今日の楽しみは


ルリスが引き伸ばした自作の雷雲で、レグルスを包んで言った。


「レグルス餃子できたよ!」


「すごー!!」少年はそう言うと、ぽかんと口を開いた。


ルリスの愛車は薄い雲に包まれ、ファンタジーな装いになった。これで再び、アメーバのようなものが飛んできてもなんとかなるだろう。


「本当に、よくこんな対抗策を思いついたね。でも、この状態だと、ゴム手袋が必須だよね。感電しないように気をつけなきゃ」


プレトとルリスは後片付けをすると、少年にお礼を言い、レグルスに乗り込んだ。


「発電機ありがとう。元気でね」


「師匠たちもね……夏休みの宿題でさ、日記があるんだよ。このこと書いてもいい?」


「いいよ。絵日記にも作文にも書きなよ。いいネタができて良かったね」


でも、その日記を教師が見たらどう思うのだろうか。少年におかしな妄想癖があると疑われなければいいのだが……


レグルスの中から少年に手を振り、出発した。

彼の家の玄関先で、少年の母親も手を振ってくれているのが見えた。別れを惜しみつつ前を向くと、フロントガラスが薄い霧に包まれたような感じになっていた。雷雲で覆っているせいだ。


「このくらいの視界なら、操縦は余裕だよ! そろそろ住宅街を出るけど、どうなるかな……」


ルリスが周りを警戒しながら言った。ストーカーがどこから飛び出してくるか分からない。アメーバのようなものは雷雲で防げるかもしれないが、センサーが壊れているので、追突はルリスの操縦で回避しなければならない。


やがて住宅街を抜け、レインキャニオンへの道のりを進んで行った。プレトは助手席でクライノートをチェックしたが、宿での襲撃やアメーバ事件に関する投稿に対して、相変わらずコメントが殺到している。


「心配してくれたり、応援してくれるようなコメントもいっぱいあるけど、悪口も多いね。『攻撃される方が悪い』って書いてる人もいるよ」


プレトは呆れながら言った。


「まったく……そういう人って、家の郵便受けに排泄されても同じことが言えるのかな……あ、後ろから来ているかも」


プレトが後方を見ると、うっすらと白い視界の中、小さくレグルスが見えた。ぐんぐん大きさを増しているので、かなりのスピードが出ているようだ。


「多分ストーカーだね。一体どこから湧いてくるんだか」


「ぶつけられないように気をつけないと」


ルリスがハンドルを強く握った。後ろからアメーバのようなものが飛んでくるのが見えた。やはり、またあの武器を使っているようだ。


「うまくいってくれ……」


プレトが、すがりつくように小声で言った。するとその直後、バチンッ!という音が聞こえてきた。立て続けにバチンッ! バチンッ! バチンッ! 

 

自作の雷雲が、例のアメーバを弾いている音だ。前方に回り込んできたアメーバも、フロントガラスに当たったとたん、電気に弾かれ、あさっての方向に飛んでいった。


「うまくいった! うまくいった!」


プレトが喜びで思わず叫んだ。


「『できたて雷雲〜レグルス包み〜』の勝利だね!」


「いつの間にそんな料理みたいな名前を……」


それから数時間、ストーカーに追われることになったが、二人が追いつかれることはなかった。しかも、前方に森が見えてくるなり、ストーカーは急にスピードを落とし、Uターンして来た道を引き返していった。


「……あれ? 急にいなくなった」と、ルリス。


「アメーバの武器が通用しないから諦めたのかな?」


ルリスは後方を伺いながらスピードを落とし、通常のスピードに戻した。目の前に森が広がっている。こんもりと盛り上がっているので、山になっているようだ。プレトに尋ねてくる。


「森があるけど、レグルスで入れるかな? この先にレインキャニオンがあるらしいぞ」


「もうそんなに来たんだね! 木がそこまで密集していないから、このまま入れるはずだよ。さっさと行こう!」


プレトは緊張し、思わず身体が硬くなった。いよいよ目的地に近づいたのだ。木々の間を通り抜け、順調にレグルスを走らせていく。森の地面は全体的に、粘土の高い泥沼になっているようだ。時々、木の幹や岩に泥が飛び散っているのが目に入った。


「尻尾の長い動物が泥遊びでもしたのかな?」


プレトがそう思ったとき、細長い何かが泥の中から出現した。それは2mほどの高さまで伸びていき、ゆらゆらと左右に揺れ始めた。同じようなものが辺りに数本ある。


「ん? なにこれ、ぜんまい?」と、ルリス。


「ぜんまいって?」


「山菜のぜんまいに似てるよね? 先が丸まってるから」


「ああ……前に天ぷらにしてくれたやつ? 似てるね。こんなに大きいものもあるんだ………でも、ぜんまいって急に出てくるものなの?」


近くにあったぜんまいの、丸まった先端がほどけていき、突然、鞭打つような動きでレグルスに襲いかかってきた。

 

