と見られる幾つもの証拠。

いま気になってること
 

 

 

 

「阪神大震災」が起きたのが、1995年の「1月17日」です。
 
そして、その翌年の「1月11日」に「第一次橋本内閣」が誕生し、さらに同年の「11月7日」に「第二次橋本内閣」が誕生しています。
 
つまり、こういうことになります。
 
■阪神大震災……117
 
■第一次橋本内閣……111
 
■第二次橋本内閣……117
 
「阪神大震災」が発生した日たちと、「第二次橋本内閣」が誕生した日にちの数字の並びが全く同じ「117」。
 
これも単なる偶然とは思えません。
 
そして、この「第二次橋本内閣」が誕生したときに「麻生太郎」が初入閣。
 
そして、この「117」という数字には、以下のような意味が込められています。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
昨日(1月17日)は阪神淡路大震災が起こった日である。
 
これまた、例外なく「彼ら」が仕組んだ人工地震であることは疑いようがないだろう。
 
1月17日(1+17=18=6+6+6)ということで、「彼ら」はこの日(1月17日)に人工地震を仕込むことが多い。
 
サンフランシスコ地震 1989・10・17
ロスアンジェルス地震 1994・ 1・17 
阪神淡路大震災    1995・ 1・17 
ちなみに湾岸戦争   1991・ 1・17
 
東日本大震災は、2011年3月11日(2+1+1+3+11=18=6+6+6)である。
 
---------------------(転載ここまで)
 
つまり、「117」は「11+7=18」で「18=6+6+6(みろく)」であり、悪魔の数ということです。
 
そして、「麻生家」のもともとの家紋は、以下のような「666」でしたね。(出典はこちら
 

〈麻生家の家紋〉


 
要するに、「第一次橋本内閣」から「第二次橋本内閣」になったのは、「麻生太郎」を出世コースに乗せるための意図的な計画だったとも考えられるわけです。
 
もっとも、話がこれだけなら、これら全てを単なる偶然として片付けることもできるでしょう。
 しかし、話はこれだけではありません。
 
上の「麻生太郎」の年譜に、私は敢えて「地下鉄サリン事件」のことを付け足しました。
 

実を言うと、「阪神大震災」が起きたのと「地下鉄サリン事件」が起きたのは全く同じ年でした。
 
しかも、「地下鉄サリン事件」を起こしたのは「オウム真理教」の教祖「麻原彰晃」ですが、実はこの「麻原彰晃」。
 
驚くべきことに、「阪神大震災」が起きることを前もって予言していたのです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
●第二の謎--”予言”されていた阪神大震災
 
オウム真理教の信徒は別として、オウムがラジオ放送をしていた事は、知る人ぞ知るだったかもしれない。
 
中波(1476Hz)午前零時から3時間流していた「エウアンゲリオン・テス・パシレイアス」という放送である。
 
平成7年1月8日の放送の中で、彼等は「1月18日に、直下型の大地震が起こる」と”予言”していたのである。
 

 

地震後に、的中したというので、オウムではB5判4頁、カラー印刷の「緊急速報」を大量に印刷して東京・大阪その他の都市の各戸に投げ込んだ。
 
「この惨事は1月8日警告されていた!」「またもや的中 麻原彰晃尊師の予言」「場所は『神戸・直下型』 時は『1月18日前後』!」「尊師の予言はこれからも的中する!」
 
等の見出しが踊るこの印刷物によると、同放送は麻原と彼をリーダーとするオウム真理教占星学研究グループが出演し、麻原独自の「地震占星学」に基づいて1995年の地震を予言したという。
 
(此の地球上で神戸に大地震が起きるという場所を限定している理由が分からない。星の運行は地球全体に重力の影響を与える。それを1個所に限定する理由は分からない。地球自身にも固有な循環作用があることは理解出来るが、これは、星の運行による占星学だけで決定つけられるのか疑問がある。やはりシバ魔人が1月18日に決定し、シバ魔人の主催しているフリーメーソンが人工地震を起こしたのか!忍)。
 
その占星学によれば、1995年は冥王星が蠍座から射手座へ宮(きゅう)を移す。其の前後には必ず変動が起こる。
 
「95年の1月に冥王星が宮を移す--その正確な日付は、1月18日なのである。こうして『1月18日前後』が危険日として特定された。
 
更に続けて、地震の発生する場所についての検討が加えられた。兵庫県--更に限定して 『神戸』という地名が飛び出した。神戸近辺に危険な地点がある。
 
『一番危険なのは神戸だ』
 
神戸近辺が震源--つまり『神戸で直下型の大地震がある』と麻原尊師は断定されたのである。
 
1月18日前後。神戸で直下型大地震。そのものずばりの予言が地震の十日前に完全な形で行われていたのである!」(「緊急速報 神戸地震!この惨事はけいこくされていた!」)
 
因みに、このカラー印刷物は、地下鉄サリン事件以前に配付されたものである。
 
---------------------(転載ここまで)
 
