(ジャンボ鶴田)プロレス入りまで | プロレスLOVE

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ジャンボ鶴田

本名 鶴田 友美(つるた ともみ)

広大なブドウ農園を営む家に生まれる。生まれた頃は体が小さく、女の子のようだからという理由で「友美」と名付けられた。
中央大学法学部政治学科1年生の頃までは、バスケットボールの選手であった。だが、バスケットボールではプロ選手になれないことや、日本のバスケットボールの実力では、予選に勝ってオリンピックに出場することができないということで、バスケットボール部を退部したということになっている。
選手層の薄いレスリングであればオリンピックに出場しやすいと考え、大学のレスリング部に入部を申し込むが、「一つのスポーツをやりとおすことのできない奴は何をやってもダメ」との理由で一旦は断られる。この時断った側の一人に関川哲夫(ミスター・ポーゴ)がいるが、彼の語るところによると鶴田の格闘技への思いは本物だったということで反省しているようである(ミルホンネット「ある極悪レスラーの懺悔」より)。そこで、自衛隊のレスリング道場で練習を始め、わずか1年半足らずで全日本選手権フリー・グレコローマン両種目とも2連覇(1971年、1972年)するほどの選手となった。大学3年次にレスリング部から逆に入部を勧められ、4年次に石井庄八、笹原正三、池田三男、渡辺長武、中田茂男ら金メダリストを輩出した名門中央大学レスリング部へ入部した。レスリング日本代表にも選ばれ、当初の目的通り1972年のミュンヘンオリンピックに出場する(グレコローマンスタイル100kg以上級)。
レスリングでの実績により、ジャイアント馬場からプロレスにスカウトされる。プロレスに対する偏見や評価などを考え葛藤したが、1972年9月16日、父親の死をきっかけに自分自身で人生に挑戦しようと思ったことと、大学の監督・先輩・マスコミなどからのアドバイス、日本レスリング界のドン八田一朗の「プロが栄えればアマも栄える」の言葉に励まされプロ入りを決意した。