堀江貴文さんのダイヤモンド社刊「ゼロ」を読んだ。何故読んだのかと言われると、ITの先駆けとして学生時代に起業し、一気に時代の寵児となり、果ては経済犯として2年半もの刑期を課された堀江さんが、今なお私には「出世しすぎたあげくに足を踏み外した」だけの人間には思えないのです。団塊の世代の私にさえ、なお魅力的な存在と映る、それは何だろうという疑問を解決したかった。
近年、振り込め詐欺など高齢者を狙った犯罪が後を絶たないということで問題になっています。その犯人グループに20歳前後の若者も多いと聞く。「悪事を働いても財を成せば、また社会は受け入れてくれるものだ」といった風潮を受け入れてはならない。だから、刑期を終えてまさしく「ゼロ」になった氏にいま触れるべきではないかもしれないのですが。
「ゼロ」を読み進めながら、読みやすいし、面白い。出版直後なのでネタばらしのようなことは言えないが、以下の部分。田原総一朗さんと話をしたときに「なぜネクタイを締めないのか」と言われた箇所です。堀江さんは「コモンセンス」と「コモンロー」は違うのだという。明文化されたルール(コモンロー)には従うが、ただの慣習にすぎないコモンセンスには従えない。
この一点が、すごいなと思わせられるところなのです。我々はなかなか社会の「縛り」の中から飛び出すことができない。かの吉本隆明は理論でやろうとしたんです(「共同幻想論」)。三島由紀夫は実践したんです(文化防衛論)。しかし、何も変わらなかった。堀江貴文はそれをITテクノロジーを武器に経済界でやろうとした。しかし社会の枠から飛び出す前に加速しすぎて、社会の外「塀の中」に飛び込んでしまった。堀江さんが垣間見せるいわば「脱パラダイム思考」が今の世代のみならず(飛び込むところが棺桶しかない)我々のような世代の共感をも生んでいるのだと思います。
「ゼロ」は何よりも、すべてを失った堀江さんが、若い人に希望を与える本であると思います。何もかもなくした人が、これほど大きな希望を与えることができるのです。