今日の楽しみは

 

 
 

旅に出て7日目を迎えた。


プレトは夜明け前に目が覚めてしまい、ベッドから抜け出した。


ペットボトルの水を飲んでいると、バスルームから水が流れる音が聞こえてきた。出しっぱなしにしていたのだろうか。

 

 バスルームの扉を開けてみると、空っぽの湯船の中にドリンクバーが設置されていた。

 

 プレトは黙って、バスルームの扉を閉める。

 

こんなものが湯船の中にあるなんて、余りにも奇妙だ。


水の流れる音はいつの間にか消えていた。同時に、空気がぬめっているような感覚を覚える。身体が重い。


もう一度バスルームの扉を開けてみると、ドリンクバーはまだ確かにそこにあった。近付いて確認してみると、ドリンクボタンにアルファベットが振ってある。一つだけ、「35日」と書かれているものがあった。


プレトの記憶がよみがえる。数日前に、噴水広場にあったドリンクバーと同じものだ。空気感も、あのときと同じかもしれない。


「Bはバナナだよ。また会えたね」


後ろから声がしたので振り向くと、少女が立っていた。噴水広場で会った子だ。今回も手にヘビを握っている。しかも裸足だ。ところが、 両耳がなくなり、そこから血が滴っている。


「耳、どうしたの?」


気になることは他にも沢山あったが、開口一番そう言った。


「痛くないから大丈夫」少女は落ち着いた口調で答えた。


「……どうしてここにいるの?」


「どこにでもいるよ」


「……」
なにを言っているのだろう。 プレトは頭を左右に振り、視線を動かした。また犬が来ないか、不安だった。


「もう犬は来ないよ。お姉さんは勝ったからね」少女に考えを読まれてしまったようだ。


「あれは勝ったことになるの?」あのときは隙をみて逃げただけなのだが。


「バナナジュース飲んで」少女はプレトの質問には答えず、そう催促してきた。「飲んで飲んで」


「……」
数日前、ドリンクバーから飲んだアップルジュースには砂が混入していて、口の中がずっとジャリジャリするはめになった。同じ目に遭いそうだと思い、飲む気になれなかった。


「いまは喉、かわいてないから」


「飲んだ方がいいよ」


少女の目つきは真剣だった。 相変わらず頭の両側から血が滴っていて、なぜかそれを飲まなければプレトの耳も同じようになる気がした。

 

仕方なく、ドリンクバーに備え付けのコップをセットし、Bのボタンを押した。 黄色の液体が出てきたが、なにか柔らかそうなものが混ざっているのが見えた。プレトはコップを手に取ったが、飲みたくなかった。


「飲んで飲んで」
少女に急かされ、仕方なく一口だけ口にする。

 

確かにバナナジュースの味がした。が、口の中がネバネバして、そのネバネバしたところだけ塩気がする。最初は片栗粉でも混ざっているのかと考えていたが……これはもしや、鼻水や痰の類ではないだろうか。


そう思い至った瞬間、バスルームの床に口の中のものを吐き出した。とても嚥下する気にはなれない。吐き気がする。


「リビングに行こうよ」
少女に声をかけられた。


「ちょっと待ってて」
プレトは口を濯ぎたかった。バスルームにあった水道の蛇口をひねるが、何も出てこない。水が止まっているのだろうか。


「リビングに行こうよ」
少女がさっきと同じトーンで話しかけてくる。

 

 プレトは仕方なく少女に従うことにした。口の中が気持ち悪い。これでは、砂入りジュースの方がはるかにマシだ。


バスルームから出て、リビングに面した扉を開けた。と思ったら、なぜか外に出ていた。


「あれ、ルリス?」
思わず声が漏れた。リビングはどこに行ってしまったのだろう。


「お姉さん、こっち」
プレトはキョロキョロしながら少女についていく。辺りには街の景色が広がっている。以前もそうだったが、この少女に会うと、おかしなことばかりが起きる。


「あれ」
少女がそう言って指をさす。 

 

プレトはその方向に目を向けた。薄暗くてはっきりとは見えなかったが、少し離れたところに、大きな塊のようなものが動いている。 だんだんと目が慣れてくると、リバースパンダだと分かった。プレトは反射的に走って逃げようとした。少女の腕を掴んで引っ張る。


「逃げなくても大丈夫」
少女がそう言ってくる。

 

プレトはその言葉が信じられなかったが、 少女の目を見ると真剣そのものだった。プレトは彼女の腕から手を離した。するとそのとたん、バリッと音がして、少女の腕の皮が剥がれてしまった。プレトの手のひらに張りついている。


「うあ、あ、ごめん」
どうしたらいいのか分からなかった。理由は分からないが、少女にケガをさせてしまった。


「ときどきこうなるの。気にしないで」
戸惑うプレトに、少女が声をかけてくる。優しい声色だ。


「ほら、治った」少女は皮膚の剥がれた腕を見せてきた。確かに、なぜか元どおりになっている。 プレトは胸を撫で下ろした。

 

しかし、元どおりになったはずの少女の腕に、小さな鱗のようなものが生えているのが見えた。本当にきちんと治ったのだろうか。


「あれ、見て」少女は再びリバースパンダを指さした。見ると、今度はリバースパンダが何かを食べているのが分かった。


こんな街の中で何を食べているのだろう。そう思った瞬間、たちまち血の気が引いてしまった。 リバースパンダが食べていたのは、明らかに人間だった。しかも、プレトだ。プレトを食べているのだ。 胃の中のものがせり上がってくる。


