RAPT×読者対談〈第129弾〉動画の紹介記事。

コメント欄の

松浦氏グループ

つづき↓

 


現在の日本を牛耳っている人たちのほぼ全員が、「嵯峨天皇」にゆかりのある人物ばかりです。
 
つまり現在の日本では、「嵯峨天皇」の血を継いでいる人物、または深い関係のある人物が、この国のトップに就くことができる仕組みになっているのです。
 
そもそもの話、日本の内閣は以下の「五七の桐」を紋章として使っていますが、この「五七の桐」を作ったのが「嵯峨天皇」なのです。

 


 

副題が「麻生太郎と朝堂院大覚と嵯峨天皇」です。
 
「朝堂院大覚」というのは、有名陰謀論者の「ベンジャミン・フルフォード」などと結託して、嘘の陰謀論を垂れ流しているこの人です。
 

〈朝堂院大覚〉

 
そして、この人の動画を見る限りでは、やたらと偉そうに話をしていて、向こう側の世界でかなり重要視されていることがすぐに分かります。
 
朝堂院大覚 – Wikipedia
 

 
しかも、この人は「山本太郎」とか「立花孝志」とか、幸福の科学の陰謀論者「与国秀行」など、実に様々な人たちと対談しています。
 

 

 

 
つまり、この人たちは皆、裏で一つにつながっているわけですね。
 
しかも、これらの動画を見た限りでは、誰もがやたらと「朝堂院大覚」を尊敬しているように見えます。
 
では、どうしてこの「朝堂院大覚」はこんなに偉いのか。
 
これを調べていくと、またしてもこの「朝堂院大覚」と「麻生太郎」が深くつながっていることが分かってしまいました。
 
それと同時に、実は現代の日本の支配構造が、「空海」と同じ時期に活躍した「嵯峨天皇」のそれと全く同じであることも分かってきました。
 
嵯峨天皇 – Wikipedia
 

 嵯峨天皇のことは知らない人も多いと思いますが、「源氏物語」の主人公である「光源氏」、すなわち「源融(みなもとのとおる)」の父親です。
 
そして、結論から先に言いますと、この「嵯峨天皇」の直系の子孫が「朝堂院大覚」なのです。
 
だからこそ、彼はこのように多くの人々から崇敬されているわけです。
 
そして、この「嵯峨天皇」の子孫たち、およびその親族や関係者たちが、現在の日本を支配しているのです。
 
しかも、これまたご多分に漏れず、「麻生太郎」もまた直接の血のつながりはないにしても、「嵯峨天皇」とは深い関係があります。
 
この辺のことは後ほど詳しくご説明しますが、先ず「朝堂院大覚」と「麻生太郎」にどのようなつながりがあるのかをご説明したいと思います。
 
先ず、「朝堂院大覚」のウィキペディアの記事を見てみると、最初にこう書かれてあります。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
朝堂院 大覚(ちょうどういん だいかく)は松浦 良右〈まつうら りょうすけ〉、1940年〈昭和15年〉12月9日 – )が使用している自称。
 
武道総本庁総裁であり、空手道本庁宗家家元であり、団体を立ち上げている。
 
武道に秀でおり、居合道警視流の宗家家元、剛柔流空手道九段。
 
インターネットTVの連合組織である日本ネットTV報道協会をつくり、総裁に就任。
 
日本維新の会総裁。東亜ビル管理組合顧問。「全アジア条約機構推進委員会」委員長。
 
---------------------(転載ここまで)
 
先ずここに「日本維新の会」の「総裁」であると書かれてあります。
 
つまり、「日本維新の会」のトップだということです。
 
そのため、「日本維新の会」の母体となった「大阪維新の会」の「橋下徹」を、彼は昔から大絶賛しています。例えば、以下のように。
 

 

