人間でいたい

人間でいたい

愛と平和


暑い。
夏は、早い時間に起きて精力的に活動し、昼休みにエアコンの効いた部屋でスヤスヤ寝て起きてから本を読み、外が暗くなったら散歩へ出掛けるというのが好きだ。しかし、昨晩の夜ふかしが響いて11時半に起きた。このまま今日は家に居ようかとも思ったが善は急げで、どうしてもやりたいことがあった。

YouTubeを観てぼっーとしていると、関連動画が矢継ぎ早に流れ続ける。それで、先日の「名曲喫茶オーケン」で下川くんが紹介していたヒカシューのMVから関連して流れてくるヒカシューの動画を何本か眺めていた。眺めていた、というより別の作業をしながら曲を聴いていたといった感じだ。そういう時が何度かあって、イントロを聴いたら「このタイトルの曲だ」とパッと頭に浮かぶようになってきた。

このところ、何かと心が沈んでいる。理由は分かるようで分からない。とにかく、外へ出て人間らしく振る舞うこと自体が怖くて怖くてたまらないといった感じなのだ。近頃、どうも取り繕うのに必死である。ヘラヘラと人に合わせて笑うことが馬鹿らしく、そんな自分のことすらも気に入らず、どんどん心が萎れてゆく。ただ、それにも理由があんだからさ、大丈夫だって。と自分を励ますも手に力が入らない。物を手から落っことす。怒っている自分に怯えている。奇妙で、恐ろしい。

それで、ある晩「モデル」のMVが YouTubeで流れた時に、
何故か、自分がどこかへ還ってゆくような懐かしい衝動に駆られて、映像へ釘付けになった。
なんて綺麗な音なんだろう、と思った。
映像の中で身体を揺らしている3人のように、自分の身体からも力が抜けてふわっーと宙に浮いているような感覚だった。

そして、アルバム「ヒカシュー」を聴いていて、「幼虫の危機」という曲に衝撃を受けた。ひとたび、ヒカシューの好きな曲を「幼虫の危機」と答える人がいるのであれば、その人間を知り得てしまうのではと思えるぐらい、これがヒカシューか、と身に染みて震え上がった一曲である。

それから、専ら夜な夜なヒカシューの動画を観るのが日課になっている。特にお気に入りなのが、「びろびろ」のMV。いつも同じところで笑ってしまう。この力強さは、偉大だ。
ヒカシューのMVを観ている時間は、まるでそこに宇宙が広がっているような感覚で、時間が存在しないような、過去も未来もないような、そんな気分になれる。もはや、宇宙旅行である。
言い方が合っているかは分からないが、ただ無が、どこまでも広がっているように感じるのだ。
どこへも誘わず、押し込まず、その無が自分という存在をなぞるように、愛おしく思った。
日常ですら、ただそこにそびえ立つ木にでもなった気分で眺めることができる。とても心地良い。

本当はブログに書くのはやめようと思っていたが、世界を怯えずに恐れずにいる為には、踏ん張らなくてはならない。

それで、ヒカシューのことを色々と調べていた時に、ヒカシューの作文集(エッセイ)「ぼく、こんなにおバカさん」の存在を知った。
前置きが長くなったがつまり、
そのエッセイが国立図書館へ所蔵されていると知り、今日の外出に至ったということである。

本を手に取って頁をめくった時、微かに感じる紙のにおいに思わず抱きしめたくなった。
メンバーの生い立ちやキャラクター、各々の作曲の仕方や、ヒカシューのルーツなど、盛りだくさんの内容で夢中になって読んだ。
事前にネットで見た情報と違うと受け取れる内容もあり、まったく、情報という存在は身勝手で曖昧だということを思い知る(そこが面白くて救いなのですが)。

書きたいことは山ほどあるが、
特に印象的だったのは、
山下康さんの生い立ちを綴った「恐怖時代」にあった、「死ぬことが怖い」という一文だ。
生きてゆくのが怖い、と思うことがまるで共通認識のような時代に私は生きていて、
「死ぬことが怖い」という感覚が衝撃だった。それは、当時の時代背景に起因されていて、今と昔ではきっと違う苦しみを人々は抱えている。昔のほうが切羽詰まっていたんだ!ということではなく(それは考えてもきっと分からないから)、じゃあこの生きてゆくのが怖い、という感覚はどこに起因されているのだろうかと考えざるを得ない。そしていざ死、を考えるとやっぱり怖いのだろうと、怖くて怖くて仕方がないのだろうとも思う。

もうひとつ、
人間の女性の姿に扮した「仏陀」の写真マンガ物語も、良かった。
このエッセイは1981年、もう40年以上も前に出版されているのに、内容が今っぽいというか、身近に起こっていることで、あるよねえと感じさせられた。これは、「パイク」の映像にあった紙芝居の物語の時も感じた。
流行りとか現代病とか、何でも時代のせいという風に目に映りがちだが、人間が抱えてきた苦しみや悩みは、何故だろう、同じなのかもしれない、と思う。そう思うと、なんだか人間が愛おしい。少しだけ、心が安らぐ。
何かに扮する、という表現はヒカシューの特徴で、そのルーツを知ってより面白く感じる。
実際、生きていると何かに扮することは日常的に求められて、
それは至極苦痛で、絶望的なことだと思っていたのに、ヒカシューの世界ではおもしろ可笑しく心地良い。善も悪も、理性も欲も、自然も創造もないまぜで、地続きで、全てが存在しているのに存在していないような、そんな安心感を覚える。

プヨプヨと生きてさえいれば案外、なんとかなってしまうものかもしれないなんて思う。