しかし、はっきりと言います。
 
「麻原彰晃」は「阪神大震災」を予言したのではありません。
 
あらかじめ「阪神大震災」が起きることを知っていただけです。
 
彼は超能力の持ち主ではありません。皆さんもご存知の通り、ただの俗人です。
 
以下の記事を見れば、彼がただの俗人であることは明らかでしょう。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
ダーキニーとは、オウム真理教教祖の麻原彰晃の愛人たちのことである。
 
■概要
 
オウム真理教の出家信者の戒律には、「不邪淫」というものがあり、配偶者・恋人以外との性行為やオナニーが禁止されていた。
 
また、夫婦であっても出家したら別々に住むことを強制された。
 
ところが、麻原本人は「最終解脱者」とされ、戒律をも超越する存在とし、麻原専用の一種のハーレムを設けていた。
 
麻原は大奥制度を確立した徳川家光の生まれ変わりとされたため、同様の組織を設けても構わないという理屈である。
 
宗教的な理由としては、「若い女性を高い次元に導いてやるために、左道タントライニシエーション(性行為)を最終解脱者の義務として施さなければならない」という論法が用いられた。
 
ダーキニーは延べ約30人おり、富士山総本部の第1サティアンと上九一色村の第2サティアンに住んでいた。
 
第2サティアンには常時10~15人が住んでいた。ダーキニーとされた女性は、ホーリーネームに「ダーキニー」という名前が入っていることが多かった。
 
名前の由来は、愛欲神荼枳尼天の梵語発音のダーキニーから来たものと思われる。
 
■麻原の性的嗜好
 
およそ15歳から25歳までの多数の若い女性信者と「左道イニシエーション」という修行と称して性交していた。
 
若い女性ばかりが選考されたのは、麻原が処女を好み、固執したからである。
 
また、女性信者の陰毛を名前のラベルを付けた小瓶にコレクションしていた。押収された小瓶は100本近くあったという。
 
精液を飲ませる行為を、神の血液を与える神聖な儀式として行っていた。また愛人同士で麻原の精液を口移しさせたりもした。
 
若い頃の麻原は、自分の性器を「ずいぶん小さい」と悩んでいたという。
 
しかし、「大きい性器を持ち合わせている者」は(前世での性的カルマが根深いため)解脱に至るのに苦労する。
 
むしろ小さい者の方が有利であると悟り、そのことをサマナたちに説法したという。
 
---------------------(転載ここまで)
 
こんなただの俗人に、未来を予言する力などあるわけがありません。
 
そして、この俗人に過ぎない「麻原彰晃」は、実はチベット仏教の「ダライ・ラマ14世」と大の仲良しでした。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■オウム真理教とチベットの関係
 
ダライ・ラマ14世は、あの地下鉄サリン事件を起こしたカルトテロリスト集団であるオウム真理教の教祖・麻原彰晃の師であった。
 
オウム真理教の教義や教則などもその多くがダライを由来としているものであり、それだけダライは麻原およびオウム真理教に多大な影響を与えていた人物なのである。
 
ダライ・ラマ14世の存在があったからこそカルトテロリスト集団のオウム真理教がこの世に誕生し、地下鉄サリン事件その他の凶悪事件もこの世で発生し得たと言っても過言ではない。
 
そのような凶悪なカルト宗教を生み出すことに一役買った悪魔のような坊主が率いる「亡命集団」がもしもチベットの独立国家を建国などしようものなら、一体どのようなおぞましい政教一致国家が誕生するのか、想像するのも恐ろしい話である。
 
■ダライ・ラマ14世と麻原彰晃のツーショット写真
 

 

 

 

 


 


 
■オウム真理教の麻原彰晃とダライの関係
 
オウム真理教の起こした一連の凶悪事件は世界に衝撃を与えた。
 
1995年3月、日本の地下鉄で起こったサリン事件では12人が死亡し、5千人余りが負傷した。
 
2004年2月27日、東京地方裁判所は13の罪名で教祖の麻原彰晃に死刑を言い渡した。2006年9月、最高裁の抗告棄却によって死刑が確定した。
 
地下鉄サリン事件の発生後、平和を愛する世界中の人々が怒りの矛先を麻原彰晃とオウム真理教に向けていた頃、ダライは共同通信を通じて、「オウム真理教は仏教の教義を広める宗教であり、麻原彰晃は自らの友人である」との意見を発表し、大きな反響を呼んだ。
 
ダライはなぜこのような意見を発表したのか。
 
それは、麻原彰晃という邪教の指導者が実のところダライの「生徒」だったからだ。
 
ダライのこのような汚れた過去に対し、良心を失ったメディアは見て見ぬふりをし、二人の関係をなかったもののようにしている。

 
ダライはこれまで12回にわたって日本を訪れている。
 
1984年の訪問では当時29歳の麻原と会ったという情報もある。
 
麻原は1986年、インドを訪れた後にオウム真理教を正式に設立。翌1987年、麻原は再びインドを訪れ、ダライと会っている。
 
この時、ダライは麻原に対し、「親愛なる友人よ、日本の仏教はすでに退廃してしまった。このまま行けば、仏教は日本で消えてしまうだろう。あなたは故郷で本当の仏教を伝えなければならない。仏の境地を知るあなたは最良の人選だ。あなたが日本で布教することを私はとても嬉しい。そうすることは私の仕事を助けることでもある」との内容の発言を行った。
 