 
しかも、彼は「吉田茂」のことも大絶賛しているとのこと。
 
では、なぜ彼は「吉田茂」と「橋下徹」を同列において絶賛しているのでしょうか。
 
その理由は、恐らく「吉田茂」も「橋下徹」もどちらも「麻生太郎」と深いつながりがあるからでしょう。
 
「吉田茂」は「麻生太郎」の祖父ですし、「橋下徹」のブレーンが「株式会社・麻生」の「上山信一」でしたよね。「上山信一」についての詳細は、以下のリンクをご覧下さい。
 
「森友学園」問題の本当のカラクリ。日本の政治もマスコミも「麻生太郎」のために動かされている。
 
〈上山信一〉

 
つまり、「朝堂院大覚」は「麻生太郎」と深い関わりのある人ばかりを絶賛しているわけです。
 
ということは、「朝堂院大覚」と「麻生太郎」はグルであると考えられるわけですが、ではどうして彼らは一つにつながっているのか。
 
そのキーワードが、実は「嵯峨天皇」なのです。しかし、その話は後回しです。
 
先ず、「朝堂院大覚」が一体どのような人物なのかを見てみたいと思うのですが、一言で言うなら、彼は日本のヤクザです。
 
しかも、在日ヤクザと深いかかわりを持っています。
 
上のウィキペディアの記事を見ると、「朝堂院大覚」は「東亜ビル」の管理組合顧問に就任していると書かれてあります。
 
そして、この「東亜ビル」について調べてみると、ウィキペディアには以下のような記事が出ていました。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
TSK・CCCターミナルビル(ティーエスケイ・シーシーシーターミナルビル、英称:Toa Sogo Kigyo・Celebrity Choice Club)は、東京都港区六本木に存在した高級会員制クラブやレストラン、オフィスなどの複合ビル。
 
■概要
 
■東亜相互企業
 
暴力団「東声会」のトップとして知られ、レジャー開発などを手がける「東亜相互企業」を経営する在日韓国人の町井久之(本名は鄭建永)により、1966年に完成し町井の自宅がおかれていた「東亜マンション」と同じ敷地内に「現代人の憩いと対話の場所を実現するため」として建設され、1973年7月11日にオープンした。
 
建設資金は、東亜相互企業が韓国外換銀行の支払い保証約60億円の信用保証を受け、日本不動産銀行(後の日本債券信用銀行、現在のあおぞら銀行)より約54億の借款を受けることにより調達した(その内の21億円が建設関連費に回され、33億円を那須高原・白河高原の総合開発事業につぎ込んだ)が、最終的に建設費は建設会社に払われないままであったと伝えられている。
 
■東声会
 
なおTSK・CCCは、町井が自らの生業としていた「東声会」などの非合法活動から決別し、「東亜相互企業会長」という「表の社会の成功者」として振る舞うことを演出することを主な目的として建設されたこともあり(フロント企業)、東声会構成員は、TSK・CCCのオフィス棟に置かれていた東亜相互企業とそのグループ企業のオフィスに出入りすることが固く禁じられていた。
 
(註・もちろん、これは表向きの話でしょう。ちなみに、「CCC」とは「666」のことです。なぜそう言えるのかはこちらをご参照ください。)
 
■「Celebrity Choice Club」
 
元暴力団関係者が経営しているにもかかわらず、オープニングレセプションは読売新聞社の渡辺恒雄(その後同社会長)が運営委員を務め、司会は後に参議院議員となる女優の山口淑子が務めた。
 
さらにゲストとして町井の後見人の児玉誉士夫と親しい岸信介元首相や園田直衆議院議員などの政界人や、岡田茂三越会長などの財界人、三田佳子などの芸能人から各国の特命全権大使までが駆けつけた。
 
オープン後も、「Celebrity Choice Club(セレブリティーが選択するクラブ)」の名の通り、長嶋茂雄や石原裕次郎、E・H・エリックやデヴィ・スカルノ、アラン・ドロンなどの著名人が毎晩のように訪れるなどの盛況を見せた。
 
(中略)
 
■閉鎖と競売
 
「Club Vanilla」として営業されていた3階(2006年)
 
その後2002年9月に町井が死去したため、町井の長男の佐藤に所有権が移された。
 
しかしその後町井の債権者らによって競売にかけられ、敷地の約半分である約600坪が252億6000万円で落札されたものの、その後数度にわたり所有者が移転された。
 
なおこの競売には、2007年に朝鮮総連本部ビル売却問題で逮捕された緒方重威元公安調査庁長官や、2008年に経営破綻したリーマン・ブラザーズなどの外資金融機関も関与していたのではないかと噂された。
 
