遊したまま停まった。斜め下にいるプレトたちを見下ろしているのかもしれない。なんと形容したらいいのか分からないが、大人が数人乗り込めそうなサイズだ。

 

フロントガラスと思われる部分は、マジックミラーのようになっているのだろうか、中が見えない。レグルスよりも少し平べったく、横に広い。ジンベイザメを体躯の真ん中でぶつ切りにしたら、きっとあんな形になるだろうと思った。


「ついさっき、ケーゲルをなんとかしたところなのに……」


ルリスが苦しそうに呟く。プレトの心臓が早鐘をうっている。緊張で手のひらがじっとりしてきた。身動きがとれないまま、しばらく凝視していたが、何かが起こるわけでもなく、ただ時間が過ぎていった。現れたものは何もしてこない。


「……え、なにしに来たんだろ」と、ルリス。


「とにかく、敵だよね? 私たちが雲に包まれていて誰か分からないのかも。さすがに人違いは避けたいんじゃないかな。あっちが困惑している間に虹を採っちゃおう」


「そうだね! もう! この紫色が固すぎて。あと少しなのに!」


切り進めていた虹は、紫色の部分が首の皮一枚で繋がっている状態だ。ルリスがそれを必死で切り離そうとしている。

 

その間に、飛行物体はじわじわと下降しはじめた。プレトとルリス本人なのか、近くで確認したいのかもしれない。


「近付いてきたよ! 気持ちわるい!」


必死でノコギリを動かしながらルリスが言った。


「そもそも、なんなのアレ! レグルスより便利そうじゃん!」


飛行物体はその声に反応したかのように、底面から何かを出した。それは、二本のアームだった。


「私たちを捕まえるつもりなのかな」


「握りつぶすつもりかも!」


「くっそ! 邪魔すんなあ!」


プレトがヤケを起こし、叫びながら虹を蹴り飛ばしたところ、バリッと音をたてて、紫色の部分が切り離された。ベニヤ板が割れるときの音に似ていた。


「プレトやったよ!」


「よし、もう行こう! レグルスに戻ろう!」


ルリスが虹を抱えていたので、プレトがシャモジを繋いでいるロープを掴んだ。

 

前方の肉塊たちは、壊れたケーゲルの燃料に群がっている。今なら縄梯子まで辿り着けそうだ。

 

槍のように突き出たアームの間を、二人は小走りで進んでいった。剣山のような地形のおかげで、飛行物体はむやみにこちらへ近付くことができないようだ。だが、アームを伸ばしているので、油断はできない。


「ルリス、先に行って! 肉塊がいない今のうちに、虹を縄梯子に引っかけておいて!」


ルリスは迷ったように何度かプレトと飛行物体を見比べたが、「わかった!」と言うと、スピードを上げて縄梯子めがけて駆けていった。

 

プレトはぜえぜえと息をしながら、小さくなっていくルリスの背中をじっと見ていた。

 

小走りしているだけなのに異様に息が切れる。体調は安定しているように思えたが、毛虫の毒は確実にプレトの身体を蝕んでいるようだ。

 

危険植物を引きずりながら振り向くと、すぐそこまでアームが迫っていた。全く音がしなかったので、気が付かなかった。


「ヒュッ」


恐怖で短く息を吸うと、尖った地形をでたらめに走った。なんとか敵を撒きたかったが、こんなことをしても何にもならないことは、プレト自身が一番よくわかっていた。

 

飛行物体のアームが、手が届きそうなくらいそばに来たとき、無意識にルリスがいる方向を向いた。友人の声が聞こえた気がしたのだ。


あー、幻聴か。
『伏せて』


プレトはほとんど転ぶように、地面に伏せた。

 

男の人の声が聞こえた。間違いない。あの輝く人の声だ。


プレトが伏せたとたん、シャモジが今までにないくらい激しく暴れはじめた。ぜんまい状の二本のツタを縦横無尽に振りまわしている。

 

もともと凶暴なのに、今はその比ではない。プレトは伏せたまま両手で頭を抱えた。

 

シャモジのツタが、周りの槍のようなものを打ち砕いていて、その破片が飛んでくるのだ。背負ったバックパックに欠片がはね返っているのが振動でわかる。

 

雲の防護服を着ているから、ケガはしないで済みそうだけど……単純に怖い!


「ーー! ーー!」


ルリスの声がかすかに聞こえる。全く聞きとれないが、恐らく心配で叫んでいるのだろう。


「だいじょうぶ! だいじょうぶだから!」


絶対に届かないことは分かっているが、必死で返事をした。

 

獰猛な植物は狂ったようにツタを振るっていたが、そのうちの一本が飛行物体のアームにからまった。シャモジは軽いから、墜落することはなさそうだったが、アームは自由に動くことができなくなったように見える。

 

左右に揺さぶり、振り払おうとしているようだが、これだけ絡みついていては無理だろう。プレトが伏せながら、目だけで一部始終をうかがっていると、


『走って、縄梯子、登って』


また先ほどと同じ声が聞こえた。


……いや、聞こえたというよりも、頭の中に直接流れこんでくるというか……


ダンッ!
「うわ!」


逡巡しているプレトの眼の前に、アームについていたツメが一つ落ちてきた。シャモジが破壊したのかもしれない。考えている場合ではない。プレトは立ち上がった勢いで走り出した。

 

肺が痛いほどに息苦しくなったが、同時に、脚に力がみなぎる感覚を覚えた。一体、これはどういうことだろう。なんだか不思議な感覚だ。

 

数十メートル先にいるルリスがこちらに手を振っている。あそこを目指して走るのだ。


肉塊は相変わらず、パラライトアルミニウムとおぼしき液体に群がっているが、あぶれたらしい数匹がゆっくりと歩き回っている。

 

こちらに気が付いたのか、壊れたピアノのような音で鳴きだすものもいた。絶対に止まってはいけないことが直感でわかる。


「ルリ……のぼ……登って!」


数メートル先で待っている友人に、息を切らしながら叫んだ。

 

友人は心配そうな顔をしたまま縄梯子に足をかけた。後ろから何かが走ってくる音が聞こえる。おそらく肉塊が追ってきているのだ。

 

プレトはふらつきながら走りつづけ、なんとか縄橋子にたどり着いた。

 

梯子の一番下に、カラビナを使って虹を引っかけてある。さすがだ。見上げると、ルリスは梯子の中ほどまで進んでいた。このまま友人の背を追えばいいのだ。


疲労により、気道がギュウギュウと締めあげられたが、なんとか苦痛を押しこめ、震えはじめた両手を梯子にかけた。

 

まばたきも忘れ、数段登ったとき、右脚に重さがかかった。目線を下げると、肉塊が一匹ぶらさがっている。プレトのジャージの裾に、長い口で噛みついているのだ。

 

肉塊のぼてっとした質感がありありと分かり、プレトの全身に鳥肌がたった。


プレトはこのとき初めて、内臓にも鳥肌が立つことを知った。

 

(第53話につづく)

作者は 

こんなひと