「お姉さん、昨日の昼間、あいつから逃げてたよね。逃げ切れなかったらこうなっていたんだね」


「……こうなっていたんだねっていうことは、あれは現実じゃないの?」


プレトは歯を食いしばって、なんとか正気を保った。あれは現実ではない。自分に何度もそう言い聞かせる。脳がグラつくようだ。


「お姉さんにとってはね」


「……」
プレトは深呼吸をして、少女に向き直る。ぬめった空気のせいか、肺が重たい。血のにおいが鼻につき、吐き気がぶり返してきた。だが、なんとか堪えて口を開いた。


「もうちょっと……分かりやすく教えてくれるかな」


「……」
黙ったままの少女に話しかける。


「これはなに? 幻かなにかなの?」


「そんな感じかな。自分が食べられているところを見ると、どんな気持ちになるの?」


「最悪」
プレトは顔をしかめて答えた。


自分自身は確かにここにいる。目の前で起きていることがフィクションだということは何とか理解できるものの、最悪の気分だった。辺りは薄暗く、リバースパンダとも距離があったから、惨状ははっきりとは見えない。そのお陰で、なんとか耐えられているようなものだ。


プレト以外にも人型のものが転がっていたが、あちらはキリンパンだろうか。分からないが、わざわざ確認する気にはなれなかった。


「君も、自分が食べられたらイヤでしょ?」
気分を落ち着けるために、少女に尋ねてみた。


「わたしの耳、このヘビに食べられちゃったの」
少女はそう言いながら、片手に持っていたヘビを目で示した。


「え……それなら、逃がした方がいいんじゃない?」


「そうしたいんだけど……」
少女は、そう言ってうつむいてしまった。しかしプレトは、何よりも気になっていたことを思いきって訊いてみることにした。


「君は誰なの? 人間じゃないよね」


「うーん……」そう言って、少女は黙りこんでしまった。


プレトも黙りこむ。
「そろそろ戻りたいな」
プレトは思わずそう言った。とにかく、ルリスの顔を見て安心したかった。


「そっか。じゃあ、目を瞑って。35日は飲まないでね」


「うん」
言われるままに目を閉じた。1分ほどが経った頃、しびれを切らし、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。


すると、プレトは宿のリビングに立っていた。 ベッドの上で、ルリスが寝息をたてて眠っている。 どうやら戻ってこれたらしい。

 

思わず全身の力が抜け、その場にしゃがみこんでしまった。だが、口の中が相変わらず気持ち悪く、急いで洗面台に向かう。今度はきちんと水が出た。ドリンクバーも、空気のぬめりもなくなっている。

 

プレトとルリスは、宿を出てキリンパンと合流した。彼のレグルスの後を追いながら、次の街を目指してレグルスを駆る。


「ソバカス、あのさ……」
プレトは、ルリスに声をかけた。 夜明け前に見たものを話そうと思ったのだ。通信機を通してキリンパンにも聞かれると分かっていたが、構わなかった。


「ソバカスが熱を出してるときに、変な体験をしたって話したの、覚えてる?」


「えーと、幽霊のやつ?」


「そう。ルリ……ソバカスが寝てる間に、また変なことがあってさ」


ルリスをソバカスと呼ぶのに、まだ慣れていない。
「え、部屋に幽霊が出たの?」


「いや、そうじゃなくて、今回は幻みたいなものだった。最悪だったよ」


「どんな?」ルリスが前を向いたまま訊いてくる。


「リバースパンダに自分が食べられてるの」


「ええ!」ルリスが顔を引きつらせる。


「すごくリアルでさ、血のにおいがすごかったし……気持ち悪いジュースも飲まされちゃって……バナナジュースだったんだけど、なんか変なものが混ざってて……」


通信機からは何も聞こえてこない。


「でも、幻なんでしょ?」


「ううん、ジュースは現実だった。ずっと口の中が不快で……」


「え? どういうこと? 幻って言ってたよね?」


「あー、半分が幻っていうか」


「……どういうこと?」ルリスが眉をひそめる。


「うまく説明できないな」


プレト自身も理解できないので、何と説明していいのか分からない。 少し間があってから、ルリスが言った。


「もしかしてさ……わたしがホラー苦手なの知っててからかってる?」


「違うよ! てか、ホラー嫌いは克服したのかと思ってた。癒やし系ホラーの映画、借りてきてたし」


「あれは怖くなさそうだったから」
ルリスが唇をとがらせる。 まさか、機嫌を損ねたのだろうか。 ルリスはため息まじりに言った。


「プレトがリバースパンダに食べられるなんて……池で合流するまでの間、どれだけ心配したか分かってる? 幻か何か知らないけど、そんな話はイヤだよ」


「あ……ごめん。でも、嘘はついてなくて……」


「……」


ルリスが無言でバックミラーを睨みつける。かなり怒っているのだろうか。 これはまずい。早めに謝っておかなくては。


「ねえ、ごめん……」


「黒いレグルスが、後ろから来てる」ルリスが強い口調で言った。


プレトが後ろを見ると、確かに黒いレグルスが確認できた。まさかストーカーだろうか。だが、ボディの色だけでは断定できない。


「キリンパン! ストーカーかもしれない! 出番だよ!」


ルリスは通信機に向かって声を出し、アクセルを踏んでキリンパンの前に出る。

 

なんて気ぜわしい旅なんだろう。その瞬間、雲の切れ間から眩しい日差しがこぼれてきて、プレトは思わず目を瞑った。

 

(第23話につづく)

 

 

 

作者は 

こんなひと

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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