その後2007年4月1日には、最大のテナントであった「Club Vanilla」が閉店し、「東亜ビル管理組合顧問」を名乗る朝堂院大覚や、いくつかの残ったテナントが立ち退きを巡って所有者らと争っていた。
 
しかしその後ビルの解体が進み、2008年3月一杯でビルは完全に解体された。
 
---------------------(転載ここまで)
 
このように「東亜ビル」は、在日ヤクザと深い関わりのあるビルなのです。
 
そして、そのビルを管理していたのが「朝堂院大覚」なのです。
 
しかも、「東亜ビル」を建設した在日ヤクザの「町井久之」について調べてみると、彼は暴力団「山口組」の三代目組長「田岡一雄」と盃を酌み交わし、彼の弟分になっています。
 
以下、「町井久之」のウィキペディアの記事です。
 
〈町井久之〉

 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
町井 久之(まちい ひさゆき、本名鄭建永〈チョン・ゴニョン、정건영〉。1923年 – 2002年9月18日)は、在日韓国人のヤクザ、実業家。東声会会長。東亜相互企業株式会社社長。釜関フェリー株式会社会長。在日本大韓民国民団中央本部顧問。若い頃は、「銀座の虎」、「雄牛」と呼ばれた。
 
(註・「牛」とか「虎」とか、つまりは「バアル」とか「国常立神」のことでしょうね。)
 
大正12年(1923年)、東京生まれ。昭和20年(1945年)の終戦直後、朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長となった。
 
そのころから(1945年)、事件屋の「中央商会」、興行会社の「中央興行社」を設立した。これらの会社をベースに、愚連隊・町井一家(関東町井一家)が形成された。
 
韓国建国後に韓国国籍を取得したが、その後も日本に住み続ける。
 
曺寧柱と出逢い「大アジア主義」の思想に感銘を受け、昭和32年(1957年)には東京・銀座で、町井一家を母体として「東洋の声に耳を傾ける」と云う理念のもとに、在日朝鮮人連盟(現:朝鮮総連)や在日朝鮮統一民主戦線などへの防波堤として東声会を結成した。
 
その後、東声会は、東京、横浜、藤沢、平塚、千葉、川口、高崎などに支部を置いた。構成員は1600人となった。
 
しかし急速な勢力拡大により、他のヤクザ団体が結束し、東声会は四面楚歌の状態に陥った。
 
さらに、警察の取り締まりにより、東声会の幹部多数が逮捕された。
 
このため昭和38年(1963年)児玉誉士夫の取り持ちで、三代目山口組・田岡一雄組長の舎弟となった。
 
同年11月9日午後6時9分ごろ、東京会館の前の路上で、東声会組員・木下陸男が、東京会館で行われた出版記念祝賀会から帰る途中だった田中清玄を銃撃した。
 
警察は背後関係を疑い、町井を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕したが、背後関係までは立件できなかった。結局、町井は起訴されなかった(田中清玄銃撃事件)。
 
昭和39年(1964年)2月、警視庁は「組織暴力犯罪取締本部」を設置し、暴力団全国一斉取締り(「第一次頂上作戦」)を開始した。
 
町井の東声会は、警察庁により広域10大暴力団に指定された。
 
10大暴力団は、神戸・山口組、神戸・本多会、大阪・柳川組、熱海・錦政会、東京・松葉会、東京・住吉会、東京・日本国粋会、東京・東声会、川崎・日本義人党、東京・北星会だった。
 
警察の圧力の強まる中、昭和41年(1966年)9月1日、町井は東声会の解散声明を発表した。
 
その一週間後、東京の池上本門寺で解散式が行われた。こうして彼はやくざ社会の表舞台から去った。
 
昭和42年(1967年)4月、町井は東声会を、企業色を前面に押し出した形で「東亜友愛事業協同組合」として再建し、自らは名誉会長となった。
 
(註・「友愛」ということは、つまり「フリーメーソン」関係の組織ということですね。)
 