この会見時、ダライは麻原に祝福を与え、「師弟関係」を結んだといわれる。

 
ダライは自らの「生徒」の働きにとても満足していた。
 
1995年の事件が発生するまでの8年間、二人は5回にわたって顔を合わせ、手紙のやりとりをしばしば行っていた。
 
1989年、麻原は10万ドルをダライに寄付し、ダライは証書と推薦状をもってこれに返答した。
 
ダライは東京の関連部門にあてた推薦状の中で、「麻原彰晃は能力のある宗教的指導者であり、オウム真理教は大乗仏教を広め公共の善を促す宗教だ」とし、「オウム真理教への免税を許可するべきだ」とまで書いている。
 
オウム真理教はこの証明書と推薦状によって、日本政府が正式に承認する宗教団体となった。
 
その後、大量の資金を蓄積してサリンの研究と生産を行ったのは周知の通りだ。
 
麻原は日本で合法的な地位を得た後、ダライに感謝状を送り、「私たちの希望はチベットができるだけ早くチベット人の手に帰ることです。私たちはそのためにできるだけの援助をしていきます」と述べている。
 
麻原はダライの指示を受け、チベット地域に2回にわたってもぐりこみ、「布教活動」を行っている。
 
麻原はダライが自らの指導者であることを正式に認めている。オウム真理教の教義や教則なども多くがダライを由来とするものだ。
 
ドイツの週刊誌「フォーカス」は、「ダライの支援がなければ、麻原彰晃が自らの宗教帝国を作ることは不可能だった。ただの治療師であり詐欺師でしかなかった麻原が数年の短期間であっという間に大教団の教祖となるのも、ダライの支援がなければこれほど簡単ではなかったはずだ」と指摘している。
 
ダライが麻原をこれほど重用したのは、麻原からの金銭支援をあてにしていたためだけではなく、麻原を通じて日本の仏教を改革したいと考えていたためだ。
 
ダライが麻原と結託したのは、「チベット独立」を支援する弟子たちを日本に増やしたかったからにほかならない。ダライのこの勝手な計算は邪教の崩壊という結果に終わった。自己の信徒の生命を損なう邪教が目立つ中で、ダライの高弟である麻原彰晃が作り出したオウム真理教は、教団外の罪のない人々をテロ攻撃する教団として、人々に大きな衝撃を与えた。(「鳳凰週刊」よりダイジェスト、編集MA)
 
---------------------(転載ここまで)
 
このような記事を読んでも、頭の固い人は「ダライ・ラマは悪くない、ただ麻原彰晃が道を踏み誤っただけだ」と考えるかもしれません。
 
しかし、「ダライ・ラマ」の信仰している「チベット仏教」も、結局のところ、「オウム真理教」とそんなに大した違いはありません。
 
どちらも淫乱邪悪な「悪魔教」に過ぎません。以下の記事をご覧いただければ、それが明白にお分かりいただけるでしょう。
 
〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。
 
しかし、問題はここからです。
 
実を言うと、この「チベット仏教」にも「麻生太郎」一族がとても深い関わりを持っているのです。
 
以前もこのブログでお話したことがありますが、チベットの国旗をデザインしたのは、実は「青木文教」という日本人です。
 
そして、この「青木文教」は日本の「西本願寺」から派遣された人物です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
青木 文教(あおき ぶんきょう、 1886年(明治19年)9月28日 – 1956年(昭和31年)11月7日)は日本のチベット(『日本のチベット』ではなく本物の方のチベット)研究者で僧侶。
 
チベット=西本願寺間の交換留学生としてチベットのラサ市に派遣され、ダライ・ラマ13世の教学顧問を務めた。
 
浄土真宗本願寺派末寺正福寺(現在の滋賀県高島市)の生まれ。
 
旧名・仏教大学(現・龍谷大学)在学時の1910年(明治43年)、西本願寺法主・大谷光瑞の命でインドで仏教遺跡調査、1911年(明治44年)ロンドンで教育事情調査に従事する。
 
同年、清国のチベット進軍を逃れてインドのダージリンに亡命していたダライ・ラマ13世に謁見し、学僧ツァワ・ティトゥーを日本への留学生として同行する。
 
1912年(大正元年)にインドにて再度ダライ・ラマ13世に謁見し、「トゥプテン・ギャンツォ」のチベット名を与えられ、チベットへの入国を許され、ラサ入りを果たす。
 
多田等観とともにラサに滞在したが、多田等観がセラ寺で修行生活を送ったのに対し、青木文教はラサの街に居住し、特技の写真撮影の腕を活かして多くの当時のチベットの風景・文物を記録した。またチベット仏教を研究し、主にチベットの市井で多くのチベット仏教に関する文物を収集した。また、文法学や歴史学などを学ぶ傍ら、ダライラマ13世の教学顧問として近代化のための助言を行った。
 
