今日の楽しみは 


やれることはもうない……いや、ある。最後に一つだけ。


プレトはアーミーナイフを握りしめ、よろよろと立ち上がった。熱で足元がおぼつかない。

 

浮いているような感覚だ。このまま膜にナイフを突き立て、外まで飛び出せばいいのだ。

 

電圧がどのくらいかは全く分からない。弱っている身体で体当たりをしたら、即死かもしれない。


でも、どうせ長く生きられないのだから、試してみる価値はある。ルリスがここから出られるチャンスになるなら、それでよかった。


「やめて!」ルリスにいきなり腕を捕まれた。

 

友人は言葉を続けた。「文字通り、切り込み隊長になるつもりでしょ、ダメだよ。一緒に窒息した方がマシだよ」


プレトは無言で、アーミーナイフをバックパックにしまい、再び地面に座った。心の中を見透かされたのも、衝動的に行動しようとしたのも、なんだか恥ずかしかった。熱があると、頭がまともに働かない。


「なんとかならないかなあ……せっかく動画も撮れたのに、諦めたくないよ……」ルリスが呟いた。


先ほどのフーイの話の中には、プレトの名前も、所長という単語も出てきた。誰かが見たら、事の危険性が伝わるかもしれない。見せることができればの話だが……


プレトの心境にシンクロするような土砂降りになった。膜の外側を、雨水が絶え間なく流れている。ここがリゾート地で、おしゃれな透明テントの中なら、癒やされるだろう。でも、いま閉じ込められているテントは、触れたら感電してしまうのだ。ほぼ拷問器具だ。


「なんか、息苦しい」と、プレト。


「わたしも……」


酸欠になってしまいそうだ。陸にいるのに、息ができなくなるなんて……


無性に心細くなってきた。心臓を何者かに鷲掴みにされている気分だ。何かにすがりつきたい。でも、何にすがりつけばいいのだろう。プレトは心の中で、神様に話しかけてみた。他にどうすることもできない。


『なんとかここから出していただけませんか……』


しばらくじっとしていたが、もちろん不思議な声などは聞こえない。いま生きているのは、ただの偶然? 毒に耐性があっただけ? 助けてもらえたわけじゃなかったのかな……分からない……


酸素が少なくなった影響か、頭痛が激しくなってきた。プレトは頭を抱えた。まるで、頭蓋骨の中でレグルスが暴走しているようだ。目をきつく閉じた。入ってくる情報を、できるだけ少なくしたかった。


やがてルリスの声が聞こえてきた。蚊が鳴くように小さい。


「プレトが生きてるから、神様はいるかもしれないって思ったのに……勘違いだったのかな? せっかく仕返しの材料を手に入れたのに……こんなところで死ぬの? 助けてくれないの? 本当はいないの?」


するとそのとき、突然、ドゴーンと大きな爆発音が鳴り響き、再び閃光に包まれた。


「うぎゃあ!」


「ひゃああ!」


プレトとルリスは同時に悲鳴を上げ、身体を丸めて耳をふさいだ。今度は一体なんだ! もう勘弁してくれ! 


鼓膜を引き裂くような音だ。驚きすぎて、横隔膜が肺を押し潰してしまいそうになった。ガコンッと、なにかが地面に落下し、プレトの長靴をかすめた。

 

そのとたん、大粒の雫が体を叩きつけてきたのが分かった。プレトは右目だけゆっくりと開けてみる。もう閃光は消えていた。


落ちてきた水滴が、腕にぶつかり、散らばっていく。これは雨だ。雨に打たれているのだ。ということは、膜がなくなっている?


足元に視線を向けると、円錐型の機械が転がっていた。一部が焦げて割れ、液体が漏れ出している。


「あれ……生きてる?」ルリスが目を開けて言った。


「そうみたい……」


2人の周りには、細切れになった膜がたくさん散らばっていた。


「今の……なんだったの?」


「なんだろう……もしかして、雷?」


プレトはそう言いながら、空を見上げた。雨雲はゴロゴロ唸るのを止め、ただ水を落としている。


「なにがなんだか分からないけど……出られたね。こんなことあるんだ……」と、ルリス。


「……奇跡だ」


周りに高い木が沢山あるのに、雷はピンポイントで円錐に落ちたのだ。その落雷のおかげで、罠から脱出できたのだ。不思議でたまらない。

奇跡としか言いようがない。


プレトはちぎれた膜に小石を投げつけてみたが、弾かれなかった。続いて、近くに落ちていた木の枝を手に取り、恐る恐るつついてみた。

 