町井はこの東亜友愛事業協同組合に資金提供を行っており、人事権も握っていた、と云われる。
 
なお、関東会も関東二十日会として復活した。
 
間もなく、「東亜友愛事業協同組合」は「東亜友愛事業組合」と改称された。
 
その後、町井は東亜相互企業株式会社を設立した。会長には児玉誉士夫が就いた。
 
東亜相互企業株式会社は、銀座で料亭「秘苑」を営業した。
 
昭和43年(1968年)、韓国より国民勲章・冬栢章を受勲した。
 
(註・どうしてただのヤクザが、韓国からこんな勲章をもらえるのでしょうか? それは彼がただのヤクザではないからでしょう。)
 
翌年釜関フェリー株式会社を設立し、就航させた。昭和46年(1971年)には、在日本大韓民国民団中央本部顧問に就任した。
 
昭和48年(1973年)7月、東亜相互企業株式会社は、六本木にTSK・CCCターミナルビルをオープンさせた。
 
この資金源については、韓国外換銀行東京支店が、東亜相互企業株式会社に、支払い保証約60億円の信用供与を与えた。
 
東亜相互企業株式会社は、60億円の支払い保証に基づいて、日本不動産銀行から54億円の融資を受けた。
 
東亜相互企業株式会社は、33億円を那須高原・白河高原の総合開発事業につぎ込み、21億円をTSK・CCCターミナルビル建設につぎ込んだ。
 
なおTSK・CCCターミナルビルは、町井が暴力団活動などの非合法活動から決別し、「表の社会の成功者」として振る舞うことを演出することを主な目的として建設されたこともあり、東声会の構成員は、TSK・CCCターミナルビルのオフィス棟に置かれていた東亜相互企業とそのグループ企業のオフィスに出入りすることが固く禁じられていた。
 
---------------------(転載ここまで)
 
この在日ヤクザの建てたビルを管理しているのが、「朝堂院大覚」なのです。
 
そして、この「朝堂院大覚」と有名陰謀論者の「ベンジャミン・フルフォード」や「与国秀行」、または政治家の「山本太郎」がつながっているわけですね。
 
なので、「ベンジャミン・フルフォード」も「山本太郎」も、完全に向こう側の人間なのです。
 
ちなみに、「山口組」三代目組長「田岡一雄」は、「日本財団」の「笹川良一」と飲み友達です。
 
そして、この「笹川良一」は実に広い人脈を持っていて、統一教の「文鮮明」とも大の仲良しだし、「金正恩」とも親戚だし、かつ「出口王仁三郎」と同じく「世界紅卍字会」の会員でしたね。
 
笹川良一 – Wikipedia
 
で、この「笹川良一」は「岸信介」や「吉田茂」とも親しい仲だったので、その孫の「安倍晋三」も「麻生太郎」も「統一教」や「山口組」や「北朝鮮」と一つにつながっているわけです。その証拠は以下のリンクをご参照ください。
 
「麻生太郎」と山口組と統一教会と北朝鮮とイスラム国。全ては裏で一つにつながっている。
 

 

 

これだけ見ても、この日本が在日ヤクザの関係者たちに牛耳られていることがはっきりと分かります。実に恐ろしい話です。
 
どうりで、日本には「在日」の政治家や有名人が多いわけです。
 
日本が朝鮮人に支配されているという証拠。「田布施システム」こそが朝鮮人と金融ユダヤによる日本支配の始まり。
 
しかも、「日本維新の会」の代表「松井一郎」は、幼い頃から「笹川良一」に子分として従うような親しい間柄でしたね。詳しくは以下のリンクをご参照ください。
 
「森友学園」問題の本当のカラクリ。日本の政治もマスコミも「麻生太郎」のために動かされている。
 
〈松井一郎〉

 
そのため、「山口組」と親しい「朝堂院大覚」が総裁として君臨している「日本維新の会」に、同じく「山口組」と親しくしていた「笹川良一」の子分「松井一郎」が、代表として選ばれたわけでしょう。
 
