今日の楽しみは
 

 
目を開けると、アジサイ色に染まった空が見えた。磨りガラスのような月が浮かんでいる。なんて幻想的なのだろう。

 


そうか、とうとう死んでしまったか……短い人生だったな……最後の数日間が濃密すぎたな……でも、ここはどこだ?


落ち着いて辺りを見回すと、野営していた草原のようだ。だが、テントもレグルスも見当たらない。なんの音もしない。風もない。本当に何もない。穏やかな草原の中で、プレト一人が地べたに三角座りをしていた。


ここは、あの世と呼ばれるところなのだろうか。だが、景色は変わっていない。地縛霊か何かになってしまったのだろうか。
幽霊のことは分からないな。幽霊になったのはこれが初めてだし。


一度深呼吸をしてみると、空気がぬめっていることに気がついた。肺が重い。これは、この感じは…………また奇怪な幻か?


プレトは首を左右に振った。少女はいない。再び正面を向くと、視線の先に何かがあることに気がついた。


……まさか、ドリンクバーか? 


変な汗が出てきた。やはりまた、あの奇怪な体験をしなければならないのだろうか。少女が現れるのを少し待ったが、誰の気配もない。


あの子がいないと、幻から出られない感じなんだよな……会うためには、行くしかないか……自分の生死も不明だけど……

 

プレトは立ち上がり、ドリンクバーだと思われるものに近付いていった。


その途中で、違和感に気がついた。いや、違和感がないことに違和感を感じたというか……身体が楽なのだ。

 

万全ではないが、なんの苦労もなく歩くことができている。昨日は、めまいがひどくて歩くのに苦労し、ルリスに支えてもらったのに。もしかして、治った?


……いや、これが幻だからかもしれない。死んでしまったからかもしれない。幻や死後に、体調不良が反映されるかは不明だし、反映されてほしくない。


近付いてみると、やはりそれはドリンクバーだった。

35日のボタン以外はアルファベット表記の、いつものおかしなドリンクバーだ。

 

プレトがそれを眺めていると、後ろから少女の声が聞こえた。


「Cはココナッツだよ。また会えてよかった」


「チェリーかと思ったよ」そう言いながら振り返った。


やはりいつもの少女だった。今回も手にヘビを握っていて、裸足のままだ。草原で裸足でいるのは気持ちが良さそうだった。両耳は完全になくなってしまっているが、傷は塞がっているようだ。

 

だが今度は、握られているヘビの方が気になった。強く握られているからか、ヘビの口から血が滴っている。鱗も半分以上はがれているように見えた。少女の耳を食べた報いとしては妥当だと思った。


「これさ、飲まないといけないかな?」


「うん」


プレトは、ドリンクバーに備え付けられているコップをセットし、Cのボタンを押した。もちろん飲みたくはないが、やるしかない。


出てきたのは白い液体だった。ココナッツということは、ココナッツミルクということだろうか。

 

異物が混入しているかどうかは確認できなかった。透明なコップの底を覗いてみても、何も沈殿していない。

 

三度目の正直で、今度こそ普通のジュースが飲めるかもしれない。淡い期待を抱いて一口含んだが……なんだか苦いし、しょっぱい? 


なんだこれは。それに、後味がなんか……肉っぽい? 海水ににがりを混ぜて、生臭くしたような味だ。


「何が混ざってるか分かる?」少女に訊いてみた。


「……」


少女は無言で目をそらした。知らないほうがよさそうだ。これまでのジュースよりはマシだと思ったが、飲み込む気にはなれない。

 

プレトは足元に吐き出した。近くを流れている小川に駆け寄り、口を濯ごうとしたが、渇れてしまっている。今回も水はないのか……

 

プレトがうなだれていると、少女が「あれ」と言って、どこかを指さした。その指先を視線でたどっていくと、1台のレグルスが見えた。ルリスのものでも、フーイのものでもない。

 

そのレグルスは、地面から1メートルほどのところに浮いていた。そして、プレトの愛車に似ていた。林道で廃車になってしまったレグルス……白くて、1人乗りのレグルス。


「あれは……」プレトが口を開くと、少女が食い気味に言った。「お姉さんのレグルスだよ」


「……そうかな」プレトは半信半疑だった。似たようなレグルスはごまんとある。駐車場で何度見失ったことか。


プレトは、浮いたレグルスの中に人影があることに気付いた。なぜかぼんやりとしか見えないが、直感的に、それはプレト自身だと思った。

 