なにも起こらない。手に取ってみると、ゼリーベンゼンにそっくりだった。その間、ルリスが歩き回りながら、一通りの写真と動画を撮ってくれた。


「これも証拠になる!」


「証拠か……この円錐、持っていく?」一応、訊いてみた。


「うーん、もうレグルスが荷物でいっぱいだから、入らないかな」


「だよね……膜だけ証拠として持っていこうか」


プレトとルリスはジップ付きのビニール袋に、膜をいくつか入れた。これくらいなら嵩ばらない。雨に打たれつづけたせいで、服が絞れるくらいに濡れてしまった。


「……レグルスに戻ろうか」


「うん、また雷が落ちたらまずいし……」と、プレト。


突然出られたことに戸惑いもあったが、このままここにいても、体力を無駄に消耗するだけだ。2人は携帯電話のライトを使い、足元を照らしながら進んだ。心もとない明かりだったが、今はこれに頼るしかない。


途中、木の根に躓き、プレトの長靴が片方脱げてしまった。つんのめった勢いのまま、靴下で地面を踏みしめると、なぜか急に、生きていることへの感動がこみ上げてきた。


熱で火照った頬に、大粒の雨が次々と当たる。心地がいい。脱げた長靴を手に持ったまま、ルリスの後ろにピタリと張り付いて進んだ。


密林を抜けると、広い道路の向こうに、ピンクのレグルスが見えた。1台だけで、ぽつんと佇んでいる。そのルリスの愛車のさらに向こう、雲の切れ間から月が覗いているのがかすかに見えた。神様が『おかえり』と言ってくれた気がした。


レグルスまで歩いていくと、周りに誰もいないことを確認できた。プレトとルリスは、レグルスのドアのすぐそばで、服をすべて地面に脱ぎ捨てた。裸でレグルスに乗り込み、身体を拭き、着替えてから、雨と土でどろどろになった衣類を回収した。


その後、ろくに言葉も交わさず、携帯食料を水で流し込み、雨音に包まれたレグルスの中で、泥のように眠った。プレトは、サマーブロッサムの花畑を歩く夢を見た。そんなもの、密林にはなかったのに。でも、誰かが夢の中で手を引いてくれていた……温かくて大きくて、優しい手で。


目を開けると、新しい一日が始まっていた。雨は止み、頭痛がマシになっている。悪くない夢だった。ルリスが目を覚ますなり、こんなことを言い出した。


「早速だけどさ、SNSのアカウントを作ろうと思うんだよね。あいつらの悪事をバラしまくるんだ! クライノートはどうかな?」


クライノートとは、数あるSNSの中でも一番ユーザーが多いと言われているものだ。


「そうだね。最初はメジャーなところから始めよう……私は使ったことないけど」


「わたしは前にちょっとだけ使ったことがあるよ。メールアドレスとパスワードがあれば、簡単にアカウントが作れるんだよね。アカウント名はどうする?」


「アカウント名……?」正直こだわりはないから、何でもよかった。


「ふと思いついたんだけどさ、〈プレトとルリスの冒険〉はどうかな?」


「へー! それ、なんかかわいいね! でも、ルリスの名前は伏せておいた方がいいかもしれない。私のことはあいつらにほとんど筒抜けだけど、ルリスは名前も知られていないだろうし」


「あー、そっか……」


いくつか案を出し合った結果、とりあえず、プレトの名前の由来である〈プレパラート〉にすることにした。アイコン画像は、パラライトアルミニウムの入ったイボイボの容器の写真にしておいた。


「わたしは、これは神様からのゴーサインだと思ってるよ」と、ルリスは言った。

 

「毒でも死なかかったし、罠からも抜け出せたし、証拠もゲットできたんだもん。こんなこと、普通はありえないよ。絶対、神様のおかげだよ!」


「そうだね、ありえなさすぎるよね」


数日前まで安穏と研究所に出勤していたのに、こんな奇跡のような体験をするなんて……人生は、いつ何が起きるか分からない。


「プレトも携帯電話出してくれる? アカウントを共有すれば、2人で使えるようになるよ」


「なるほど、便利だ」


ルリスがアカウントを共有してくれた。プレトはそのとき、アカウントだけではなく、何かもっと大切なものを共有したような気分になった。それは多分、正義とか勇気とか、そういう類のものだろう。

 

(第35話につづく)

 

 

作者は 

こんなひと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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