少し話がややこしいですが、以下の人々はヤクザの「山口組」を中心に一つにつながっているわけです。
 
■朝堂院大覚 → 町井久之(東声会組長) → 田岡一雄(山口組三代目組長) → 笹川良一 → 松井一郎 → 橋下徹 → 上山信一 → 麻生太郎 → 安倍晋三
 
日本の政治家たちがやたらと「朝鮮人」を敬っているのも、こうして在日ヤクザが彼らのトップに君臨しているからでしょう。
 

 
このように「朝鮮飲み」などをしてきちんと朝鮮人に礼儀を示さないと、政治家としての生命をすぐさま絶たれてしまうのでしょう。
 
さらに、「朝堂院大覚」のウィキペディアの記事を見てみると、彼がどれほど多くの政治家たちを配下に従えているかがすぐに分かります。
 
以下、「朝堂院大覚」のウィキペディアの記事です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
後藤田正晴(元警察庁長官、田中角栄内閣内閣官房副長官、中曽根内閣内閣官房長官)より、経済協力・経済支援を申し入れられ、資金援助を開始する。
 
1975年、社会民主主義国際組織での出会いにより、PLO執行委員会議長・パレスチナ自治政府大統領ヤセル・アラファトとの交友が始まる。
 
松浦は5回ほどベイルートを訪れ、1981年には後藤田と共に、アラファトを来日させた。
 
1977年、フィリピンで投獄中の政治家ベニグノ・アキノ・ジュニアの死刑回避を求めるため、石原慎太郎を同行させ、マルコス大統領を訪問する。
 
1977年から1982年3月において、資金困難に陥った、小池百合子(2016年・東京都知事当選)の家族への資金援助を行い、エジプトへ移住させ、商号「ナニワ」というレストランを経営させた。
 
1978年、スパイ防止法制定を目的に設立した法曹政治連盟総裁に就任。井本台吉検事総長、横井大三最高裁判事、佐藤立夫早稲田大学名誉教授(憲法裁判所創設委員会会長) らがメンバー。
 
1978年、エジプトにて、日本政府の自民党・毛利松平を伴い、エジプトのアサド大統領と会談し、トファミ副首相と交渉し、第4次中東戦争の終結と、日本エジプトの外交関係を構築の為の立役者になった。
 
1979年、赤軍ダッカ日航機ハイジャック事件において、赤軍からの小菅刑務所の未決勾留5名とJAL乗客との交換要求に関し、福田内閣は「人命は地球より重し」と超法規処置により、未決勾留5名を解放し、JALの乗客解放に至った。その後5名はアルジェリアに滞在した。
 
自民党園田官房長官から朝党院への依頼により、朝堂院が、アメリカCIAのアルジェリア軍事訓練担当のアメリカントレード&ファイナンスの社長と交渉し、10億円を支払うことを条件に、5名の人間を日本へ引き渡すことを一旦成立させた。福田内閣は条件を呑まずに、その交渉は不調に終わった。
 
1979年、八重洲画廊の真鍋と組んだ、大和証券の菊一社長の30億円の背任横領の事実を突きつけ、菊一社長を退任させた。そして、一端、退任させられていた土井副社長を元の職に戻し、その後土井社長の就任に全面的に協力し実現をはかった。
 
1980年、非核諸国同盟会議を開催。アラファト議長、カストロ議長、後藤田正晴等が参加した。
 
1982年、ニカラグア運河開発計画を発表。国際運河開発公団の総裁に就任。ニカラグア大統領のダニエル・オルテガと計画を進める。
 
1982年3月、ナミレイ会長就任中、同業で大手・高砂熱学工業の株式を買い占め、筆頭株主の力を盾に同社社長等を脅して業界提携やナミレイの株式引き受けを強要したとして、当時ナミレイ社長だった実兄の松浦幸作ほか、ナミレイの他の役員等と共に強要罪で(相手方に電話をして怒鳴り上げたことを検事に同意したことによる)逮捕され執行猶予付き有罪判決を受ける。
 
取調中逮捕前、検事より「株には興味が無いから元警察庁長官である後藤田正晴の贈収賄での検挙への協力を」と要請されたが拒否した。
 
1987年、尖閣列島に中国の民兵が漁船で上陸しようとした。松浦が指揮をとり、石原慎太郎、自民党・毛利松平、園田直官房長官と団結し、政治結社石門社代表・関二郎、沖縄旭琉会・羽根地勲ら10人を尖閣列島へ上陸させ、戦後初となる大日章旗を掲げることに成功した。
 