雪山獅子旗のデザインもする。また今に言うバックパッカー的な存在だったとも伝う矢島保治郎が当時のチベットの軍事顧問であったとして共にデザインへ関与した説もある。
 

〈チベットの国旗・雪山獅子旗〉


 
大正4年(1915)に学院での学びを終え、ダライラマ13世よりサンビリクト(別名パンディタ)の学位を受ける。
 
そして、文教がチベットを離れる最後の一夜はダライ・ラマ13世と就寝したなど、深く現地に溶け込んだ。
 
(註・要するに、ホモ仲間だということです。)
 
1916年帰国。翌年1917年(大正6年)に河口慧海の持ち帰ったチベット大蔵経の所有権をめぐり、青木文教と慧海との間で論争が起きる(大正の玉手箱事件)。
 
1941年から終戦まで外務省調査部嘱託職員としてチベット問題研究に従事。戦後(1950年)東京大学文学部チベット語講師に就任。
 
---------------------(転載ここまで)
 
このように日本の「西本願寺」と「チベット仏教」はとても密接な関係があります。
 
しかも、この「西本願寺」から派遣された人物が、チベットの国旗をデザインしたということは、「西本願寺」の配下に「チベット」という国家があると考えても間違いにはならないでしょう。
 
つまり、「チベット仏教」を裏から牛耳っているのが「西本願寺」だと考えられるわけです。(ちなみに、「西本願寺」とは「浄土真宗本願寺派」の本山になります。)
 
西本願寺 – Wikipedia
 

〈西本願寺〉


 
そして、ここからが問題なのですが、実は「麻生家」もこの「西本願寺」とはかなり密接な関係があるのです。
 
というのも、「青木文教」がダライ・ラマ13世に謁見したのと同じ頃、「麻生太郎」の曽祖父「麻生太吉」がこの「西本願寺」の勘定方(会計係)に任じられているのです。
 
以下、「麻生太吉」の年表です。
 

〈麻生太吉〉


 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
1857年 – 7月、筑前国嘉麻郡栢ノ森村(現在の福岡県飯塚市柏の森)に村の庄屋(今でいう村長)を務めていた父賀郎、母マツの子として生まれる。幼名は鶴次郎。
1868年 – 1月、村に対する貸渡金595両余を免除したことにより倅代まで“大庄屋格”を申し付けられ、麻生の苗字名乗りを許される。
1869年 – 上野彦三郎の私塾に入り修学
1871年 – 6月、檀那寺川島正恩寺住職井上誓存について修学
1872年 – 太吉と改名。目尾御用山を共同で採掘し、初めて炭山開発事業に着手(麻生炭坑の興り)。11月、立岩村副戸長。
1873年 – 2月、福岡県鞍手の吉川半次郎6女ヤスと結婚。10月、忠隅山王谷採炭。11月、有井山採炭。
1874年 – 11月、長女マツ誕生。
1876年 – 2月、次女タケ誕生。
1877年 – 9月、有井開ヶ谷坑採炭。
1878年 – 9月、母・ヤス死去(44歳)。12月、川島村立岩村戸長(~1881年11月)
1879年 – 1月、有井泉ヶ谷坑採炭。
1880年 – 4月、鯰田浦田坑及寺ヶ坂坑、綱分煽石坑採炭。10月、平恒煽石山採炭。
1881年 – 2月、泉鳥羽坑採炭、網分傍子ヶ浦煽石坑を採炭。11月、立岩村戸長(~1882年10月)。
1882年 – 3月、鯰田大師坑採炭。7月、長男太右衛門誕生。
1883年 – 4月、立岩村川島村戸長(~1884年4月)
1884年 – 1月、有井下鳥羽坑採炭。2月、鯰田炭鉱開坑。
1885年 – 10月、忠隅炭坑採炭。12月、2男鶴十郎誕生。
1887年 – 1月、立岩村外四ヶ村村会議員当選。5月、父賀郎死去(68歳)。9月、3男太郎誕生。
1888年 – 1月、三緒社及び徳明社を組織。2月、嘉麻煽石社を組織。9月、嘉麻炭坑を株式会社化。
1889年 – 4月、鯰田炭坑を三菱に譲渡。5月、嘉麻煽石社社長就任
1890年 – 6月、笠松炭坑(通称:獅子場炭坑)開坑。
1891年 – 4月、筑豊興業鉄道株式会社常議員就任。7月、笠松炭坑廃坑。忠隅炭坑浸水事故。3女ヨネ誕生。
1893年 – 6月、4男太七郎誕生、11月、筑豊石炭鉱業組合常議員就任
1894年 – 4月、忠隈炭坑を住友家に譲渡。9月、上三緒炭坑開坑
1896年 – 3月、株式会社嘉穂銀行頭取就任。4月、若松築港株式会社監査役就任、12月、合資会社幸袋工作所取締役就任
1897年 – 4月、九州鉄道株式会社取締役就任。
1898年 – 8月、第6回衆議院議員総選挙福岡県選挙区より出馬、当選。
1901年 – 5月、豆田炭坑開坑。
1902年 – 1月、藤棚炭坑を譲り受ける。5月、4女ふよ誕生。
1903年 – 4月、笹原炭坑経営に参画
1905年 – 1月、九州コークス株式会社取締役。
1906年 – 4月、綱分炭坑開坑。7月、南満州鉄道株式会社設立委員。
1907年 – 7月、藤棚本洞両炭坑を三井鉱山に譲渡。
1908年 – 10月、嘉穂電燈株式会社取締役社長。11月、久原炭坑買収。
1909年 – 5月、吉隅下臼井炭坑開坑。11月、西本願寺より本山勘定方を依嘱。
1910年 – 3月、山内農園を開始
1911年 – 3月、筑豊石炭鉱業組合総長就任 9月29日、貴族院多額納税者議員 9月:孫太賀吉誕生
1913年 – 7月、九州水力電気株式会社取締役
1916年 – 6月、大分紡績株式会社取締役
1917年 – 11月、東洋製鉄株式会社取締役
1918年 – 5月、麻生商店を株式会社化し、社長に就任。6月、貴族院議員2期目
1921年 – 7月、渋沢栄一、中野正剛らと共に国士舘維持委員。10月、石炭鉱業連合会長就任。
1924年 – 6月、杖立川水力電気株式会社社長、9月、夫人ヤス死去(68歳)
1927年 – 3月、朝鮮総督府より安眠島の払い下げを受け、5月、安眠島林業所を開設。
1928年 – 11月、筑後電気株式会社社長就任
1929年 – 12月、九州産業株式会社社長就任
1930年 – 3月、日本産業協会評議員。4月、延岡電気株式会社社長。8月、九州保全株式会社社長。10月、九州電気軌道株式会社取締役。12月、昭和電燈株式会社社長。
1931年 – 1月、九州電気工業株式会社社長。3月、全国産業団体連合会委員及西部産業団体連合会委員長。6月、小国水力電気株式会社社長。
1933年 – 3月、福岡県国防会参与。7月、嘉麻興業株式会社設立。11月、九州産業鉄道、九州産業合併。セメント製造業に参入し、産業セメント鉄道株式会社設立。12月、死去。従五位に叙せられる。
 