バチンッ! しかし、レグルスを覆っている雷雲に弾かれたようだ。


「うわわわ! これ、やばいやつじゃん!」


「スピード、上げるよ!」


ルリスが一気にアクセルを踏み込んだ。小刻みにハンドルを動かし、木々もぜんまいも巧みに避けていく。

 

センサーが壊れているので、少しでも操縦を誤れば、レグルスが大破してしまいかねない。

 

だが、スピードを緩めるわけにもいかなかった。地面からはぜんまいだけでなく、レグルスよりも大きな、ラフレシアのようなものがいくつも出現した。

 

中央に空いた、これまた巨大な穴をパクパクと開閉している。万が一、ぜんまいに叩き落され、この穴に吸い込まれたとしたら……

 

しかし、幸いにも泥のエリアはさほど広くはなく、乾いた地面に切り替わるにつれ、その障害物は姿を現さなくなった。


「ふーっ」


ルリスが長く息を吐いた。額に汗が浮かんでいる。


「あんなのがいるなんて……一体なんだったんだろう」


プレトが後方に顔を向けて言った。


「植物っぽかったよね……食虫植物……じゃなくて、食人植物とか?」


「食人植物? 怖すぎ……うわっ!」


レグルスが急に方向転換したため、プレトは座席に頭を打ち付けた。

 

ルリスがレグルスを横滑りさせるように停めたようだった。

 

プレトが窓の外を見ると、断崖絶壁ギリギリにいることがわかった。

 

ここは、レインキャニオンを挟んだ山の頂上だった。とうとうレインキャニオンに到着したのだ。プレトが地図を確認して言った。


「ここはレインキャニオンの端っこか……」


「こんなところなんだね……」


レグルスを包んでいた雷雲がビラビラとめくれている。先ほどぜんまいに叩かれた際、どこかが裂けてしまったようだ。

 

崖下から吹き上げてくる強い風に煽られ、徐々にちぎれて、上空に飛んでいった。くるくる回りながら空に昇っていく姿は、ただの雲だったときよりも自由に見えた。


「あ……雲がなくなっちゃったね……」


ルリスが見上げながら呟いた。


「あれのお陰で助かったね。時間が経てば自然に霧散するから、放っておいて大丈夫だよ」


プレトが助手席側の窓を開けると、二人の髪が強風で踊った。谷底から吹き上がる風が、ゴウゴウと音をたてている。

 

レインキャニオンを覗き込むと、全身の毛がゾワゾワと逆立つのを感じた。

 

ルリスもこちらに身を寄せ、レインキャニオンを見下ろし、息を呑んだ。こわばった声で呟く。


「剣山みたい……」


レインキャニオンは広範囲に渡る渓谷だ。それほど深くはないが、谷間の幅が広く、川も流れているので、見る者にどっしりとした印象を与える。その谷間の平坦な地面から、空に向かって、無数の何かが鋭く伸びている。大きさはまちまちで、数十センチから数メートルといったところだろうか。


「資料に書いてあったけど、レインキャニオンって、時期によって地形がガラッと変わるんだってさ。今はこういう時期なんだね……」


プレトはボソッと言った。


「そんな奇妙な場所なんだ……離れているから剣山みたいに見えるけれど、実際に近づいたら大きい槍みたいなものかな? 何でできているんだろう?」


「さっぱり分からないな……こんなものがあるって情報は聞いたことがないから、この地形に遭遇するのは私たちが初めてかも」


「なんて光栄なの」


ルリスは、全く嬉しくなさそうに言った。


「全体的に崖だけど……レグルスで降りれそう?」


「うーん……」ルリスは唸ると、腕を組んだまま黙り込んでしまった。難しいのだろう。そもそも、降りることができたとしても、登るときはどうするのだ。黙っていたルリスが口を開いた。


「降りる手段は何かあるんだっけ?」


「縄梯子がある」


「縄梯子ね……さっきの食人植物みたいなのがいたら、一巻の終わりかも……」


「本来、採取チームが虹の採取をするときは大勢で取りかかるからね。危険物に遭遇したときは、囮役と攻撃役と採取役に分かれて活動するんだ。さっき襲ってきたやつも、レグルスが複数台あれば、もっと余裕だっただろうし」


「そっか。そもそも、2人でなんとかしようとするのは、無理があるってことだね。所長はそれを分かってて、プレトを1人で行かせようとしたんだ」


ルリスはそう言いながら、両手を強く握りしめた。


やはり一人で行けと命じた時点で、虹を採取させる気なんて全くなかったんだな。

 

本気で殺すつもりなんだな。分かりきっていたことだが、いざレインキャニオンを目の前にした今、その事実が細胞一つ一つに染み渡り、身体の自由を奪っていく気がした。


「とりあえず、虹が出ないことにはどうしようもない……」


泉の源に向かっていたつもりだったが、地獄に片足を突っ込んでしまったのかもしれない。

 

(第50話につづく)

作者は 

こんなひと