1988年、国際宇宙法学会を創設。140ヶ国の学者による研究学会を発足させた。
 
早稲田大学の佐藤立夫名誉教授とともに憲法裁判所創設委員会を設立。
 
80年代から90年代にかけては、フランスのフランソワ・ミッテラン、イギリスのマーガレット・サッチャー等、東西各国の国家元首と交流を持ち、各国の活動を様々に支援。
 
発展途上国アフリカ諸国の社交場の運営をし、世界黒人会議という団体を主催していたことにより、1997年にマイケル・ジャクソンから、コンタクを熱望するアポイントが入る。
 
1998年7月に来日したマイケル・ジャクソンに空手道名誉五段を授与。また、「マイケル・ジャクソン・ジャパン」を立ち上げ、マイケルの希望によりレジャーランド設立を計画する。
 
---------------------(転載ここまで)
 
いやはや。日本国内外の政治家たちとかなり仲がよろしいようです。
 
これぞまさに日本のフィクサーですね。
 
彼は日本の政治家たちを、完全に自分の配下に収めているのです。
 
では、なぜ彼がこんな強大な権力を持っているのかというと、先程も言いました通り、「嵯峨天皇」の直系の子孫だからです。
 
そして、現在の日本を牛耳っている人たちのほぼ全員が、「嵯峨天皇」にゆかりのある人物ばかりです。
 
つまり現在の日本では、「嵯峨天皇」の血を継いでいる人物、または深い関係のある人物が、この国のトップに就くことができる仕組みになっているのです。
 
そもそもの話、日本の内閣は以下の「五七の桐」を紋章として使っていますが、この「五七の桐」を作ったのが「嵯峨天皇」なのです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■日本政府の紋「五七の桐」を知っていますか
 

 

 
これは“五七の桐”と呼ばれる日本政府の紋章だ。しかし、その歴史背景を知る人は多くないのではないか。
 
「五七の桐の由来は今から1200年以上前に、嵯峨天皇によって創案されました」
 
銀座で「きものギャラリー泰三」を経営する高橋泰三氏によれば、“五七の桐”にはそれを作った嵯峨天皇の「思い」が込められているという。
 
「古来から、聖天子の時代が来るとその瑞兆として鳳凰が現れると伝えられていますが、鳳凰は桐の木に宿り、竹の実をついばむとされています。すなわち桐は聖天子の象徴であるため、この故事を愛でた嵯峨天皇は、桐花をモチーフにしてこの紋章を作ったのです。きっと、自らを聖天子だと誇示したかったのでしょう」
 
---------------------(転載ここまで)
 
で、かの「豊臣秀吉」もこの「嵯峨天皇」に憧れて、「五七の桐」を自らの家紋としたようです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
■「五七の桐」を切望した秀吉
 
さらにこの桐花紋は、天皇家に功績のあった臣下に下賜されることがありました。
 
足利尊氏や織田信長、豊臣秀吉、徳川家康です。
 
尊氏はすでに足利家としての家紋があったので、これを室町幕府の紋として使用しました。
 
五七の桐を一番欲したのは秀吉で、彼は五七の桐をアレンジして太閤桐をも作っています。
 
家康は桐花紋を下賜されることを断りましたが、隠居地である駿府では使っていたようです。
 
---------------------(転載ここまで)
 
で、この「豊臣秀吉」の家臣として仕えていたのが「毛利家」で、この「毛利家」の子孫たちが現在の日本を支配している、という話は前から何度もしてきましたね。例えば以下の記事になります。
 
RAPT×読者対談〈第122弾〉現代日本の支配構造は、安土桃山時代と全く同じ。
 
このように現代日本の支配者たちは、「嵯峨天皇」のことを崇めているからこそ、内閣の紋章として「五七の桐」を使っているわけです。
 
さらに言うなら、「朝堂院大覚」に資金提供しているのが「後藤田正晴」で、この「後藤田正晴」は「忌部氏」の末裔だと言われています。これは以下の記事でもお話しましたね。
 
RAPT×読者対談〈第127弾〉イルミナティの終焉まであとわずか。
 
そして、「忌部氏」は天皇の行う「大嘗祭」に関わる氏族なのですが、実を言うと、かの有名な「真言宗」の僧侶「空海」もまた「忌部氏」なのだそうです。
 
空海と忌部氏:ダ・ヴィンチ・コードの解説!
 