---------------------(転載ここまで)
 
このように「麻生家」は「西本願寺」と密接な関係があるのです。
 
そして、その「西本願寺」はチベットと深い関わりがあり、そのチベットの最高指導者「ダライ・ラマ」から「オウム真理教」が誕生し、その「オウム真理教」の教祖「麻原彰晃」が前もって「阪神大震災」が起きることを知っていた……。
 
このように、「麻生家」一族と「阪神大震災」とは明白なつながりがあるのです。
 
しかも、「阪神大震災」なる人工地震を起こしたのは、アメリカの建設会社「ベクテル」の仕業であるという噂があります。
 
というより、これまた「麻原彰晃」が「阪神大震災」と「ベクテル」との関係についてはっきりと明言しているのです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
オウムの予言には、その後があった。
 
公にはされなかったが、3月・静岡、4月・大阪 9月・東京に地震が起こるという話も流されていた。
 
その話は少なくとも2月上旬には、信者獲得の為に語られていた。
 
地震から免れたければオウムに入れ、今入信すれば2ヶ月分の食糧を提供し、核戦争に備えてシェルターに避難する事も出来るとも説いていた。
 
そして、そのオウムの話の中には、すこぶる興味深い情報が入っていた。
 
「外資系のベクテル社というボーリング会社が工事に参加した所で地震が起こる。彼等は活動層を狙って地震の種を仕掛けている。その会社は淡路島でも工事をやった。東京近郊は府中、国立付近。埼玉付近にもある」というのである。
 
●闇の世界政府「300人委員会」がレーガン政権に送り込んだベクテル人脈
 
オウムが具体的に名前を挙げた「ベクテル社」とは、米国のフーヴァーダム、サンフランシスコ・ベイブリッジ、スリーマイル島を含む全米の52%の原子力発電所、アラビア横断パイプライン等の建設、世界最大のニューギニアの銅鉱山、サウジアラビアのアルジュベール新産業都市全体設計、中国のジュンガル石炭開発計画等を行っている最大の建設・エンジニアリング会社「ベクテル・グループ・インコーポレーション」の事で、日本のダムや原発建設にも参画している。
 
1898年に創立した同社は、創立者とその同族が株の大半を所有し、しかも株と業務内容は一切非公開で(だから日本人はウォール街とロンドンのシティの株式市場を信用しているから、本当の最重要企業は隠されている事が分かっていない!忍)、レーガン政権時代に、ジョージ・P・シュルツ国務長官(元社長)、キャスパー・W・ワインバーガー国防長官(元副社長)の二人を閣僚に送り込んだ企業である。
 
ジョン・コールマン博士『300人委員会』(歴史修正学会訳、KKベストセラーズ)によると、このシェルツは闇の世界政府「300人委員会」が選んだ国務長官で、ヘンリー・キッシンジャーの子飼いであった。
 
