ねらいなんて、やっぱり要らないんじゃないか。
ねらいを達成することに何の意味があるのか?
大人が勝手に設定したねらいを、子どもに達成させようとする意味はどこにあるのか?
子どもの実態を捉えたねらいにしないと、高すぎたり低すぎたりすると言うけど、ちょうどいいねらいなんて、大人が無理やり設定しなくたって、勝手に達成されるよ、成長と言う名の自然現象。

それよりも、大人がどんなスタンスで子どもに関わるのか。の方が大事。
こんな風に育って欲しい
あんな感じに育てたい
その理念はあってもよくて(ものによるけど。)
じゃぁ、そのために、日々どんなスタンスで関わるのか、どんな言葉掛けで関わるのか、
そっちを具体的に考える方が、よっぽどいいと思う。

大人の思う通りになんて、子どもは育たない。
だからってそれはダメなことなんかでは全然なくて、子どもは大人の予想をはるかに上回るってこと。
その子がどう育ちたいか。
ほんと、それに尽きる。
その子は何のために生まれたのか。
自分を生きるために生まれたのだ。
自分を生きないのだったら、自分なんて要らない。
でも、自分というものは、確実にここにある。
だったら、やっぱり自分を生きることこそが、自分として生まれてきたことの本当の意味なんじゃないかと思うから。

他の誰かになろうとしなくていい。
他の誰かにならせようとなんて、しなくていい。てか、するな!

ねらいは、誰かの考えに沿わせるためにある。だから嫌いなんだ。