ちなみに、「大嘗祭」について私が書いた記事が以下になります。
 
天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。
 
そして、この「空海」が今のように有名になれたのも、実は「嵯峨天皇」のお陰です。
 
というのも、「嵯峨天皇」は兄の「平城天皇」との間で「薬子の変」という戦争をしているのですが、この戦争のときに「空海」が「嵯峨天皇」の勝利を祈って、実際に「嵯峨天皇」が勝利したために、その後、「空海」の名が高められることになったそうです。
 
以下、「薬子の変」のウィキペディアの記事です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
薬子の変(くすこのへん)は、平安時代初期に起こった事件。
 
大同5年(810年)に平城上皇と嵯峨天皇とが対立するが、嵯峨天皇側が迅速に兵を動かしたことによって、平城上皇が出家して決着する。
 
平城上皇の愛妾の尚侍・藤原薬子や、その兄である参議・藤原仲成らが処罰された。
 
(中略)
 
なお、僧・空海は嵯峨天皇側の勝利を祈念し、以降、日本仏教界一の実力者になる契機となった。
 
---------------------(転載ここまで)
 
で、この「空海」の開いた「真言宗」は、今では日本で大きく幅を利かせています。
 
「真言宗」の僧侶「池口恵観」が、現在の日本の総理大臣である「安倍晋三」の指南役をやっているほどです。詳しくは以下のリンクをご参照ください。
 
天皇家と安倍首相と永田町の政治家が「密教」を信じる悪魔崇拝者であるという確たる証拠。
 
では、どうしてこんなに「真言宗」が強大な力を持っているのかというと、「嵯峨天皇」が特別に「空海」を贔屓にしていたからでしょう。
 
そのため、「嵯峨天皇」の末裔である現在の日本の支配者たちは、「空海」を神のように崇めるしかないのです。
 
しかし、その「空海」の開いた「真言宗」は、完全なる悪魔教でしたね。詳しくは以下のリンクをご参照下さい。
 
〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。
 
ですから、現在の日本のトップたちが「悪魔崇拝者」に成り下がってしまうのは当然のことなのです。
 
では、ここで「朝堂院大覚」がどうして「嵯峨天皇」の直系の子孫だと言えるのかをご説明します。
 
先ず、彼の本名は「松浦良右」です。
 
つまり、「松浦家」ということになります。
 
そして、「松浦家」の元祖は「渡辺綱(わたなべのつな)」という人物です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
松浦氏(まつらし)は、日本の氏族の一つ。
 
松浦氏の系譜については諸説あるが、渡辺綱の子孫とするのが通説。中世には肥前・壱岐の水軍衆である松浦党をなした。
 
---------------------(転載ここまで)
 
で、この「渡辺綱」は「源融(みなもとのとおる)」の子孫なのだそうです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。源宛の子。
 
嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。
 
通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。
 
---------------------(転載ここまで)
 
で、この「源融(みなもとのとおる)」は先程もいいました通り、「嵯峨天皇」の息子でしたよね。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
源 融(みなもと の とおる)は、嵯峨天皇の十二男。
 
侍従、右衛門督、大納言などを歴任。
 
極位極官は従一位左大臣に至り、また六条河原院を造営したことから、河原左大臣(かわらのさだいじん)と呼ばれた。死後正一位を追贈されている。
 
---------------------(転載ここまで)
 
ですから、「松浦良右」もまた「嵯峨天皇」の直系の子孫だと考えられるのです。
 
図にすると、こうなります。
 
■嵯峨天皇 → 源融(息子) → 渡辺綱(子孫) → 松浦氏(子孫) → 松浦良右
 
だからこそ、「朝堂院大覚」はこれほどの強大な権力を持っているのです。
 
しかも、「朝堂院大覚」と「嵯峨天皇」の血のつながりを立証するかのように、「朝堂院大覚」の「大覚」という名前も、実は「嵯峨天皇」とゆかりの深い名前であることが分かりました。
 