キッシンジャー・コネクションを胡散臭いと思っている国々に接近する役目を担っていたのが、ベクテル社でありシュルツであった。
 
全米の原発の半分以上を建設しているベクテル社は、日本を含む他の国々の原発も手掛け、日本列島の中でも同社が参加している施設は、地震兵器が仕掛けられる可能性があると、オウムはいう。
 
現在のボーリング技術では、地中数百メートルどころではなく、1キロを越える深さまで掘る事が出来る。
 
先に挙げたソ連の地震兵器は「小さな核爆発」で「大きな地震」を起こす事が出来るが、深くボーリングした個所に「小さな核爆発」を起こす物を埋め込んでおけばいいことになる。
 
---------------------(転載ここまで)
 
「麻生家」はセメント会社を経営しているので、世界中のゼネコン(建設会社)と深い関係があることは明らかです。
 
「ベクテル」と「麻生セメント」も、何かしら契約関係を持っていたとしても何ら不思議ではありません。
 
そもそも、「ベクテル」のようなアメリカの会社が日本で仕事ができるのも、「麻生太郎」のような政治家の力があってこそでしょう。
 
では、彼らの間にはどんなコネがあったのか。
 
この上のウィキペディアの記事に出てくる「ヘンリー・キッシンジャー」は、「CSIS」の理事を務めていて、「麻生太郎」もこの「CSIS」で何度もスピーチを行っています。
 
しかも、この「CSIS」は「東京財団」とも協力関係にあって、「東京財団」と「麻生太郎」はズブズブの関係でしたよね。(詳しくはこちら
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
(CSISの)理事長には、1999年よりサム・ナンが、同研究所所長最高経営責任者には、2000年4月よりジョン・ヘイムリがついている。
 
また、ヘンリー・キッシンジャーやカーラ・ヒルズ、リチャード・アーミテージ、ズビグニュー・ブレジンスキーが理事を務め、顧問にはキッシンジャーと弟子のブレント・スコウクロフトがいる。
 
彼らの多くはアメリカ国家安全保障会議の国家安全保障問題担当大統領補佐官でもあった。
 
日本人では小泉進次郎や、浜田和幸、渡部恒雄などが一時籍を置いた。現在では日本から多くの将来有望な若手官僚や政治家(候補含む)がCSISに出向して学んでくる慣習が確立している。
 
日本部には、防衛省、公安調査庁、内閣官房、内閣情報調査室の職員の他、日本貿易振興機構や損害保険会社、日本電信電話の職員も、客員研究員として名を連ねている。
 
また、日本の現役政治家とも縁が深く、麻生太郎や安倍晋三なども度々CSISを訪れ、講演でスピーチを行っている。
 

〈CSISでスピーチする麻生太郎〉


 
CSISは日本では公益財団法人東京財団(日本財団の下部組織)と協力関係にある。東京財団の他にも笹川平和財団、特定非営利活動法人世界開発協力機構がフェローシップ・プログラムの提携を行っている。
 
また、2011年には日本経済新聞社と共同で「日経・CSISバーチャル・シンクタンク」の創設を発表し、2012年に立ち上げた。
 
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このようなわけですから、「麻生太郎」と「ベクテル」は「キッシンジャー」を介して一つにつながっているわけです。
 
ヘンリー・キッシンジャー – Wikipedia
 

〈ヘンリー・キッシンジャー〉


 
で、「麻生太郎」が「ロスチャイルド」とのコネを使って、日本の水道事業をフランスの「ヴェオリア」に発注していたのと同じように、「キッシンジャー」とのコネを使って、日本のボーリング工事をアメリカの「ベクテル」に発注していたということでしょう。
 
で、ボーリング工事をする傍ら、地震の種をあちこちに植え付けさせた、というわけです。
 
しかも、ゼネコンが動けば、当然、「麻生セメント」にも巨額のお金が入ります。まさに一石二鳥です。
 
そして、もし本当に「ベクテル」が「阪神大震災」を起こした犯人であるのなら、「麻生太郎」がこの事実を知らないわけがない。
 
というより、「麻生太郎」の指示によって、「ベクテル」が人工地震を起こしたと考えた方が自然です。そう考えた方が筋が通ります。
 
で、日本の有名陰謀論者たちには、いつものように「ベクテル」が怪しい、やはり「アメリカ」が人工地震の犯人に違いないと言って、相変わらずアメリカ叩きをやらせておくわけです。
 
本当にえげつないやり方です。
 
しかし、このブログでこれら一連のカラクリが暴露されてしまった今、これからは有名陰謀論者のインチキ・デタラメに騙される人もどんどん減っていくことでしょう。
 
ということで、最後に「関東大震災」についても述べておきます。
 
「関東大震災」が人工地震であるという証拠は、以下の記事を読めば、すぐにご理解いただけるはずです。(これは昨年の6月に私が書いた記事です。)
 
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「関東大震災」の起きた日時は「9月1日11時58分32秒」です。この数字を足してみます。すると、
 