まあ、あれがプレトのレグルスならば、プレトが乗っているのは不自然ではない。それをプレト自身が見ているこの状況は不自然だが……


「見ててね」と、少女が言った。


空中のレグルスが震え始めた。ベコン。ベコン。バキン。グシャ。大きな音を立てながら、徐々に変形している。その様子を、プレトと少女は黙って見ていた。


レグルスはどんどん変形していく。やがて、廃車になったプレトのレグルスと同じ形になった。

 

アジサイ色の空の下、穏やかな草原の上、そこにスクラップになったレグルスが浮かんでいる。なんて奇妙なのだろう。


レグルスは震えが止まると、地面に落下した。その衝撃で、細かいガラス片や、故障したパーツが飛び散る。プレトの足元にも、ライトのカバーガラスが飛んできた。

 

それと同時にフロントガラスが、内側から勢いよく赤く染まった。

 

プレトはカットトマトの缶詰をぶちまけたみたいだなと思った。だが、トマトよりも赤黒いし、そもそもトマトであるわけがない。中にいる人物の身体が損傷したのだろう。損壊と言ってもいいかもしれない。


プレトは黙ってうつむいた。フロントガラスが赤く染まっているので、中の様子は見えなかったが、ろくでもないことになっているだろう。

 

事故のとき、エアフィルムがうまく作動しなかったら、きっとこうなっていたのだ。そして、ミンチになったプレトを、ルリスが目撃することになったのだ。


「ドア開けてみる? 中見てみる?」少女がレグルスに視線を向けたまま言った。


「……」胃の中のものがせり上がってくる。プレトは目を瞑り、歯をくいしばって耐えた。握りしめた両手が震える。


「イヤな気持ちになった?」


「……」事故の恐怖が甦ってくる。突然の出来事だったし、警官の対応があまりに理不尽で、感情を胸の奥に押し込めたままにしてしまっていた。あのときは、ルリスが励まして慰めてくれたが、ここにルリスはいない。一人で、一人で耐えないと。


膝が震える。まるで、生まれたての小鹿のようだ。いや、小鹿は生まれてすぐに走り出すことができる。私は、ルリスがいなかったら何もできない。


ふふ……
プレトの口の端から、自分への嘲笑が漏れた。その瞬間に、緊張の糸が切れてしまった。膝をついて、胃の中のものを吐き出した。出てきたものは、胃液にまみれた爪切りだった。なんでだよ……


草原にへたりこむプレトの鼻に、鉄のにおいが届いた。レグルスの中の血だろう。少女がプレトのそばにしゃがみこんだ。ヘビを握っていない方の手で、プレトの背中をさすっている。
「お姉さんは、こうならなかったよ」


「うん…………げぶっ」また吐いてしまった。今度はゼリービーンズがいくつか出てきた。だからなんで……


少女は話し続ける。
「生きていると、進むか戻るか迷うことがあると思うの。その場に留まるのはもっと難しいんだよ」


「ん? ……うん」なんの話しだろう。


「泉の源に行きたいなら、流れに逆らって泳がないといけないの。ただ流されるなら、枝から切り離された葉っぱと同じだよね。下流の淀んだ窪地に落ちて、積もる泥にまみれるしかなくなるの」


「難しいことを言うね……もっと、分かりやすくお願い」


「人生はゆるい登り坂だからね。生きているのが羨ましい。いいなあ…………そろそろ戻りたいよね?」


「うん……それより、私って生きてるの? 死にかけたまま寝ちゃったんだけど」


「戻れば分かるよ。わたしが言ったこと、忘れないでね」


「泉の源のこと?」


「お姉さん、頑張ってね。泉の源も、頂上からの景色も、清くて美しいんだよ。35日は飲まないでね、目を閉じて……」


「もっと詳しく教えて……」


そう言ったが、少女の手のひらがプレトの両目をふさいだ。しばらくして、少女の手の感触がなくなった。

 

目を開けると、テントの天井が見えた。空気のぬめりがなくなっている。視線を少し動かすと、開口部の向こうに青い空があるのが分かった。小鳥のさえずりと、小川のせせらぎも聞こえてくる。


どうやら、戻ってこれたらしい。


しかも、生きている。胸に手を当てると、鼓動が伝わってきた。


右手をゆっくり頭の辺りに持っていくと、ルリスの髪に触れた。柔らかい毛先がくすぐったい。


生きている。確かに生きている。まだルリスといられる。


突き抜けるような青空が、じわりと滲んだ。

 

(第31話につづく)

 

 

作者は 

こんなひと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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