というのも、京都には「大覚寺」というお寺があるのですが、この「大覚寺」を建てたのが「嵯峨天皇」なのです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。
 
山号を嵯峨山と称する。
 
本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。
 
嵯峨天皇の離宮を寺に改めた皇室ゆかりの寺院である。
 
また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇を流祖と仰ぐ華道嵯峨御流の総司所(家元)である。
 
時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画やテレビなどの撮影によく使われている。
 
---------------------(転載ここまで)
 
このように、「朝堂院大覚」は「嵯峨天皇」の建てたお寺を自分の名前として使っているのです。
 
これが単なる偶然でしょうか。
 
いいえ、そうではありません。
 
彼もまた「嵯峨天皇」と深いつながりがあるからこそ、「嵯峨天皇」の建てたお寺「大覚寺」の名前を自らの名前として使っているのです。
 
そして、ここで「麻生太郎」がまたしても関係してきます。
 
「麻生太郎」の祖父が「吉田茂」であることは有名な話ですが、この「吉田茂」の養父が「吉田健三」でしたね。(実の父親は「竹内綱」です。)
 
そして、この「吉田健三」の父親が、「渡辺健七」です。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
吉田 健三(よしだ けんぞう、嘉永2年(1849年) – 明治22年(1889年))は、日本の江戸時代後期の武士(福井藩士)、明治期の実業家。
 
昭和期の内閣総理大臣・吉田茂は養子、英文学者・吉田健一は養孫に当たる。
 
1849年、越前福井藩士・渡辺謙七の長男として誕生する。のち、絶家していた渡辺家の一門・吉田家を再興した。
 
---------------------(転載ここまで)
 
そして、この「渡辺健七」はその名の通り「渡辺家」の一門です。
 
そして、この「渡辺家」の先祖が、これまた先ほど出てきた「渡辺綱」なのです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。源宛の子。
 
嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。
 
通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。
 
---------------------(転載ここまで)
 
しかも、先程も言いましたように、「渡辺綱」は「源融(みなもとのとおる)」の子孫ですから、つまりは「嵯峨天皇」の子孫ということになります。
 
ですから、こういうことが言えますね。
 
■嵯峨天皇 → 源融(息子) → 渡辺綱(子孫) → 渡辺健七(子孫) → 吉田健三(息子) → 吉田茂(養子) → 麻生太郎(孫)
 
このように、「麻生太郎」もまた「嵯峨天皇」とは実に深いゆかりがあるのです。
 
そもそも、「麻生太郎」の「太郎」という名前を最初に作り出したのも、実は「嵯峨天皇」なのです。
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
太郎(たろう)は日本語の男性名。本来は長男を意味する輩行名で、当該の人物に個人名としてもつけられる。
 
日本において太郎という人名が登場したのは、嵯峨天皇が第一皇子の幼名に命名したのが初見とされる。
 
---------------------(転載ここまで)
 
しかも、「麻生太郎」の父方の祖父もまた、実は同じ「麻生太郎」という名前を使っていました。(「吉田茂」は「麻生太郎」の母方の祖父です。)
 
---------------------(以下、こちらから転載)
 
麻生太郎 (明治時代)
 
麻生 太郎(あそう たろう、1887年(明治20年)9月 – 1919年(大正8年)3月)は日本の実業家。
 
麻生太吉の三男として生まれ、麻生商店取締役を務めた。
 
同姓同名の第92代総理大臣は孫にあたる。
 
---------------------(転載ここまで)
 
ですから、「麻生家」も「太郎」という名前をとても重要視していたということです。
 
では、どうして彼らが「太郎」という名前をそんなに重要視していたのかというと、「嵯峨天皇」がこの名前を最初に作り出したからでしょう。
 
つまり、彼らもまた「嵯峨天皇」のことをそれだけ崇拝しているということです。
 
このように、現在の日本は「嵯峨天皇」の末裔たちによって完全に牛耳られているのです。
 
しかも、彼らは在日ヤクザともとても深い関係がある……。
 
では、どうして彼らが在日ヤクザとそんなに深いかかわりがあるのかは、次回以降の対談で詳しくお話しています。
 
どうぞお楽しみに。