「9」+「1」+「11」+「58」+「32」=「111」
 
きれいに「1」が三つ並びました。
 
竹下登の孫「DAIGO」と結婚した「北川景子」も、「1」という数が好きだからといって、婚姻届を「1月11日11時11分」に提出したとのことですが、彼らイルミナティの連中はこのように数字合わせを好みます。
 
北川景子ついにDAIGOと結婚!2016年1月11日に入籍 – NAVER まとめ
 
しかも、「111」に「大正12年(関東大震災の起きた年)」の「12」を足すと、ものの見事に「123」となります。まさに「ひふみ」ですね。
 
岡本天明の書いた「日月(ひふみ)神示」では、関東大震災によって「世の中がグレンとひっくり返る」と予言されていたわけですが、これが単なる偶然でしょうか。
 
そして、この「日月(ひふみ)神示」は、かの「国常立尊」から啓示を受けて書かれた予言書であり、この「国常立尊」によってかの「JAL123便」の墜落事故も引き起こされました。
 
日月神示 – Wikipedia
 
JAL123便を撃墜して520人もの乗客を殺した「国常立尊」とは何者なのか。3.11と御嶽山噴火にもなぜか垣間見えるこの神の正体。
 
しかも、「関東大震災」の9日前に当時の総理大臣「加藤友三郎」が死去。
 
加藤友三郎 – Wikipedia
 
死因は「大腸がん」とのことですが、果たして本当かどうか……。
 
一応、彼は元「海軍」だったようですから「出雲族」側の人間ということになりますが、「秦氏」に殺された可能性は大でしょう。
 
で、彼が死んだ後、臨時で「内田康哉」が総理大臣になったのですが、彼は「原敬」が暗殺されたときにも臨時で総理大臣になっています。同じ人物が二度も、臨時の総理大臣になったわけです。
 
このように、この当時は「総理大臣」が立て続けに不審な死を遂げていて、明らかに政界の中で何やら物騒な争いが起きていたように見受けられます。
 
恐らくこの時期は、「秦氏」の支配から「出雲族」の支配へと移行する一つの過渡期だったのでしょう。
 
だからこそ、これほど激しい争い合いが起きていたわけですが、ちょうどここ最近のこの世の中の動きと似ていますね。
 
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このように「関東大震災」が起きた時刻を足すと「111」という数字になります。
 
そして、「第一次橋本内閣」の誕生した日にちも「111」でしたね。
 
で、「竹下登」の孫と結婚した「北川景子」は「111」が大好き。
 
しかも、「関東大震災」が起きたのは「大正12年」であり、「111」にこの「12」を足すと「123(ひふみ)」。
 
「ひふみ」といえば「日月神示(ひふみしんじ)」であり、「日月神示」といえば「岡本天明」が「国常立尊」から受けた預言書であり、この「岡本天明」と同じく「国常立尊」を信じていた「出口王仁三郎」もまた、「関東大震災」の起きることをあらかじめ予言していました。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
大正十二年(一九二三)癸亥(みずのとい)九月一日 関東大震災。
 
王仁三郎はこの年の春に「今秋はじめに東京で大震災がある」と役員(寛清澄)に語っている。(寛清澄「月光記」『木の花』昭和二十五年十一、十二合併号)
 
王仁三郎は、この日熊本県山鹿温泉にいた。
 
「…瑞月氏はじめ一行は、湯上がりのよい心地になって暫らく午睡に落ちた。丁度この時間に東京方面大震災の最中であったとは後にてそれと知られたのであった。夜に入って宇知丸氏の霊界物語拝読が午の巻の第二章と第三章であったことが後で偶然かさなるは一種の不思議であったことも思い合わされた」(河津雄「西遊随行記」四。「神の国」大正十二年十月二十五日号)
 
とあって、王仁三郎が宇知麿に命じ読ませた箇所は、霊界物語三十一巻第二章「大地震」と第三章「救世神」であった。
 
翌日、震災の報が入った。
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「阪神大震災」が「麻原彰晃」によって予言されていたのと同様、「関東大震災」もまた「岡本天明」や「出口王仁三郎」によって予言されていたわけです。
 
ここにまた奇妙な一致点があります。
 
しかも、「関東大震災」が起きたとき、実は「麻生家」がこれまた例に漏れず、この大震災によってボロ儲けしています。
 
先ずは以下のウィキペディアの記事をご覧下さい。
 
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関東大震災(かんとうだいしんさい)は、1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒(日本時間、以下同様)に関東地方又は近隣で発生した大正関東地震による地震災害である。
 
神奈川県・東京府を中心に千葉県・茨城県から静岡県東部までの内陸と沿岸に広い範囲に甚大な被害をもたらした。
 
加藤友三郎内閣総理大臣が8月24日(震災発生8日前)に急死していたため、9月1日の地震発生時およびその後は内田康哉が内閣総理大臣臨時代理として職務を代行した。
 
東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)以前において、日本災害史上最大級の被害であった。
 
復興には相当額の外債が注入された。
 
その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。
 
モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本における1年の国家予算に対して6割を超えるものであった。
 
引受にはロスチャイルドも参加した。

 
金策には森賢吾が極秘で奔走した。
 
日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債・社債両面での対外債務を急増させた。
 
復興事業では電話の自動交換機が普及した。
 
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先ず、震災復興のために必要なお金を、日本政府は外国債を発行して掻き集めました。
 
しかもその発行額が、当時の国家予算の6割を超えていたとのこと。
 
そして、その莫大な外国債を「モルガン商会」と「ロスチャイルド家」が引き受けたとのこと。
 
つまり、「モルガン商会」と「ロスチャイルド家」がこの外債によってボロ儲けしたということです。
 
で、この「モルガン商会」も、実は名前を変えただけの「ロスチャイルド家」です。
 
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■モルガン商会は、アメリカの国家であり、法律であり、制度である。
 
1837年、米国のジョージ・ピーボディがブラウン・ブラザーズを通じてロンドンのビジネスに参入。ネイサン・ロスチャイルドの代理人となる。
 
ブラウン・ブラザーズのブラウン家はベアリング家の親戚である。ジョージ・ピーボディはギター・ピーボディ証券の一族でピーボディ基金の設立者として知られる。
 
この、ジョージ・ピーボディには子供がいなかったので、後継者としてジュニアス・モルガンを指名した。
 
これによりモルガン商会がロスチャイルドの秘密の米国代理人となる。
 
なぜ「秘密」なのかと言えば、当時、ユダヤ人は迫害されていたので、「ユダヤ人なんかから金を借りたくない」という人たちがいっぱいいたわけである。そういう人たちは、モルガン商会からお金を借りるという寸法である。
 
モルガン商会は「トラストのトラスト」と呼ばれ、十数社の鉄道事業を買収し再編成。
 
1892年にはGEを設立し電気事業を再編。
 
1901年には鉄鋼王カーネギーを買収してUSスチールを設立し鉄鋼業を再編。
 
1907年には全米の電話を独占するAT&Tを買収する。
 
第一次世界大戦時には、英仏両国政府から公式代理人として選ばれ、戦時国債を米国で販売。
 
米国における英国の公式貿易代理業者でもあり、あらゆる戦時物資を自らの所有する企業から購入して英国に送った。
 
1920年には死の商人デュポンと組んでGMを支配。
 
その他、テキサコ、IBM、シティバンク等にも投資を行い巨大化して行く。
 
この頃には「モルガン商会は銀行ではない。アメリカの国家であり、アメリカの法律であり、アメリカの制度である」とまで言われたほどの影響力を持っていた。
 
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「モルガン商会」とは、つまり「ロスチャイルド家」の秘密のアメリカ支部のようなものだということです。
 
当時は「ロスチャイルド家」についての悪い噂が世間に広く出回っていたので、「ロスチャイルド」と言う名前を公に使うことができず、やむなく「モルガン」という名前を使って活動していたわけです。
 
ですから、「関東大震災」のときにボロ儲けしたのは「ロスチャイルド家」だった、ということになります。
 
でもって、この「ロスチャイルド家」は明治維新のときから「麻生家」一族と大の仲良しでしたよね。詳しくは以下のリンクをご覧下さい。
 
「麻生太郎」とロスチャイルド家との強力なつながり。またはベンジャミン・フルフォードの正体。
 
ですから、「関東大震災」のときに「ロスチャイルド家」に儲けさせる振りをして、「麻生家」もまた日本の税金を自分たちのポケットに入れていた、というわけです。
 
で、「ロスチャイルド家」も「麻生家」も「秦氏」だったため、彼らの仇敵であった「出雲族」の「加藤友三郎」がガンを装って殺された、ということではないでしょうか。
 
しかも、上のウィキペディアの転載記事を見てみると、「関東大震災」のときに発行された外国債の半分が「火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた」とありますね。
 
実を言うと、「関東大震災」から7年後の「1930年」に、「麻生太郎」の曽祖父「麻生太吉」は電力会社である「昭和電燈」の社長に就任しています。(上の「麻生太吉」の年表を参照。)
 
つまり、当時の日本政府が最も税金をつぎ込んだ「電力事業」の会社に、「麻生太郎」の曽祖父「麻生太吉」が社長として就任し、ボロ儲けしていたわけです!!!
 
しかも、彼はそれ以外にも「九州水力電気株式会社」の取締役や、「筑後電気株式会社」の社長、「延岡電気株式会社」の社長、「九州電気工業株式会社」の社長など、各種電気・電力会社のトップに就任しています。(詳しくは以下のリンクをご参照下さい。)
 
麻生百年史 〈麻生グループ〉
 
恐らく、これらの会社にも次々と国民の税金が注ぎ込まれたのでしょう。
 
本当にどこまでしたたかな連中なのでしょうか。
 
まさに生き血を吸う寄生虫のような奴らです。
 
はっきりと言います。
 
「関東大震災」も「阪神大震災」も「東日本大震災」も、すべては「麻生家」一族が主犯となって起こした人工地震に他なりません。
 
そして、これら一連の震災によって「麻生家」一族が、被災者たちの死と苦しみを尻目にボロ儲けしていたのです。
 
これがこの世の裏側に隠された闇の真実なのです。

 

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